20

少女は未だ苦しげに謝り続けている。すすり泣くような、懇願の言葉がグレーの元に届く。グレーの血がぐっと沸る。それは正義の心だなんて大それたものではなかったが、確かに怒りだった。

「やめろッ!」

グレーは怒鳴った。車椅子は俊敏に、少女の元へと走った。その時理解できたのは、少女がリンネだったことと、何か不気味なほどに美麗な存在が、淡く光る足で少女の喉を踏みつけていることだけだった。リンネが目を見開く。助けて、と怯えている。

グレーは息さえできなかった。目の前に広がる、死を連想させるような冷たい美しさが、グレーの心を丸ごと凍りつかせ、声を失わせた。

しんと静まり返った空気の中、リンネは途切れ途切れに呻く。

「てん、しさま。この人は、関係ないんです、どうか、お慈悲を」

グレーは信じられない思いでいっぱいだった。リンネが縋り付く「それ」は、幼い頃ずっと聞かされてきた神話の中の姿と、あたたかみや優しさという観点でまるで違っていた。

本当に、これが天使様なのだろうか?

驚いた矢先、グレーの胸に再び怒りが蘇ってきて、怒鳴りつけた。

「リンネに暴力を振るうお前の、なにが天使だ!いますぐその足離さねえと、痛い目にあうぞ!」

天使様は険しい表情を何一つ動かさないまま、意外にも素直にリンネの喉から足を下ろす。天使様は殺人をすることができないのだ。それはもちろん、物理的な力がないというわけではない。

「はあ、今日は災難な日だ。帰ってあの方に慰めてもらいたいものだな。私が一番、あの方のために頑張っているというのに」

天使様はぶつぶつと独り言を呟きながら、背中についた左右の大きな翼をグッと伸ばした。グレーの怒りはなおも治らなかった。だから、天使様が本当に存在していることへの驚きよりも先に、積年からの怒りが表に出る。

「お前なんて、天使でもなんでもない。お前の無力な主人もろとも、地獄に堕ちてしまえ」

すると、不意に天使様を取り巻く空気が変化した。グレーは周囲が、どす黒い感情を煮詰めて密集させたような、グロテスクな景色に変わったように見えた。天使様の醸し出す空気に、世界が呑みこまれていくような、奇しさを感じた。

「あの方を侮辱することは、例えあの方であっても許さない」

気がつくと、天使様の細長い指は、すでにグレーの喉にかかっていた。グレーの息が止まる。ぐ、と呻くと天使様は、にたりと気味悪く悦に入る。やられる、とグレーは確信し、生存本能なのか、すっと息を思いきり吸い込もうとした。

「・・・まあいいでしょう。どうせ神の名の下では、余計なことはできませんし」

天使様は、グレーを解放すると、重力に反するように軽やかに、宙に浮いた。そしてグレーに向けて取り繕った微笑みを向け、ご機嫌よう、と小さく会釈をする。物腰の柔らかい気品のある流れだった。羽を揺らめかせるうちに、その身は少しずつ上へと近づいていく。白い光の鱗粉が、羽からさらりと地上に舞い落ちてくる。

グレーは白いかけらを全身に浴びながら、天使様が分厚い雲の中に吸いこまれて行くのを確認すると、すぐさまリンネに呼びかけた。リンネが苦しみながらも小さく呻いてくれたために、最悪の事態は回避できたと知れた。










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