【天使様と神様】


割れたロザリオが泥の中に落ちていた。嵐が去った後のような静かな大地に、何百、何千という死者が横たわっている。地上の者を責めるような毒々しい赤い空を、天使様は見上げた。清純な白い翼を目立たないように背に隠し、小さく眉を顰めた。

「派手にやったものだ」

足元に何かが触れたので見下ろすと、まだ完全に死んではいない兵士と目が合った。彼の黒い軍服は赤や土色や、経緯のわからない色にまみれていて、鉄の匂いがした。

「助けて、助けてくれ。水を、どうか」

からからに乾いた声で、その男は天使様に縋ってきた。もうちゃんと目も見えていないようだ。天使様はしばらくじっと観察していた。そして、慈悲を瞳に浮かべて、男の前に屈んだ。

「助けてほしいのですね」

男の目から歓喜の涙が溢れた。天使様は男の額にひたりと細くしなやかな指を当てる。すると、男の脳内に夢のような光景が広がった。見目麗しい踊り子達、世界中のあらゆる食材が彩る豪勢な食卓、白い雲の群れ、淡く優しい青い空。そして最後に巨大な門。男はその美しさに感激し、再び生きられることへの感謝に胸を震わせた。

 天使様の掌が男の額から離れる。汚いものを触ったというように、指を払った。ふ、とため息をついて肩をこきこきと鳴らす。男は死んでいた。

「念の為降りてきて正解でしたね」

きっともう生き残りはいないだろう。天使様の仕事は、完了した。

虚しく吹きつける風が、埃と死者の匂いを運んでくる。天使様は手でおぞましい臭いを払いながら、翼を勢いよく広げた。その羽は空気を震わせる。そのまま赤い空に向けてゆっくりと飛び立った。 

戦場がどんどん遠ざかっていく。それにつれ、少しずつ身体が冷たくなる。うんざりしていた。こうも戦争ばかりでは、いくら天に召しても死者が生まれるばかりで、まるで休めない。赤い空の色素がゆっくりと薄まっていく。天は、分厚い雲を突き抜けた先にあるのだ。翼に冷たい澄んだ空気を感じながら、上へと昇り続ける。ふと、何よりも愛おしい存在のことが頭に浮かんだ。天使様はその存在について想っている間だけ、熱を胸に宿す。

 数えるのも嫌になるほどの雲を何層も突き抜けた先に、目の覚めるような青い空がひらけた。どこからか美麗な音楽が聞こえてきていた。しかし天の門も、天界の宴も、天使様の速度が一瞬でかき消した。過ぎ去った後はハリケーンのような旋風が巻き起こった。早く会いたくて仕方がなく、天使様は翼が燃えそうになる程に飛ばしていた。

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