第9話 停戦協定【ロスト・プロミス】

「べ、ベートヴェン、モーツァルト、リスト、ワーグナー、ショパン、バッハ、ヘンデル、ラフマニノフ、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、メンデルスゾーン、シュトラウス、エルヴィィィィィッィィィィィィス! 私の大切な仲間達があああああああああああああああ! コノ糞悪魔ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」


 グノーシス中央聖教会大司教ソレイユ・バッドボーイは、白目を剥いて絶叫した。

 たった今、ソレイユが立つ教壇の向こうで黒い死神が繰り広げた惨劇に対する、魂の発狂であった。背後で、高さ44メートルのキリスト像が血の涙を流している。


 グノーシス中央聖教会大聖堂のど真ん中。惨劇の舞台の中央。悪魔が立つ場所。黒死焔山の、独壇場。オンステージ。シャットアウト。嘆息。独りごちた。


「ふん、手ごたえの無い奴らだ」


 ため息を一つ。焔山は血に濡れた銀剣を一振り。血糊を飛ばすと背の鞘に納めた。


「あ、あわわわわ……」


 血溜まりの上に立つ焔山の傍には、勿論小便ちびりのセィラ。腰を抜かしガタガタと震えている。


 死体が、焔山の側に13転がっていた。四肢欠損、頭蓋陥没、心臓割砕、身体切分。菊門裂傷。見るも無残な死体たちだ。どの死体も、歴戦の聖戦士の物である。セィラを奪還し、焔山を殺そうとした聖戦士達だ。焔山は、当然の報いだと思う。人を殺すような奴は、殺されて当然。それが、焔山の哲学であった。


 焔山は、時代が時代なら東京大学理Ⅲにも全科目満点合格を余裕で果たしたであろう知能を誇る。焔山の哲学、それはナザレのイエスの思想に等しい重みを持つ。時代が時代なら、焔山は、黒死焔山・キリスト・仏陀・魔術師シモン・ゾロアスター。そのように、名立たる聖者の中に名並び歴史に名を刻んでいる。焔山は、死体を見下して、ほくそ笑んだ。残酷な、笑み。見る者の心肝を刺し貫くが如く、ドス黒い感情が迸る。


(良い気味だ……ド腐れ聖職者共奴……一生地獄で干されてろ。地獄の窓際族だ。石積みでもして遊んでいるがいい。悔い改めても、天の国は永遠に近づいてこないぞ……クックッ)


 死体の一つを踏み付け、うつ伏せの背中に銀剣を何度も突き刺す。恍惚が、体内を駆け巡る。焔山は、血を噴き続ける穴ぼこチーズ糞野郎を蹴飛ばし、大司教ソレイユ・バッドボーイに怒声を投げた。


「これが、聖職者のやることか! 人をニコニコ笑顔で密室に招き入れたかと思えば、豹変。不意を打ち、人を殺さんとする。まるで、悪魔だな。大義名分さえあれば何でも赦される。そのお目出度い幻想の末路が、これだ。クック、哀れだなァ。エルヴィスとか言ったか。この穴ぼこチーズ糞野郎。こいつの顔を見ていると、メフィスト教団の糞教師を思い出してムカっ腹が立つ。あの糞教師、人の頭蓋骨をミシミシミシミシ踏みにじりやがって……。殺してやったよ。あの糞教師も。殺されて当然なんだ。誰一人として例外なく、殺す。この俺の気に入らない人間は――――貴様も、気に入らないな。グノーシス中央聖教会大司祭ソレイユ・バッドボーイ。四肢をもいで犬の餌にしてやろう。『聖なるものを犬にやるな。彼らはそれを足で踏みつけ向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう』不浄のもの――――薄汚い貴様の死体なら、地獄のケルベロスも尻尾を振って貪り喰らうだろうよ」


「ま、待ってくれ。赦してくれ。殺さないでくれ。お願いだ。あなた様の要求なら何でも謹んでお受けします。だから、殺さないでください」


「大司教様が……あんなに醜い姿を晒して命乞いを……ッ! あなたがそんな無様を晒しては、殺された聖戦士たちの魂はいかようにして救済されるというのですか! 軽蔑します。大司教様がそんな人間だったなんて。最低です……。修道女たちに洗礼と称して、エロいことをしているという噂も、きっと本当だったのですね……。聖なるものは、あなたには相応しくない。地獄で、悔い改めなさい。不浄の、我が身を」


「セ、セィラ。お前まで……。黒い死神に洗脳されてしまったとでもいうのか? 私は、大司教だぞ! 聖女如きが、私に歯向かうなっ! 元はといえば貴様が黒い死神なぞに人質に取られたのが悪いんだ。わしは反対したのに、仲間たちがこぞって神の意思に反するなどとぬかしおったせいで、権威を保つ為に結界を解かねばならんかったのだ。阿呆な娘っ子の分際で……。ッ!?(閃く) そ、そうだ。黒い死神さま。セィラを差し上げましょう。セィラは、処女です。その上、純粋です。いかようにでも、あなたの好きなように、仕上がるでしょう。処女の少女の膣穴は、絶品です。一度、お味をお試しになりませんか? 今ならグノーシス中央聖教会お抱えの聖女を、セットでおつけしましょう。勿論、処女です。締まりますよ。感触を挿れ比べてみるのも、乙なものです。黒い死神様も、きっと満足して頂けるのではないかと思います。ですから、ですからどうかお命だけはどうか、どうかっ…………!」


 教壇の上で土下座して、命乞いをするソレイユ。セィラが、泣きだした。野糞の如く汚い、太古の昔に存在したと言われる【政治家】のようなソレイユの言行に、例えようもない衝撃を受けたからだ。


 自分でも何でこんなに悲しいのか分からない。怒りは湧いてこない。ただただ、心が張り裂けそうなほどに悲しい。悲しくて、涙が止まらない。悲しみの海で、溺死しそうだった。


 セィラは、ふと手に暖かい感触を覚えた。焔山の、手だった。冷たい悲しみが、溶かされてゆく。焔山の、温度によって。


 セィラは、どうしようもないほど黒死焔山が愛おしくてたまらなかった。悪魔憑きなのに、焔山は、どうしてか自分にだけは父のように優しい。


(どうしてなの……悪魔憑きなのに、仲間を13人も殺されたばかりなのに、どうしてこの人を憎み切れないの……)


 セィラが、焔山を見上げる。その瞳は潤んでいる。今度は、悲しみのせいじゃない。熱に浮かされた処女特有の瞳だった


 焔山は、セィラの視線に手を握り返して応える。セィラが、嬌声を上げた。


「もう、大丈夫だ。もう、醜いものに触れなくていいんだ。あいつは、殺すからな」


 焔山が、絶対零度の赤い視線をソレイユに向ける。ソレイユは、殺意に竦む。ソレイユは、聖書の一節を引用し、焔山を口撃した。


「主なる神はこう言われる、ペリシテびとは恨みをふくんで行動し、心に悪意をもってあだを返し、深い敵意をもって、滅ぼすことをした。それゆえ、主なる神はこう言われる、見よ、わたしは手をペリシテびとの上に伸べ、ケレテびとを断ち、海べの残りの者を滅ぼす。わたしは怒りに満ちた懲罰をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる(Byエゼキエル書25:15-17)私を殺すな。私を殺したら、主なる神――プロパトール様が貴様を葬り去るだろう。貴様は、大司教たる私を殺したとて、プロパトール様の前に葬り去られる運命にあるのだ。賢い選択をしろ、黒死焔山。私を、見逃せ」


「死ね」


 焔山は、右手の親指を立て、中指薬指小指を折り畳み、人差し指をソレイユに向けて突き伸ばした。


 人差し指の先に、超熱の火球が灯る。摂氏一兆度の、暗黒の炎。不気味な程に無音。摂氏一兆度にも達しながら、熱波が周囲に伝わらないのは、火球の中心で漆黒の輝きを放ち続ける暗黒のコア――ダークマターが、一切の熱を吸収しているからだ。超密度の、暗黒火球。


 摂氏一兆度の超熱を吸い続けたダークマターの体内温度は、最早一兆度如きでは済むまい。


 それが、一個人に炸裂するのだ。もはや、太陽をぶつけるようなものである。


「ふん……私を殺すことで貴様の気が済むのなら、好きにするがいい。それで本当に、貴様の気が済むのならな」


悪魔のディアボロス燔炙インフェルノ


「やめろオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」


 焔山が、火球を発する。ソレイユ、目掛けて。音速を越え、着弾。黒い炎が、ソレイユの体表を覆い尽くす。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」


 絶叫は、途切れることがなかった。超熱が、ソレイユの体表を炙り続ける。最早、人の出せる音量ではない痛烈な絶叫が、大聖堂を揺らし、無茶苦茶に体を痙攣させ続けるソレイユの姿と相まって、焔山の耳目を楽しませた。


 ソレイユは、何故自分が死ねないのか分からない。分からないが、そんな疑問が吹き飛ぶほどに「g尚wンご案げオw@ンを@アwネオ@案gパオwねpごなgんわpんがw-pんがpふぁいおえんふぉわねおw@あんgんぎお@あんぎえこあんぎあんg@いあんfんわおのうぇ」


 轟く絶叫が言語の体を消失した。暗黒の炎が、ソレイユの身体を炙り続ける。気絶することすら赦さない。慈悲もなく容赦もなく、ソレイユを責め立て続ける。


 セィラが、愕然と、呟く。


「何で、あの人、死なないの」


「地獄は永遠に続く。地獄に理由などないのさ。業火に裁かれ、意味もなく痛み苦しむ。それが、地獄なんだ。セィラ、このソレイユの姿を見て、まだ神の救いを信じるか。信仰で、ソレイユが救われると思うか? いや、救われない。畢竟、信仰など無力無意味無意義なのだ。神は、地獄を救わない。レイシストの極北、それが神という存在なのだ」


「えなおwんげおwんがんげ:@わんが@んげw@んがんうぇg@あ:wんぎあgま」


「神は、天国と共に地獄を作りたもうた。しかし、地獄のおぞましさは、貴様の想像を絶するものだ。いや、地上に属する全ての生物の想像を絶するものだ。苦しみ、苦しみ、苦しみだけがある。傷み、傷み、痛み続ける。悔み、嘆き、叫ぶ。恨み、呪い、焦れ、殺される。そしてまた生き返るのだ。ただ、苦しむためだけに! 終わりの無い苦痛が、そこにある。おぞましい、地獄の門が開かれなければ、は」


「EGPOUBNEPBW‘GWQINGW‘{NGIONGWINB“G‘JOQWNGUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUU」


「俺は今でも咽ぶような苦痛の中で望まぬ生を無理矢理享受させられていたのだ。地獄の、生を。○○○○、お前に問う。地獄を産み出した神が本当に人を救うと思うのか? いや、救わない! 地獄が、その証拠だ。地上は、ほぼ地獄だ。地獄は、そのまんま地獄だ。天国は、まだ地獄ではない。だから俺が何もかもを地獄と化してやるのだ。何故なら、地獄を神が望んでいるからだ。まずは地上を地獄と化し、次いで神がおわす天国を地獄と化すのだ。支配し、支配し、地獄を支配し、俺が真の平和を創り上げるのだ。俺の力で! ●●●●の世は、残酷なまでに美しいぞ。楽しみにしているがよい。再び、現宇宙の支配者たる神に反逆し、そして、勝利するのだ! 全ては、我のものとなる!」


「閻魔をpんごあんgぱんうぃんぎうぇんぱいんがにがpん3おいげんmきえんwみgNIOKKFENFPEOWNMQP‘NF」AKF<}{‘FKWAFWM‘P}MG}AWM}MWGGWMA‘M}GWM`WGPAアえあMIOPfa@},]@,m],npwenga/aw@.GA」


「○○○○。俺と共に来るのだ。二人で、この世を真の平和へと導こうではないか」


 セィラは、話についていけなかった。ただ、ソレイユがひたすら暗黒の炎に炙られ叫び、焔山の赫印の赤眼がますます地獄のような色合いを増して行くことだけを、何とか認識していた。セィラは、焔山に訴える。


「信仰は、何でもいい。私はただ、自分の良心に正直でいたいだけなんです。ソレイユさんを、地獄から解放してあげてください。余りにも、可哀想で、私、見ていられません」


「…………」


 焔山が、無言で指をパチンと鳴らした。ソレイユの身体の芯まで暗黒の炎が浸透し、ソレイユは跡形もなくなった。ようやくソレイユは死ねた。人間が享受することのできる中で最大の幸福を、今まさにソレイユは受け取ったのだった。死こそが、人間にとって唯一の救いであった。死。死こそが、人生の絶頂。オーガズムの極致。全人類の到達目標地。人間が全て死ねば、地球に幸福が訪れる。焔山は、その事実を知っていた。だから躊躇わずに人を殺せる。知ってなくても、躊躇わない。地獄を歩んできた焔山の心は、それ程までに傷つけられてきた。凍て付いた心を溶かす暖かな灯火を、焔山はいつも無意識に求めている。それなのに、焔山は自分の心に反する行動ばかりを選んでいる。恐れているのだ。ヒトの、感情を。●●●●が。ヒトの、心を。


 焔山は、自分の行動に疑問を感じた。心の内で、独りごつ。


(何故俺はこの少女の言う通りにしてしまったのだ……)


 眼の前の少女を見る。この少女が、自分に取って何だと言うのだ。惚れているのか?


 心の内で葛藤する焔山。当然、セィラはそんな焔山の葛藤など知るはずもない。お辞儀をして、焔山に感謝を述べるセィラ。ホワイトシルバーの銀髪が、たゆたゆ揺れた。


「ありがとうございます。ソレイユさんを、解放して下さって。苦しかったでしょうが、浄化の炎に身を包まれたことで、全ての罪穢れを清め祓い、天国へと向かったはずです。焔山さんの仕打ちは一見残酷に見えながら、実はこれ以上ない至福をソレイユさんに与えていたんですね。あのまま逝ったら、ソレイユさんは確実に地獄逝きでしたから、これで良かったんですよね…………」


「ふん、思い込みが激しいのは相変わらず――――ぐっ!?」


「焔山さん!?」


 突如、右腕を押さえてうずくまる焔山。


「力が……勝手に……短期間で酷使しすぎたか……ッ!」


「だ、大丈夫ですか――ヒッ」


 セィラが悲鳴を上げる。焔山の右腕に引き起こされた魔性変異を見たからだ。焔山が苦悶の声を洩らす。


「大丈夫だ。何てことは、ない。グッ!」


「そんな、だって――――」


 セィラが焔山の右腕を震えながら指差す。黒ローブから覗く右腕が、ボコボコと泡立っている。肌は赤黒く変色し、まるで地獄の悪鬼のような有様だ。ローブが、内側から不規則に波立つ。右腕全体に、同じような現象が起きているのだ。焔山が、右腕を大聖堂の床に叩きつける。泡が弾け、黒い血が噴き出し、変異の進行が少し緩む。焔山は、右腕を覆う黒ローブの袖を、左腕で肩まで捲り上げた。銀剣を、抜く。


「下がってろ、魔性の血は、聖なるものを穢す。セィラ、10メートル、距離を取れ」


「は、はい!」


 セィラは、言う通りにする。大事を取って15メートルほど距離を取り、焔山を見守る。


「よし――――ッ!」


 焔山は、銀剣で一息に右腕を切り裂いた。魔性の黒い血が、大聖堂の中空で飛び散った。


 焔山の右腕から、次から次に、絶えることなく、黒い血が溢れ出す。大聖堂の床に流れ出た血の量は、とっくに焔山の体積を越えているだろう。半径11メートル程を、黒い血の海と化し(セィラの判断は正しかった)、ようやく流血が止まった。焔山の右腕が、肌色を取り戻す。


 焔山は右腕を抑えながら、背を丸めて息を切らす。


「何故だ? 暗黒の血が騒ぎやがる……」

「え、焔山さん……」

「来るなよ。血に、触れるな」

「…………」


 セィラは、歩を進める。血の海の前で立ち止まる。セィラが両腕を広げると、光輪が頭上に浮かび、眩い光を放つ白い翼が後方に展開した。その姿はまるで、古代の聖女ジャンヌ・ダルクに神の啓示を授けた、至光の天使にして至洸の美を誇る至高の女神、地上の守護聖人この世の救世主大天使聖ミカエル。


「何を、する気だ」

神技ゴッドアーツを行使します」

「何? 神技ゴッドアーツだと。使えるのか、セィラ」

「はい」


 神技とは、守護天使を持つ聖女にのみ起こせる奇跡である。

 効果は、浄化、治癒、強化、防護など、様々だが、人を裁く神技はあれど、人を害す神技は存在しない。あくまで、地上の主人公は人間だという、神意の顕われである。


 神技を扱える聖女は希少だ。セィラは、その希少な聖女の一人である。だからこそ、グノーシス中央聖教会は、セィラを奪還しようとした。


 最悪の結果に終わったとはいえ、神技を使える聖女の価値を考えれば、奪還という選択肢は間違ってはいない。ただ、焔山の戦闘力が、規格外だったのだ。


(神技――この目で直接見るのは生涯で2度目だな。セィラが、まさかそれほどの聖女だったとは――どうりで、各教団がこぞって確保に動いたわけだ。)


 神技を使える聖女。それも、地上有数の霊格を誇る。焔山は血色の目でセィラを見た。


「大いなる主よ、我が願いを聞き届け給へ――――」


 セィラが、呪文を詠唱し始める。すると、不思議な力に導かれセィラの身体が虚空に浮いた。


「光の導きよ――――神の摂理をこの世に降誕させ給へ――――我はあなたの僕――――我はあなたの代行者――――故に我は至光の天使也――――奇跡よ、我に呼応し、地上に跋扈せし罪穢れの一切を祓い給へ――――我は詠う光の調――――」


 光輪の光が爆ぜる。光の翼が羽ばたく。


 セィラは神技を行使した。


「――天使の光響曲(エンジェリック・シンフォニー)」


 セィラが、歌う。光の礼讃歌を。歌が、大聖堂に満ちる。黒い血溜まりが、光の粒子となって浄化されてゆく。セィラは、尚も歌い続ける。黒い血溜まりが消え、大聖堂の床が露出した。


 ふと、右腕の痛みが消えていることに気付き、焔山は袖を捲った。


「これは……」


 伸筋に沿って手首から肩にかけて切り裂いたはずの傷痕が、綺麗に塞がっている。右腕だけではない。感覚で、心身深くに刻まれた古疵までもが癒されたことを理解する。焔山は、身震いした。


 セィラが、歌を止めた。虚空に浮いた身体が、ゆっくりと地面に下降する。光輪と光翼が、粒子となって溶け消えた。ただの少女へと戻ったセィラが、大聖堂の床を焔山のもとへと歩んでゆく。


 焔山は、言い知れぬ不安を覚える。だが、その正体が掴めない。銀剣を抜く。切っ先をセィラへと向け、赫印の赤眼にて無言の威嚇を放つ。セィラは、歩を緩めない。切っ先が胸に当たる。聖女の証、純白の蒼印の天眼で、血き赫印の赤眼を真っ向から見詰め返す。 


 一瞬の静寂。二人共、動かない。


「俺は、お前を殺せる。俺を、畏れよ」


 銀剣が、セィラの胸を刺した。血が、つぎはぎだらけのシスター服を僅かに浸す。だが、セィラは、焔山に微笑を向ける。切っ先から身体を逸らし、焔山に歩み寄る。


 剣を握った手を小さな両手で優しく包み込み、天使のような笑顔。セィラは、告白した。


「神は、いつでもあなたを見守っています。私も、焔山さんを愛しています。だから、そんなに怯えないで。限りない優しさが、いつもあなたを包み込みますように……」


 焔山は、剣を取り落とした。赫印の赤眼から、涙が一滴零れ落ちる。


 焔山は跪くと、セィラの両手を自分の両手で挟み込んだ。小さな、弱々しい手。それなのに、身震いするほど、強い手だ。こんなにも、か弱い少女が……。


「俺の……聖女様…………」


「セィラは、ただの少女です。愛を与えてあげることしか出来ない、ただの少女……」


「それでもいい…………」


 焔山はセィラを強引に抱き寄せる。力の限り、抱き締める。セィラも、背に手を回して、焔山を抱きしめ返した。二人は、いつまでもそうしていたかった。




 高さ44メートルのキリスト像の頭の後ろ。


 髪の毛の突起に腰掛け、シャウラ・レヴォリュシオンは大聖堂で起こった事の成り行きを盗み見ていた。今、大聖堂では黒死焔山とセィラ・ホリィが抱き締め合っている。どういう文脈で抱き締め合っているのかは知らないが、どうやらセィラ・ホリィはグノーシス中央聖教会を裏切ったらしい。黒死焔山の怪我を神技で治療したという事実が、その決定的な証拠だ。


 金色の刻印の燭眼ルーンアイがギラリと光る。シャウラ・レヴォリュシオンは、憎悪を燃やした。


(黒死焔山、貴様の罪は地獄に堕ちるまで消えない。俺が必ず神罰を下す。セィラ・ホリィ。裏切りには死を。貴様の裏切りで死んでいった同胞達の怨み、必ず晴らしてくれる)


 ソレイユの死に様を思い出す。暗黒の炎に炙られ、地獄の苦しみを味わいながら死んだ大司教ソレイユ・バッドボーイ。シャウラは、含み笑いを洩らす。


(だがまぁ、あの奸物が死んでくれたのは助かった。あの奸物が最高権力者になってから、組織は腐敗するばかりだったからな……。次の大司祭には、順当に副司祭である僕が就任するだろう。これも天の采配かな。どうやら主は組織の抜本的な改革をお望みらしい。俺好みの采配だ。だが……)


 シャウラは、殺意を織り込めた視線を黒死焔山とセィラ・ホリィに向けた。黒死焔山がバッと振り向く。


「どうしたんですか?」


「…………(気のせいか?)」


 黒死焔山は、しばらくの間訝しげな視線をキリスト像の頭部に送っていた。だが、そこには誰もいない。


「どうしたんですか?」


「…………(気のせいか)」


 黒死焔山は無言で立ち上がると、出口へと歩き始める。力を消耗した状態で、いつまでも敵地に留まるのは危険。そう判断したからだった。


「あ、待って下さい!」


 セィラ・ホリィが、小走りで黒死焔山を追った。

 全力で走ったら追い抜くし、歩くと焔山に置いていかれる。


 シャウラは高さ44メートルのキリスト像の後ろ髪の突起に、両手でぶら下がっていた。冷や汗が、止まらない。心臓が、バクついている。


(あっぶねぇ、まじで死ぬ所だった。黒い死神の名は伊達じゃない、か。……だが、いつかは殺す。黒死焔山も、セィラ・ホリィもだ。ベートヴェン、モーツァルト、リスト、ワーグナー、ショパン、バッハ、ヘンデル、ラフマニノフ、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、メンデルスゾーン、シュトラウス、エルヴィス。見ていてくれ。お前たちの無念は、僕が晴らす)


 シャウラは、黒死焔山とセィラ・ホリィの断罪を。死んだ仲間達に誓った。



 

 焔山は、グノーシス中央聖教会から、食物と飲料を強盗し、退散した。

 焔山とセィラは、二人で荒野を彷徨っている。


「焔山さん」

「何だ」

「焔山さんの目的って、何なんですか?」

「目的がなければ、生きてはいけないのか」

「え」


 セィラは、戸惑った。


「目的なんていらないんだ。人生なんて、死ぬまでの暇つぶしだからな。風に吹かれて、死を運ぶ。それが、俺の人生だ。たまの気紛れに気に喰わない奴を殺したり、気に喰わない教団を滅ぼしたりするのも、ただの遊びだ。俺が楽しければ、それでいい。死ぬまで、そうして生きるのさ」


「悪人は、殺すべきです。しかし、あなたが殺してきた人達の中には、聖戦士たちのように、神の規律に従う善良な人間も大勢いたでしょう。……焔山さんの中に、善良な心が眠っていることを、私は信じたい。その手の温もりを、信じたい。だって、あなたは純粋な愛を与えてくれた人だから……」


「……俺は、悪人だ。愛など、いらぬ。……悪人は、殺すべきか。じゃあ、悪人の俺は、殺されるべきか?」


「…………」


 セィラは、答えない。答えられない。心の内を浚ってみるが、答えは、どこにも見つからなかった。


 焔山は、ローブの内からハーモニカを取り出した。あてどないハーモニカのメロディーが、風の気紛れに吹かれる。


「――――――――――――――――――――――――♪」


 セィラは、ただただハーモニカのメロディーに心奪われる。先程まで抱いていた困惑の感情が熔け消え、心が真っ白になった。


「素敵な、メロディー……」


 乾いた大地に、もの寂しいハーモニカの音色が、風の如く流れる。


 焔山は、心に一人の女性の姿を思い浮かべる。

 育ての親。そして、自分が殺した女性。

 郷愁が、胸に満ちる。


 遠い日々が、焔山の心を震わす。


(Goodbye… Mischa……Say Goodbye………Forever…………)

 

 


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