2.窃盗力……たったの5か……まとも人間……
◆
「弊社の最新鋭の技術力で窃盗力が測定出来るんです」
営業の男は業務用のスチールデスクに置いた箱の蓋を開き、中の眼鏡を見せながら言った。
一見するとただの眼鏡――というようか、二見も三見もしてもただの眼鏡にしか見えない。
だが、ちゃんとしたスマートグラスの一種であるらしい。
『BOOK ORO』の狭く古い事務所には相応しくないもののように思えた。
BOOKORO――書店の名前である。
BOOKは本、OROは金を意味する。
BOOKは英語でOROはイタリア語だ。
事務所のパソコンは未だにXPを使用しているというのに、デスクに置かれた眼鏡はその古いデスクトップパソコンよりも遥かに小さい身体に、それ以上の技術力を秘めているらしい。
「窃盗力ですか」
聞いたことのない言葉だった。
おそらく、目の前の営業の男に言われなければ一生聞くことの無かった言葉だろう。
その刺激的な言葉に殺死杉謙信はオウム返しをすることしか出来ない。
青いエプロンを着けた、実直そうな男である。
後に殺戮刑事になる男であるが、今はただの書店員――いや、店長である。
別に能力が飛び抜けて優れているから店長になった訳では無い。
東京の大学を卒業して半年ほどは父が経営する『BOOKORO』で働いていたが、父が病に倒れ、周りにはアルバイトしかいないという状況のために、二十三歳にもならない内から店長として働くことになってしまったのである。
「何事も数値で表せる時代ですから」
営業の男はそう言うと、殺死杉に眼鏡を装着するように促した。
殺死杉は右目に眼鏡を装着する。想像していたような視界の変化は訪れない。
「テンプルで操作出来るようになっております」
営業の男の言葉に従って、親指と人差し指でテンプルを触ってみると何やら様々なよくわからない数字が殺死杉の視界に表示された。拡張現実技術のようである。
「それで私を見て貰えますか」
「はあ」
殺死杉が営業の男に視界を合わせると、その顔の右下に『窃盗力:5ビキ』と表示されている。
「窃盗力が5ビキと表示されていますねぇ」
「つまり私はこの店にとって殆ど無害な存在ということになりますね」
「ははあ……基準値がよくわからないのですが」
五点満点で五点ならば満点である。
十点満点ならば半分。
百点満点ならば赤点は間違いないだろう。
その基準値を説明されないままに営業の男だけが満足げに頷いている。
「失礼致しました。万引きという言葉を聞かれた経験は御座いますでしょうか」
「まあ、こういう商売ですからねぇ」
小さな書店である。
万引き対策にあまり費用はかけられない。
しかし小さな書店であるからこそ、本を一冊盗まれるだけで存続の危機に陥る。
殺死杉も万引きに悩む店長の一人であった。
「万引き……つまりは万……窃盗力が万ビキ代の人間は確実に万引き犯であると……そう捉えてもらって構いません」
「それは……それは……」
事実ならば確かにすごい技術力であるが、あまりにも胡散臭い。
人間の顔の右下にランダムな数字を出しているだけなのではないか――と思う。
「まあ、試供品として置いていきますので、一週間ほどご利用頂いて効力のほどを確かめて頂けたら……と」
「ははあ、ではまた一週間後に営業さんがこちらに」
「いえ、一週間経つとこの眼鏡は爆発するようになっていますので、以後も必要になられましたらぜひ私の方にご連絡を……と」
「ええ……」
営業の男の名刺――株式会社『死』の名刺は先程受け取った。
名前の通り死の商人であるが、死以外にも様々な製品を扱っているらしい。生であるとか老であるとか病であるとか。
もっとも爆発を確約されている眼鏡に関しては、取引ではなく別のトラブルで連絡する可能性が高い。
「弊社技術の粋を凝らしまして、火薬を詰め込むために機械をコンパクトにさせて頂きまして……」
「変なことをするためには地力が必要になるみたいな話ですねぇ」
「まあ、是非お試し下さい。多少の爆発が気にならないくらい良い物ですから」
「どの程度の規模かわかりませんが、爆発したら気にする脳みそが吹き飛びそうですからねぇ」
営業が去り、殺死杉はパイプ椅子にもたれかかって大きく背を伸ばす。
昼休憩は三十分。その時間を丸々、営業のために使ってしまった。
この眼鏡も胡散臭い代物としか思えない。
無造作にゴミ箱に眼鏡を放ろうとして――その手が止まる。
「ま……ねぇ」
株式会社死、幼児でも名前を知るような大企業である。
それがこんなチンケな詐欺商品を売り出すだろうか。
それに、縋れるならば、藁にも縋りたいのである。
殺死杉が店長になってから万引きが増加している。
何故か、具体的な理由はわからない。
先代店長――父親から特別に方針を転換したわけではない。
自分という若い人間が店長になって、この店が舐められるようになったのかもしれないし、店長が父親のままであっても万引きは増加していたのかも知れない。
いずれにせよ万引きは増えている。
そして、監視カメラでも万引き犯を捉えることは出来ていない。
このままでは店が潰れるのも時間の問題だろう。
殺死杉は眼鏡を装着し、事務所を出た。
店の隅に事務所の出入り口がある。
客の目を避けるように通路を抜けて、殺死杉はレジへと向かう。
「あれ、店長おしゃれ眼鏡ッスか?」
レジにいた金髪のアルバイト――石川が呑気そうに殺死杉に尋ねる。
その顔の右下には『窃盗力:28ビキ』と表示されている。
一万には遠く及ばない数値、別に店員を疑っている訳では無いが、ほっと胸をなでおろす。
「どしたんスか?」
「いえ……」
理由を説明する気にはならない。
「私の休憩は終わったので、石川くん。ちょっと休憩して来なさいな」
「えぇ、いいんスか?」
「いいよ」
石川を休憩に回し、殺死杉は店内を見回る。
客の一人一人を眼鏡越しに見据え――その窃盗力を探っていくのだ。
『窃盗力:52ビキ』
『窃盗力:16ビキ』
『窃盗力:921ビキ』
見慣れた常連の顔の中に窃盗力が一万を越すものはいない。
このまま中に一万ビキを越すものがいなければ――いなければいいのか、いることを願っているのか。
店内を見回る内に、とうとう殺死杉は窃盗力一万ビキを越す人間を発見してしまった。
『窃盗力:28万5621ビキ』
破格の数値である。
単純計算で28回半の万引きに匹敵する窃盗力である。
そもそも一万ビキが万引き犯だとして、それ以上の数値が表すものが常習性なのか、被害金額なのか、あるいは犯罪強度なのか、殺死杉にはよくわかっていないのだが。
「なんぞ」
思わずその顔をまじまじと見てしまって、殺死杉は高窃盗力の男に尋ねられた。
ほっかむりをした男である。
口周りを覆うような円の形に髭があり、唐草模様の風呂敷を背負っている。
「あの……お名前は……」
「
「あー……その……」
「なんぞ」
「いえ、なにかお探しかと」
「あー、こっちで勝手に犯っから」
「そうですか……」
これほどまでにやってそうな名前と外見はあるまい。
その上に数字までもが目の前の男の犯罪を示している。
盗本兼は怪訝そうな顔をしながら、店を出ていこうとしている。
具体的な証拠があるわけではないし、犯行の瞬間を目撃したわけでもない。
だが、もしかしたら万引き犯を捕らえることが出来るかも知れない。
「……」
自動ドアが開き、盗本兼が店を出ていく。
殺死杉はそれを追わなかった。
閉じられた透明なガラス戸がどうしようもない断絶のように殺死杉には思えた。
「ぎゃあああああああああああ!!!!!!」
瞬間、店外から悲鳴が上がった。
何が起こったのか――殺死杉は店外へと急ぎ走る。
『BOOKORO』店外駐車場、そのアスファルトの地面で盗本兼がのたうち回っている。
「お客様!?」
「……あら、店長さんだったかしら。ごめんなさいね」
小柄な老婦人が盗本兼を見下ろしている。
おかま帽をかぶり、シャネルスーツをひしと着こなしている。
大正時代のモダンガールを思わせる服装であった。
「本を盗んでいたから……よろしくないと思って、わたくし……少々お仕置きをさせていただいたのよ」
見れば、盗本兼の側に風呂敷の中身の大量の単行本がぶち撒けられている。
「……それはそれは、本当にありがとうございます」
深く頭を下げる殺死杉。
いいのよお――老婦人は鷹揚にお辞儀を受け、笑みを浮かべる。
「でも、アナタ……アレねぇ、この子が万引き犯って気づいていたんじゃないかしらねぇ。ほら、その眼鏡」
頭一つ分は殺死杉よりも身長の低い老婦人が殺死杉の眼鏡を指して言う。
「なんでしたかしら……窃盗力が測れるとか」
「お詳しいんですねぇ」
「まぁ、わたくしも仕事柄ねぇ……もうおばあちゃんだから機械はよくわからないんだけどねぇ……」
仕事柄――この老婦人が一体如何なる仕事をしているというのか。
いや、殺死杉にはわかる。
隠しようのない――いや、隠す気もないオーラは老婦人が放っている。
心臓を優しく撫でられているような――しかし、次の瞬間にはその優しく撫でている手が心臓を握り潰してしまうような、そんな悍ましい殺気。
「殺戮刑事……」
「普通の人はねぇ……逃げ出すんですよ、アナタ」
老婦人は口に手を当てて上品に笑うと「村焼式部ですわ」と名乗った。
「で、なんでなのかしらね」
「なんでと聞かれましても……胡散臭い機械だったから……としか」
「嘘よぉ……アナタの体温は機械を……まぁ、八割ぐらいは信じてるわねぇ。そもそもこのお馬鹿さんったら、見たらわかるぐらいの盗人だわ」
全く、その通りである。
そもそもこれだけ怪しければ、窃盗力の件がなくても声の一つぐらいかけても問題はないだろう。
それでも、何故己は声をかけなかったのか。勇気がなかったのか。
少し考えた後に殺死杉は口を開いた。
「人を犯罪者扱いするんだったら……まあ、もうちょっと証拠を掴んで真剣にやらないとなぁ……って思ったんですかねぇ」
「あらあら」
「それよりも、村焼さんは何故ここまで?」
殺戮刑事――あんまり法律とか関係のない公務員界隈の死神であり、現れる場所に死の嵐が巻き起こると巷の噂になっている。
「とんでもない大泥棒が現れるって噂になっているのよ」
「とんでもない大泥棒……?」
「ええ……でも、まあ、いいわ……今は」
そう言うと村焼は盗本兼の髪の毛を掴んでずるずると引き摺りながら、去っていく。
曇天の空、太陽は厚い雲に身を隠している。
そうであるというのに、アスファルトは人を焼くような熱を発してゆらゆらと世界を陽炎で揺らしている。
「ああ、アナタ」
陽炎の向こうから、村焼が唐突に振り返って言った。
「向いてるわよ」
何がですかとは聞かなかった。
なんとなく「わかっているくせに」と言って笑われるように思えた。
ただ、殺死杉は陽炎の向こう側に消えていく殺戮刑事をぼんやりと見送っていた。
◆
県立殺人狂がいるなら、その逆の存在である活人狂もいてもおかしくはないだろう総合病院。三階、一般病室。
間仕切りで多少のプライバシーが確保された四人部屋。
ベッドが横に四つ並んだ部屋の一番窓際のものが殺死杉謙信の父、殺死杉憲政のベッドである。
「おぉ」
「やあ」
病に侵された身でありながら、何事もなさそうな様子で憲政は謙信に向けて手を挙げる。枯れ枝のように細い腕だった。青白い血管が透けて見える白い腕だ。
髪もすっかり白くなってしまった。
声も細く、色が抜けている。
店長の仕事が終わる頃には夜の十時を過ぎており、病院の面会時間は終わってしまう。
故に週に一度の休みの日に謙信は父の面会に向かう。
「もう少し、普段から行ければよかったんだけど」
「別に気にするこたぁねぇよ、それによぉ……あんな店もう潰しちまえばいいだろうが。忙しいばっかりで儲からねぇだろ」
「いや……もうちょっと続けたいかな、僕だって店長だし」
「別によぉ、あんな店に縛られるこたぁねぇだろ。なんかやりたいこたぁねぇのか」
「あの店を守るのが僕のやりたいことだよ」
謙信にもやりたいことはある。
ただ、一番にやりたいことと云えば――自分でそう言った通り、父の店を守ることだ。
父の病はいつか治る。
殺死杉はそう信じていたい。
その時、父の城である『BOOKORO』を彼が倒れた時、そのままに返してやりたいと殺死杉は思っている。
「そうか……」
憲政は謙信から顔を背けて、そっと呟く。
「うん」
「……なぁ、謙信よぉ」
「ん?」
「……いや、いいや。林檎食え。林檎」
「うん、父さんは?」
誰に貰ったお見舞いなのか。
父の顔も案外広いものだ。
ベッドの側のテーブル、そこにある果物籠から謙信は林檎を一つ取った。
果物ナイフは目にも止まらぬ速さで、林檎を果汁溢れる裸に剥いていく。
「一人で食い切れる量じゃねぇからなぁ」
「……」
謙信は在りし日の父の食欲を思った。
大盛りのカツ丼を二杯も三杯もおかわりするような父が林檎の一つも食べられないでいる。
それが寂しくてならない。
「昔っからお前はナイフ捌きがすげぇなぁ」
視線を謙信に戻した憲政が感心したように呟く。
ほんの少しの皮も残さない美しい剥き様である。
「まぁ、練習してたからね」
「……やりてぇことなら、やってほしいよなぁ。親父としてはよ」
ぼそと憲政が呟く。
謙信はなにも聞かなかったかのように林檎を齧る。
病室に林檎を齧る瑞々しい音がやけにうるさく響く。
「俺の夢はお前の夢じゃねぇんだからよぉ」
「……もう行くね、父さん」
「ああ」
日に日に痩せ衰えていく父。
生きて戻る父に帰る場所を残してやりたいのか、それとも死んで戻る父に広すぎる棺桶を渡してやりたいのか。
謙信自身にも最早、本意がわからないでいた。
白い病院の廊下を歩いている途中で、主治医にすれ違った。
「どうも、お世話になっています」
「あ~……殺死杉さん、どうもどうも」
「父の容態はどうでしょうか」
「へへぇ……それはもう……全力を尽くしてますよぉ……手術が出来ますからねぇ……」
「よろしくお願いします」
「もうね、どぉんと大船に乗ったつもりでねぇ……きひひぃ……」
「…………」
下卑た顔で笑う医者を見て、謙信は泥舟に乗った気分であった。
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