第六分節:支那解放(壱)

 支那の地は、遂に漢民族より解放された。いわゆる、後にいうところの諸夏思想に則った分割政策が基盤にあったものの、北支を大日本帝国領とすると共に「いわゆる孫呉」より今少し広い地域(だいたい、揚州+荊州+合肥等他ある程度の区域)を汪兆銘ら正統国民党政府が、蜀に北伐地域や涼州などを足した地域をチベットやジュンガル(支那共産党が「ウィグル自治区」とか嘘八百ほざいてる東トルキスタン方面のことだよ)に解放し、今まで漢民族に虐げられていた少数民族に対して大幅な自由を約束、ここに支那、否、震旦は五族協和の、否、万族協和の地として楽園を築くに至った。そして、それはただ単に支那が震旦となって楽園が築かれただけではない、支那に貼り付けていた膨大な兵力を他の戦線に転用したり、或いは臣民へ復員されることによって国力の増強を図ることに成功し得た絶好の潮目であった。

 とはいえ、それは潮目による戦線移動なだけであり、さらに言えば支那の地は広い。ゆえに、その復員および異動は、それなりの時間が必要であった。とはいえ、支那打通作戦や北進計画などもあって、支那の駐屯兵はそれなりに他へ貼り付ける必要が存在していた。だが、彼達の証言によると、「ソビエト連邦相手の戦は便衣兵|(要するに、支那大陸には古来からよくある国際法違反の民兵集団のことである。こういう存在は、国際法は「戦闘員」でも「民間人」でもないという理由から守ってはくれない)が存在していないだけ気楽なもんだった」と語っていたという。まあ無論、ソビエト連邦も首都近郊の攻防戦では便衣兵もどきを即席で仕立て上げたりしていただけで、シベリア方面の極東軍は精鋭を維持するためにそういった手を取っていなかっただけではあるのだが。

 そして、支那大陸を解放した意味は大きかった。それは純物理的にリソースを他へ転用できただけではない、国際的にも、野放図な侵掠ではないという主張が遂に通った瞬間でもあったからだ。

 まあ、漢民族がその分割を食った形になるのだが、それは些細な事であろう。何せ彼等は何億も存在するのだ、多少減ったところでたいした影響はないだろう。

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