第2話

 言葉を吐いた黒猫はその前足を伸ばして宙に円を描く。角ばった図形をなぞった後、敢えて訳せばイヒヒヒヒヒという声にならない音を奏でる。「何を言っているの?」首を傾げて見つめると、嘗てのクーヘンの面影はもう消えていた。

「うがああぁぁぁ」すると来た道の方角から大きな叫び声が聞こえた。何事かと思い、動じない猫を連れて川の方へ走ると、野草と戯れていたはずのパパが溺れていた。

 水深は浅いだろうに足が藻に絡まって顔を沈めている。近くにいるのはわたしたちだけ、お兄ちゃんとママは気付いていないらしい。

「二人とも、助けごばばぼか」わたしたちを捉えて、日頃強がりな男が弱者の皮を被る。ヘビイチゴの実までは手を伸ばしたけれど、わたしは助けようとしなかった。家で表れるあの姿が心のトビラに引っ掛かった。時間が経つにつれパパの足掻きが鈍り、ここで助ければ怒りが感謝を上回るだろうと思えば愈々動けず、何もしない少女を見かねたクーヘンがママのところへ行った。

 風に揺れていると、口の開かないクーヘンが恐れていたはずのママと一緒にやってきた。

「あなた、何しているの!」死体がぷかぷかと浮かぶ川を覗いたママは、わたしを慣れない呼び方で𠮟りつける。少しは喜ぶかと思ったけど予想以上に愛していたみたいだ。

「ここまで情けない人だとは思わなかったわ」わたしに呆れて「引き上げないと」足を踏み入れるが女性の力では上手くいかず、お兄ちゃんのいる下流へ向かった。

「こいつが溺れちまったのか」釣りを中断したお兄ちゃんが溺れたパパを地べたに掬う。

「お前……」亡くなってしまえば、特に興味のなかった家族にも涙を落とすようで「おい、お前は何故助けなかった!」クーヘンに無理を言うほど気が動転していた。朝方に優しく触れていた手が拳骨となってその頭蓋を打つ。

「こら、そこまで言うことないでしょう!」ママはお兄ちゃんを諫めてクーヘンから手を遠ざけた。わたしはどうしようかなと深呼吸して時を待った。

「……あんた、行くわよ」枝葉で簡単に組み上げた担架にパパを乗せると、遅くまでいると危ないからと加え、ママは最後までそっけない調子でわたしを導いた。横を歩くクーヘンは気付けばすっかり元の姿に戻り、わたしの肩に上ってきた。ママもお兄ちゃんも何か事件が起きたような面持ちだけど、わたしとしてはどうでもよかった。ただ小屋での一言だけは気になった。


 森から家に帰ると、パパの死体がお兄ちゃんの姿に変わっていた。パパだと思っていた人がお兄ちゃんだった。

「お兄ちゃん……」その口元に指を伸ばしても息は吹き返してこない。あんなに遊んで交わった手がこの地に体温を奪われていた。パパとママに尋ねても「ふぅん」と言ったきり答えてくれない。

 夜の景色が降り、パパは足を組んで般若心経を唱え始めた。ママも脳神経を下駄箱に入れてニッコリと合図した。わたしにはよく分からないけれど、やがて二人は点滅し出した。「そろそろ遊び尽くしたかな」独り言がぽつんと垂れた。

「お兄ちゃん、また会いたいよ」こうして願えば叶う気がした。何も知らないクーヘンはあくびを吐いて、穏やかにわたしの膝で眠った。それ以来クーヘンが喋ることはなかった。

 撒いたパンくずは空に死んでいく。こうして我が家は幸せに暮らしましたとさ。おやすみなさいを伝える前に、ドットの不揃いな女性に語りかけた。

「ねぇママ、また森に行きたい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

NNN公園魔女 沈黙静寂 @cookingmama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ