NNN公園魔女

沈黙静寂

第1話

「お兄ちゃん、わたしのぬいぐるみ盗ったでしょう!」

「あぁ、これ?枕替わりにしていただけだよ」硝子から射し込む光に沿って、わたしが踏みつけるカーペットには嘗て書棚の上にいたうさぎが潰れていた。わたしの頭頂部から薔薇を生けた程には身長の高いお兄ちゃんが耳を引く。

「その子はわたしのものなの」

「だったらそう書いておけよ」それはお互い様なのに、わたしだけが食い縛る歯を開けようとして「こら、喧嘩はやめなさい」台所の隅にいるママが注意してきた。

「喧嘩じゃないよぅ」本心のつもりだったけど「ほら」と言うママに促されて「わかったよ。全く、ぬいぐるみなんて幾らでもあるのに」お兄ちゃんは首の支えを失くした。

「ちっ、一々うるさいんだよ」文句の矛先はわたしの奥、お兄ちゃんはママを疎ましく思う癖があった。一方のわたしたち兄妹は年中一緒に遊ぶような仲良しで、距離の近さ故に時々喧嘩擬きが起こる。

「クーちゃんにご飯をあげる時間ね」向き直るママはポンと手を叩いて戸棚へ走っていく。我が家の飼い猫、クーヘンはバレル、羅針盤、竃の上と気分で寝床を変えるけれど、今日はお兄ちゃんのお腹で日光を浴びる。戻ってきたママが腕を伸ばすとミャアアアオウ、喉を鳴らして歯向かった。クーヘンはママに対して警戒心が強い。

「わたしがあげるよ」

「ありがとう」代わりに手にした瓶のシリアルを皿の上にばら撒く。眠気眼のクーヘンは鼻を開いてその建築材に飛びつく。わたしはママが好きなのでお兄ちゃんやクーヘンとの間を取り持つ場面が多い。

「あなた、ちょっとは手伝いなさいよ」喉を一通り撫でたママが不満を投げる先は自家製ソファに寄りかかる男。パパはヘブライ語を新聞紙のように広げて難しい顔を浮かべる。普段は静かだけど怒ると怖く、わたしたちが騒いだら拳骨が飛んでいただろう。

「オレは今忙しいんだ。悪いが話し掛けないでくれ」変わらず文章を読み込む姿に「はぁ……昔は優しかったのに」ママは溜め息とハンカチを箪笥に仕舞い、コヨーテの上履きを脱いだ。優しく蝸牛のオーブン焼きを作ってくれるママはパートナーとの相性が悪く、わたしも顰め面のパパと話すことは滅多にない。文脈のわからないクーヘンはわたしから離れてパパの膝元に居座る。唯一優しさをレンダリングする手の動きがその鬚に掛かった。

「ねぇ、ママたちが喧嘩しているみたい」

「いつものことだろ。それより怪獣モデルで遊ぼうぜ」お兄ちゃんの得意分野に誘われるけど、手先が不器用なわたしは決まって点数が低い。

「だめだよ、このルールじゃ。ビスケットドールで勝負しよう?」

「お前もう何歳だよ」膨らました頬を突くお兄ちゃんは呆れた顔をする。わたしが負けないのはそれくらい、何でも得意で自慢のお兄ちゃんだ。その後はお昼までクリエイティブな暇潰しに汗をかいた。我が家は他所より古臭いらしいけど不幸だと思ったことはない。外は鍵穴の為の鍵穴を造ったり、時計台から飛び降りたりする人で溢れているから、そんな人々よりは無難に過ごせているだろう。

「天気も良いし森にでも行きましょうか」日が天井に昇る頃、わたしたちは今日もお出掛けすることになった。この世界でもお天道様だけは簡単には沈まない。喋りながら読書する雨模様が続いたので、お兄ちゃんはボキボキと背筋を伸ばし、パパは気怠そうに新聞紙を折り畳む。

「お散歩お散歩嬉しいなー、たったらたらたら」うろ覚えの歌詞で感じるままに歩こう。お兄ちゃんは「迷惑だぞ」と冷めた目をくれるけど、通り過ぎる人たちは晴れやかに相槌を打つので、続けて歌った。日曜日には友達と遊ぶブランコを横目に、道端ではお爺さんが培養スギの板を組み立て、あぁでもないこうでもないと思案し、近所のお婆さんは何も考えず杭を打つ。外を歩くのはわたしたちだけではない。人もヒツジも転がりながら笑っているし、すれ違えば挨拶は欠かさない。イトが視えないのは陰の差すあの人の周りだけ。

 わたしたちが「森」と呼ぶ自然公園に着くと例の青い空気が漂っていた。林冠を潜り歩きにくい道を抜けたら、「綺麗ね」ママのドレスがひらりと舞う。揺らめく葉の下で妖精たちが飛び交い、首の取れたキリンがオウオウと鳴く。タケノコを踏まないように森の奥へ行くと、誰が住んでいるか分からない空き家があった。

「ここで釣りでもしようぜ」小屋の脇を流れる川に着いてお兄ちゃんが釣り糸を垂らす。パパはその手前で野草採取に取りかかり、ママは倒木を跨いだ切り株で「休憩するわ」と言って離れた。わたしとクーヘンは家の様子が気になって「誰かいますかぁ」念のため声を掛けるが人影はない。軋む床に脅えながら僅かに灯る電飾を超え、割れたティーポットを確かめたら「あっちの方が面白そうだわ」奥にはさらにもう一軒、大きな屋敷が建つのを見た。どうなるだろうとわくわくし出口に足を乗せた時、後ろに違和感を覚えた。

「小娘、お前も特別な人間だ」振り返るとクーヘンが喋っていた。わたしは猫が喋ることを初めて知り、潤いの増した目を近づける。けれど今まで血の通っていた耳は萎びれ、黒く翳る瞳がわたしの胸を貫いた。

「森の怖さを教えてやろう」

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