一色目:白と黒の青さについて

「…私に何か用?」

韮山は僕を怪しみ、睨んだ。

一刻も早く家に帰りたいという彼女の心が透けて見えるようであった。

「いや…その…」

彼女に気圧され、僕は思わずたじろぐ。

その様子を見て彼女は踵を返し、今まさに廊下の奥へと消えんとしていた。

彼女のするりと流れた長髪は夕日を反射することもなく、影の闇へと消えてゆく。

地面を踏み締める闊歩の音が聞こえるたび、

長く伸びた影もまた、夕闇の果てへと消えんとしていた。

「すごいな、と思って。」

「ん?」

驚きと疲れが混ざった表情で彼女は僕を見る。

夕闇の中へと消えた彼女のその顔に鬱屈とした情は感じられず、ただ理想のみを突き進んでいる一隻の冒険船のようにさえ見えた。

薄茶色のその瞳は、沈みゆく太陽にはない希望の煌めきに満ち、夕闇の中でもそれを絶やそうとはしていない。

彼女のその姿に、僕は目を合わせる事ができなかった。

咎人が白昼の空の青さを忘れたように、

僕もまた、希望に満ちた存在に尊敬の情のみを覚え、己の背を伝う僻みに向き合いたくないが故である。

「君の、その、夢が。」

彼女は途端やや赤面し、気恥ずかしそうに僕に問うた。

「…あれ、聞いてたの?

そう言われるとなんだか恥ずかしいな。」

視線を逸らしたのが視界の外からぼんやりと見えた。

「僕にはあんなふうに、夢を語ることも、見ることもできないから…」

口が別の生き物のように、いやにはきはきと僕の内心を吐露する。

韮山は嗤った貌を見せたと思えば、今度は僕にぐいと迫った。

「なら君も夢を見ればいい。

人生を賭けてやることを前にした時の挑戦感と高揚感、あれは何ごとにも変え難いものだからね。」

そして彼女は、僕に饒舌にそう語ってみせた。

「ないんだよ、そんなもの。」

冷徹に僕の口は苦言を呈する。

「え?」

「ないんだよ!何かに熱中できるものも、何かに人生の全てを賭ける覚悟も!

怖いんだ、ただ。

何か全てを失って、僕が僕でなくなってしまうような日が来そうだから。」

最早口は僕の嫌いな誰かに魔法をかけられたらしい。

見苦しい本心はぬめりと韮山の前に立つ。

空にはスピカと思しき白く煌めく星が、自分の他に誰もいない薄紫の星空を満喫していた。

彼女は困ったような表情を一瞬見せたが、途端また、自信に満ち溢れた表情を取り戻した。

彼女は口を開く。

「なら、捜せばいい。理想を捨てちゃだめだ。理想を持たなくちゃだめだ。

理想なしには、人はだめになってしまう。」

 彼女の言葉は僕には少し難解だった。

いや、ただ難解ということにしておきたかっただけなのかもしれない。

ただ、僕の今の心の奥底を傷つけるにはあまりにも十分だった。

 気がつけば僕は、彼女に、「そうだよ、僕はどうせだめだ。なんとでも言えばいいさ。」だかなんだか、そんな風なぶっきらぼうな捨て台詞を吐き、すっかり星空の宝石箱となった夜空の下を駆け出した。

星空を見るのも他人ばっかり希望を抱いているようで腹が立ったので、脇目も振らず駅へと走り続けた。

駅の中は切り抉られた空間のように、夕闇に喰らわれた夜空を慈しんでいる。

丁度、旅人がポラリスを目印に旅路を征くように、僕もまた、冷酷な感触の電灯に照らされた駅の構内へと吸い込まれた。

◯◯番線、◻︎◻︎方面行き、と言った文字列や時刻表の電光盤、△△線といったような掲示、パンフレット、案内板などは今だけは外国の靴下のメーカーのような、まるで目を引かぬものと成り果て、駅構内を行き交う学生や社会人といった人たちは老若男女問わずある種の化け物に見えた。

人間の近似値を示す化け物としか思えぬ、えもいえぬ不気味さが僕を貫いたのである。

その中を僕は駆けた。

いつも知っている道々は全く僕を歓迎してはくれなかったようで、物悲しいものがあった。

 プラットホームの中で、僕は電車を待つ行列に並びながら韮山のあの言葉を考える。

理想を抱かなければ、人はダメだ。

その単純明快な言葉の裏を、阿呆のように探っていた。

流行り歌の軽快なリズムが、イヤホン越しに聞こえる。

あれだけ自分を卑下したのに、未だに脚を踏み出せない自分に、僕は腹がたった。

段々とポップスなドラムの音が汚らしく思えたので、そっとイヤホンを取る。

途端、電車の警笛が僕の耳を貫いた。

暫くして冷たい風が僕の体を抉っていく。

その風と共に警笛の音が、電車がレールをキリキリと擦る嫌な音が何遍もこだまして聞こえる。

誰かの幸福の肉を裂き、嗤狂う車輪の音が。

夕闇の彼方から黄色い双眸はちろちろと先を照らし、かくして白銀の蛇は今日も僕を宵闇へと連れ去るのである。

人生という紀行と列車は、似て非なる関係だと熟思う。

これは幼年の頃、電車を日常的に使っている時からずっと思っていたことであった。

彼らは日々決められた猷路を忙しなく行き交うただの機械にすぎず、機械であるが故に定められたことだけを黙々と遂行する。

けれど僕たちには、それができない。

大抵幼年の頃に抱いた夢というのは、理想というのは、忘れ去られ、捨て去られ、そのうち安定という二文字だけを狂ったように求め、その路を捜していく。

それが大人になること、らしい。

脂肪に垂れた腹を隠すように胸を大きく逸らしながら、社会学者と思しき老人はそんなことを語っていた。

「理想を抱かなくては、人はだめだよ。」

韮山の言葉が僕の罪悪を執拗に逆撫でする。

夜の脈拍が打つたび、えもいえぬ悔しさが僕の体を襲った。

その言葉に、きっと嘘偽りがないということがわかったからだ。

その言葉が、僕という存在の歩んできた軌跡を悉く否定したからだ。

 最寄駅に着こうとも、家路に着こうとも、僕の心は晴れることはなかった。

薄暗く窪んだ月光が僕を照らす。

そのアーク灯のような月光の街灯は、おどろおどろしい僕の影を鋭敏に抉り出して見せた。

どの文豪にも、どの画聖にも勝るとも劣らない。それほどに感嘆の声を洩らしたくなるようなのっぺりとした影は、愚かしく僕に帰依しようとしていく。

それは永劫に自立を果たすことのできぬ、葛藤と無神経と踏ん切りのつかない上っ面の妄執の塊であった。

 家の表札は自分のものとは思えず、やはり解読不能な文字列として僕の前に立ちはだかる。

いよいよ自分がよくわからなくなってきて、僕は先刻の勢いをそのままに自室へと転がり込んだ。

母親との会話もままならぬままであったので軽く窘められたが、別段どうでもいいくらいには精神が疲れ果てていた。

それでも呪いのように、影のように韮山の言葉は僕に付きまとう。

一厘の離反も許されぬ夜空の星々のように、僕もまた、その言葉に固定されていたのであった。

告白をするのなら、これほどまでに言葉そのものに追われたことは一度もない。

これほどまでに人を悩ませる言葉を一瞬にして織れるというのなら、いっそ画聖を諦め、作家を志した方がよいのではないかと毒づきたくなるほどだった。

 悔しくなってきたので、制服姿のまま、体の横半分を布団に預けるようなだらけ切った格好で韮山の言葉を考える。

しかし当然ながら、そのような格好ではまともな思考もできぬもので、僕はその現状に逆怨みをしながら部屋を一瞥した。

何か手掛かりになるものがないだろうか、と、住み慣れた部屋をまるで何も知らないように見渡してみるくらいには、思考を放り投げたかったのである。

それならあんな女の言うことなど無視してしまえばいじゃないか、とも思うのだが、

何か諦めてはいけないような気がしてならなかった。

変なところで真面目な人間ほど損をするものはないだろう。

現に僕はその性故に今こうして悩んでいるのだから。

その中で、埃被った大判の本が、棚の底で横倒れになっているのが目についた。

ふと気になって本を取り上げてみる。

するとその軌跡を描き出すかのように、もわりと粉のようなものがあたりを舞った。

鼻がむずむずとするのを堪えながら、僕は本の表紙に目を通す。

すると、黄緑の芋虫で作ったようなうねった字で書かれた文字列が飛び込んできた。

「懐かしいな。小さい頃、よく読んだっけ。」

思わず懐かしんでしまう。

『星の王子様』。

僕がかつて心の支えとしていたこの絵本は、老若男女問わず今も世界中で読み継がれている名著である。

実際僕自身、何か辛いこと、悲しいことに直面した時はこの本に何度も慰めてもらっていたものだ。

そういった古びた思い出の数々がとめど無く溢れ続け、思わず郷愁の色に脳髄は埋め尽くされる。

その時、あの女教師の言葉が霹靂の如く思い出された。

そしてまた、幼年の頃の夢を思い出した。

この本を読んだその頃から僕は、作家になりたかった。

ただの作家ではない。

僕と同じように、悩める人たちを救済する導となるような、人の心を掴んで話さないような小説を「描き」たかった。

不思議なものである。

これほどに焦がれていた情も、いまではすっかり頽廃し、忘却の雨に晒され燻っていたのだから。

中学の頃、国語の成績がよかったのもきっとそのせいだったのだと思う。

気がつけば僕は、棚や勉強机の中身をざっくばらんにひっくり返していた。

そして、白無地の自由帳が久方ぶりに姿を見せる。

小学生の頃、「小説のプロット」をそこに書いていたのを唐突に思い出したためであった。

今でも文章を書くのは好きだ。

けれどもそれは広汎な事だと思っていた。

単につまらない授業から解放され、学徒と言う共同体からただ僕一人の意見に焦点を当ててもらえた。

その事実に心を躍らせぬ者など、いないと思っていたのだ。

ただ、その自己分析はあながち間違いではないものの、少し違っていた。

僕が好きなのは意見を求められることではないし、僕一人に好意を抱いてもらうことでもない。

魂の鉛筆を削り、自らの頭蓋より思考を世界へと落とす。

その過程を愛してやまないのだと思う。

その時だけは何の取り柄もない僕も、全能であるように思えた。

文そのものを僕が指揮し、僕がそれを織るのだから。

加えて同級生が難しい顔をしたり、面倒そうな顔をしたりしながら書いている中、僕一人すらすらと書けることに優越感を感じていたのかもしれないが。

兎角僕は、久方ぶりの熱気に心を震わせながら、プロットを片手に適当なノートを開き、勉強机の前でさらさらと文字に起こしてみる。

「─なんだ、できる、できるじゃないか。」

思わず、そんな事を言っていた。

正直プロットの内容は軽薄な事この上ない。

けれどもそれを文字に起こしたその時。

出来上がった一部分を読んだ時。

僕はすでにこの世のところではない何処かに旅立っていた。

悠久の文字の安息を得た。

その事実に、僕は心を踊らせずにはいられなかった。

これでは僕の線路も脱線してしまうかもしれない。

咎める者の声が聞こえた。

けれど、どう脱線しようと僕にとってはどうでも良い話だった。

「理想を抱かなければ、人はだめになる。」その事実に僕は真っ向から立ち向かうことができたのだから。

そして今、僕の理想はかくして織られたのかもしれない。

時刻はいつのまにか午後8時を回っていた。

ふと、窓辺から外を見遣ってみると、

黄金の月光が、プレアデスの星々が、僕を照らしているように思えた。

かくしてある一人の青年は、月光に笑む。

一方である一人の少女は、星空に睨んだ。

今日の色をキャンパスに押し留めておこうと、空虚な欲望に胸を膨らませていたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

画豪 古旗 明治 @whitepepper

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る