画豪
古旗 明治
プロローグ
待合室という名目で置かれた2,3個程度の安っぽい青いプラスチック製の椅子は、
厭に喧騒で、しかし爽やかな様子の活発な廊下のそれとは隔絶された雰囲気を以て僕に座されていた。
多田、田中、知多─
まるで囚人番号のように苗字が素っ気なく呼ばれているのが聞こえる。
僕の苗字は中原であったから、た行の苗字が段々と消費されていくたびに僕の心臓が余計に波打つのを感じた。
何もこれから酷い目に遭うわけでも、酷な現実と向き合う必要もない。
ただ、自分の崇高な理想を語るのみである。
けれどもそれは、僕にとって一番辛いことでもあった。
「次、中原くん、入っておいで。」
思わず生返事を漏れ出して、吸い込まれるように教室のドアを開ける。
中には僕と一人の女教師を除いては誰もいない。
静寂と夕闇、それによって象られる薄暗い鬱屈とした翳りが教室の内を包む。
僕がこの話題を話すことに後ろめたさを感じているという事実を見透かされているようで、余計に帰りたくなった。
廊下の喧騒さえ、最早欷歔の声声のように聞こえた。
ただ現実から逃げる事にのみ精神をすり減らしていたので、いざ逃げられぬということがわかるといまさらになって嫌になったためである。
それとは裏腹に、僕の足は一人でに椅子へと座り、眼前の女教師と対面する。
彼女の眼は僅かに疲れに満ちているのが見えたが、僕にとっては正直、どうでもいいことだった。
中々重い腰を上げられないまま気持ちの整理をつけられないでいると、女教師は指揮を取るように口を開く。
いつもはうざったい気持ちのみを懐いていたが、今だけはありがたいものがあった。
「─学校には慣れたかな、中原くん。」
彼女は若干困った様子ではにかむ。
20後半、もしくは30前半といったところか。
黒い長髪の毛先は青春を未だ携えているようで、肌の瑞々しさは学生のそれと変わりはない。
あどけなさを纏ったそのはにかみは、僕の視線を集中させるには十分だった。
「ええ…まぁ…」
おずおずと、僕はそう答えてみる。
それは彼女の顔色が良くなることを願って、という心持ちが一割、
僕の内心を冷やかすような質問が次に来ないか、という質問が九割、と言ったところか。
彼女は今や僕の双眸からは、獄門を執り行う鬼畜生の類にさえ見えるのである。
両膝に置かれた握り拳は力み、僅かに汗に濡れているのを感じた。
よくない癖だ、あがり症なのは。
昔からそう言われ続けている。
「そう、それはよかった。
じゃあ、後もつっかえているし、早速聞くね。」
来るぞ、来るぞ、来るぞ。
僕の心の中で、悪魔のような声が冷かしてくる。
「君は将来、何をしたいのかな?」
「…」
驚くほどに話すことがない。
事実この中原裕人という人間は齢15にして夢のない人間であった。
その事実が今になって白日の元に晒される。
それがただ、ただ怖い。
まずい、いやだ、まずい。
自分がつまらない人間であるという事実を、この人間に見透かされたくない。
失望だけはされたくない。
何も描いていない癖に、僕はただそれだけを追い求めている。
我ながら、何とつまらぬ人間であろうか。
「…公務員…ですかね…」
なんとか声を絞り出してみる。
「…」
またも彼女は困ったようにはにかんだ。
思わず、やや下を俯いてみる。
現実から目を逸らしたくて仕方がないのだ。
大人になるのも、後退するのも、嫌で仕方がない。
けれど、今のままでも嫌だった。
それは説明のし難い焦燥であり、陋芻の情である。
彼女は僕をやや覗き見て、
僕に問うた。
「公務員って一口に言っても…色々と役職はあるよ?
その中で何になりたいの?先生とか、役所の人とか…研究員さんとかさ。」
僕はただ沈黙を貫く。
それ以上でもそれ以下でもないからだ。
普通に生きて、普通に暮らして、普通に死にたい。
その普通というものがどんなものか、その中身を知らない癖に。
失敗した他人を笑って、成功した他人を妬む癖に。
僕は普通を夢見ている。
普通という概念に人生を拘束されている。
それは、その行いが最も幸福であると信じてやまないからだ。
ただ、その本心は恐怖のためにある。
何かを踏み出すことができない。
誰かを蹴落とすことができない。
そこまでして手に入れるものに、大して価値を感じない。
遂行する勇気もない。
いやきっと、失敗が怖いのだろう。
だから僕は、凡庸に焦がれているのかもしれない。
誰も傷つけないし、自分も傷つかない。
きっと理想の道だろうから。
「ほらさ、何か好きなことはないの?
趣味…とか、そうじゃなくても得意な教科とか…ほら、中学の時、国語の成績はよかったみたいじゃない。」
「…特に好きなものは…ないです。」
「…そっか。
じゃあまた今度、中原くんにはインタビューをするからさ。
それまでに色々調べてみてほしいな。」
彼女はまたもはにかんで僕をドアへと押しやる。
あれほどに焦がれていた解放も、今は何か鬱屈としたものがあった。
そうして誘導されるままに部屋を出る。
喧騒はすっかりと止み、斜陽は紫色に空を焦がしていた。
正門への道は帰宅途中の運動部らしき人々で活気に満ちている。
その様を窓越しにみて、いいなあ、と僕は呟いた。
「おお、中原。面談はどんな感じだったんだい?」
弾んだ声が馴れ馴れしく僕の鼓膜を擽る。
ふと声の主の方を見ると、
隣の席に座っていた女子が僕の肩を叩いていた。
出席番号が僕の次であったからであろうか。
面談がどういった感じであったかを聞いているらしい。
全ての男子学生が歓喜と羨望の情に包まれるようなイベントであろうが、今となっては振るうこともない。
友達もそれなりにいる。
趣味だってある。
成績もいいわけでも、悪いわけでもない。
運動も人並みにはできる。
ただ、それらは文字通り人並みであった。
そう、僕には中身というものがない。
確かに友達はいるが、僕でなくちゃいけない、なんて理由はどこにもないし、
趣味も流行りのものを適当に取って捕まえただけのようなものだ。
何か目をひくようなものはない。
個性的なものなんて、僕には何一つない。
からっぽ。
からっぽの存在に世間の隆盛が影を落としただけの、つまらない存在。
今の僕を表すのなら、まさしくこの言葉が似合うと思った。
「韮山さんか。 面談は特に変わったことはなかったよ。」
「ああそうなの。 拍子抜けだね、なんだか。」
韮山は安堵といった顔で胸を撫で下ろし、教室のドアへと消える。
今日の面談は彼女で終わりらしい。
廊下はすっかり寂寥に満ちていた。
僕は韮山が一体何を話すのか、実のところ気になっていた。
他の人間なら、何を話すのだろう。
ふと、そんなことが気になったためである。
盗人のようにそっと教室の僅かに建て付けの悪いドアに耳をそば立て、
二人の内容を探る。
今思えば空っぽの人間らしい、馬鹿げた発想であった。
最初の頃は別段何の問題もなく執り行われた、ある意味形式だった会話であった。
しかし、女教師が韮山に将来を問うた時、その歯車は大きく狂う。
彼女は何の躊躇いもなく、堂々と、宣誓するように高らかに女教師に吐露した。
「私の夢ですか?勿論、画聖になることです。」
女教師は豆鉄砲を喰らったような顔をしているのか、しばしの沈黙が教室を襲う。
刹那、教室の窓から橙色の夕陽が差し込んでいるのが見えた。
それは彼女の情熱を高らかに謳っているようにも見えた。
「画聖って…絵描きさん…ってことかな?芸大に行きたいとか、そういうこと?」
「いいえ、ただの絵描きではありません。
画聖ですよ、画聖。
無名の画家として生涯を終えるんじゃない。
私は最高の画家になりたいんだ。
そうじゃなければ、絵描きなんてやめてやりますよ。」
一応補足をしておくと、僕たちは高校一年生である。
新入生が進路について考えられるように、とこのイベントが開かれたらしい。
だからこそ、なまじ現実めいたものが来ると思っていたので、僕は思わずびっくりしてしまった。
それは女教師も同じだったようで、彼女は困ったように返す。
「いや、でも画家さんだけじゃきっと食べていけないと思うからさ…」
「そうですか?
画聖ならきっと、世界の十本の指には入るほどの贅沢ができると思いますよ。」
てんで話が通じない。
その奇妙ながらも滑稽な光景に、思わず笑いが込み上げそうになった。
「はぁ…まあいいわ。
ちなみに、どうして芸術家になりたいの?
ご両親がそれ関係の仕事をなさっている、とかかな?」
「いえ、単に絵を描くのが好きだからですよ。」
「んー……」
女教師は本格的に頭を抱えたらしく、1,2秒ほど唸った後に、韮山に適当な理由をつけて帰らせた。
帰りゆく彼女に、僕は思わず声をかける。
「あっ、あの…」
「ん?私?」
韮山はやや驚いたように僕の方を振り向いた。
彼女の顔は夕陽に照らされて、活力に満ちている。
それに比べて僕はどうか。
日陰に顔の大半を置き、僅かに当たった光は偽りのものでしかないように思えた。
ただ、そこで諦めたくはない。
彼女のように、夢を見てみたくなった。
帰宅を促すチャイムと共に、僕の中で何かゼンマイ仕掛けのような音が聞こえる。
そう、僕の物語は。
僕の、中原裕人の物語はきっと、ここから始まるのだと思って。
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