故、埋まって

扉を開いて、傘を立て掛け、靴を脱ぎながら玄関の明かりをつける。


「ただいまー……」


「……いま」


どっちがどっちを言ったのかというと、僕が先だ。どちらにせよ、虚しく反響するだけなのだが。むしろ、つい小心というか、小市民的なところが出てしまって誰も居ないと分かっているのに挨拶を投げかけてしまう僕よりも、無駄なリソースを割くまいと僕に合わせるまでは黙っている彩理の方が賢い、可愛い、明日見彩理。

まあ、究極的に、どうでもいいことだ。分かりきっていることを何度も再確認してしまうところなんて、それこそ小市民で超小心。もはや超市民とかそんなことはどうでもよくて廊下を歩いてリビングルーム、ああ、例えばリビングデッドがもし侵入していたら帰宅の挨拶も存在の確認になるし無駄では無いかもしれないな、と無駄なことを考えながら、僕は夕食の準備に取り掛かった。

いつも通りのルーティーンだった。彩理は、キッチン(=僕の視線)から斜め前の居間に座り込んで、昨日から読み進めている株についての本を開き、既に没入している。ソファもあるんだけど、彼女はあまり座らず、それを背もたれにするように体育座り崩れの姿勢でいるのが落ち着くようだった。それにしてもああいう感じの本は、僕にはどうも面倒そうで全然読む気にもならないのだが、あんなに集中できるものなのだな。経済の仕組みについて知ることで強かに生きていく術を身につけようとしている社会派ガールなのだろうか、賢い可愛い。それか、自力で自立するだけの自給力を身につけてこの家から出て行こうとしているのだろうか、僕との暮らしに嫌気がさして。賢い可愛い悲しい。


「さっ、さい彩理、出ていかないでくれお願いだ彩理がいなくなったら僕はばば」


「……?」


僕の声(っていうかもはや音)に反応して、一瞬こちらに視線を向けるも、怪訝そうな表情を浮かべたのち、すぐに読書を再開する彩理。多分いつものあれだと判断したのだろう。──実際。彩理が自分の判断で、どこかに行こうとするのなら、僕にそれを辞めさせる権利なんて、どこにもないのだけれど。

彼女の健やかさのために、僕は彼女を助けようなどと、その傲慢を看過しているのだ。それは基本だし、絶対のことだった。

そう振り返ってみれば、まあ、それはそうなのだ。だから、もしも彼女が、こんなふうにネガティブな考えを繰り返してばかりの僕という人間の矮小さに、うっ、心底疲れ果てて、ぐっ、僕の元から消え去ってしまうのだとしても──。


「ぐぅぅぅぅぅうっうぅぅぅぅぅぅ……」当然、応援して、後援するべきことなのである。

しゃがみこんで胸を抑える。


「えっ。あ、雨っ、大丈夫!?」


「うう、ごめん彩理、嫌にならないでくれ……」


それは、それとして、結局こうして心配させてしまっているあたり、どうにも立ち行かないことのようにも、それは思えてもしまうのだけれど。



その夜。

日記を書いているとき、僕はどうにも気になってしまって、寝室を抜け出した。深い寝息を立てて熟睡している彩理の睡眠に少しの邪魔にもならないように、僕は片手で、扉を閉める。もう片方には日記帳だ。──持ち出したいのは、そこに書かれたの内容。何度も改装されたアパート。お面をつけられ洗脳されるそこの住人。張り付けたような笑顔を張り付けた──友好の屋敷。半年前から始まった事件。唯一免れた住人からの、僕への依頼──箱の中身。

いても立ってもいられないという趣だった。まさしく、居るだけでも、立ち尽くすだけでもいられない。立って、歩いて、走って、居なくては。──行かなくては。

僕はそこに行かなくては、そう思いながら、そう思った根拠を列挙したノートを片手に、つまり空いたもう片方にはシャベルを携えて、走り出す。ああ!自転車が欲しい。実家にある所々錆びてしまった思い出の(善し悪しはひとまず置いておいて)自転車が今はどうにも恋しく思う。今欲しい。今すぐにでも──。

乗って走ればもっと速い、ただ、無いものを強請っても/願っても仕方がないので、仕様がなしに僕は走った。目的地は、事件の現場。探偵が一人──事件現場に。

こうも全力で走っている割に熱さを感じないな、と思って一瞬周囲を気にしてみると、まだ雨が降り続いていた。流れる汗に混じって気がつかなかったし、気がつかなかったのは、興味がないから、とも言える。雨がどうとか、傘がどうとか、風邪がどうとか──そういうことの何も彼にもが今の僕には興味が無くって、ただただ、浮かんだ可能性について、走りながらも思考することに、精一杯で必死だった。可能性。気になったこと。気がついたことだ。それを気に病んだ。だから気になって仕方がなかった。この事件の、奥に秘められた怪異や謎を、一切合切解き明かして、解決するための──僕はそのための、一つ最重要な鍵を発想したように思われた。

やがて、目的地に到着する。人々が寝静まって、その寝息すら聞こえてきそうなほどの、光と喧騒から完全に切り離されたような、夜の住宅街。建物を見上げる。部屋の電気はどこも消えている。きっと、依頼人の依頼人も既に、眠りについていることだろう。──それで、もっと見上げて。

星を見る。ぽつぽつと、微かながらも点在する、夜空に浮かぶ救いの粒。方舟を願う──彩理は、連れてこなかった。

そもそも、依頼されたのは僕なのだ。託すのは、そこから少しでも逃れるためで、だから関わらなくていいのなら──僕一人が向かうだけで、もしも解決できるとしたなら、そこに彩理やそれ以外は、いない方がいい。解明しなければならないような、暗闇に沈んだ不明瞭になど、関わらないに越したことはない。

或いは──見えない星は、救いになんてなりはしない。明かりを解いて消してしまわなければ見えないような、惰弱な光に救いなんてない。──ただ、けれど彼女は、それを求めてしまうから。

光を潰す、もっと大きな、目を焼くような眩光に、向かって掻き消えてしまうぐらいなら、電気を消して、暗い部屋の中で、瞳を閉じて眠っていてくれ。と、思うので、

一人で、僕はアパートの横に生えた、あの、妙に印象に残る立木の元へ歩く。歩いて行って、その根元に、僕は抱えたシャベルを突き立てた。


「……笑顔を強制する、お面」


張り付ける。

強迫観念。

もしくは──強要。

誰が作り、どうして行き渡ったのか──。

少しづつ、地面を掘り進めていく。張り巡らされた木の根にぶつかったら、少し場所をずらして、もっと深くまで。

僕の考えが正しければ──何処かに、根に邪魔をされず、深くまで掘り込める場所があるはずだった。

そしてそれは、現実のものとなる。


「!」


ざくりと、それまでの、硬い土を突き刺すような感触とは違う、だからといって木の根にぶつかった時の岩石を叩くようなものでもない──貫通、したような。空振り感。

今回の場合、クリティカル。

周囲を掘り分けて、行き当たったそれを浮かび上がらせようとする。白日の元に晒す──宵闇の中。僕はそれを、そっと覗き込んだ。

──綺麗だけれど、古いアパート。母親の代からの棲家。ずっと、そこにあり続けた一本の立木。


──桜の樹の下には────。



「今何とおっしゃいましたの?」怒りよりも、困惑。当惑の色を強く滲ませた声色で、音菜乃七乃はそう問うた。


僕はもう一度、自らの意思をはっきりと、確実に伝えるために、同じことを言い直す。──特に彼女を相手取っての会話において、それは重要なことのようだった。


「だから──って言ったんだ。悪いとも言わない、僕はここであなたの依頼を打ち切りにするし、拒否権はあなたにないと思う」


「雨……」


そもそも依頼人は音菜乃七乃ではなく彩理の方なので、最初はわざわざ別教室まで、依頼人の依頼人、間接的でどうでもいい、目の前のお嬢様言葉に、このことを伝えに来るつもりも無かったのだ。ただ、無かったから朝起きて彩理にだけ伝えたところ、そのことを、拒みはされなかったけど──「……音菜乃さんに、言いに行かないと……」独り言。

彩理に僕の尻拭いのようなことをさせるわけにもいかないので(つまり拭い去らないといけない禍根が、残るであろうことはわかった上で、僕は伝えるつもりが無かったのだ──問題認識能力が致命的に欠如しているわけではないということは、ここに弁明しておこうと思う)、こうしてわざわざ、行動指針を伝えにきてやった、というわけだった。

そのことで彼女が何を得るかというと、明確に、「だからもう調査の進捗とか、僕たちに伝える必要はないよ。っていうか、伝えてこないでくれ。僕も、彩理も、もうこの事件には関わらない」


「それは……」


少し間が空く。言葉を選ぶような、或いは、そもそも何を言うべきか、考えるような、悩むそぶりを見せたのち、再度口を開く音菜乃七乃。

納得するために?

そもそもそんな余地も、無いことだと思うけど。


「……確かに、正しいことではありますね……○×ゲームの○の方……考えてみれば、契約も報酬も無しで依頼だなんて、成り立ちもしておりませんでしたわ。それに──依頼主は、彩理さま、ですか」


「僕の意思は彩理のものだ。逆説的に──僕が決めたことなら、彩理もそう決める」


「その言い分はどうですの? どうあれ──……」


彩理の方を向く、音菜乃七乃。依頼のし直し──も、できない。

僕が決めたから。

彩理も決めるのだ。


「……あ。ちょっと、お待ちに──」


なので、僕は彩理の手を引いて、ここから立ち去る。呼び止めるような声がするが、無意味、文字通り無いようなもので、気に留めることも無駄なことだ。教室を出て、扉を閉めた。

廊下を歩く。


「ねえ──……っ。……どう、してっ?」


──問いかけ。僕は──。


「──こうしないと、いけないからだ。彩理もわかるだろ?」


「……っ」


沈黙する彩理を横目に、僕はもう一度前を向き直した。

──桜の樹の下には、屍体が埋まっている────。

掘り起こした、穴の中で、眠っていた。


────。


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