食、えないらしい
「元々、一人暮らしをすると言うのは、高校を決める以前から、話し合って決めていたことでしたの。色々事情がありまして。差し当たって、まあ、彩理さんの懸念通りですわね、住む場所のことは熟考が必要だろうと、なり──で、そこなら安全だから、大丈夫だろうと、そういう場所があるのだと、お母様に教えていただいたのが、ここですわ」
そう、経緯の説明──おそらく、この後始まるのであろう重要事項の、説明の、前提条件なのだろう話をしながら、音菜乃七乃は、ガサゴソとクローゼットの奥を漁っていた。関連性──このアパートで、彼女が恐怖することなく、一人暮らしをできている理由と、巻き込まれている怪異との、繋がり。関わりが連なった、その理由。それを思い出した、と言ったきり、彼女はそうしてあれこれひっくり返していた。
「ありました──」
やがて、僕と彩理が待ちくたびれてスマホで対戦パズルゲームに没頭し始めた頃、音菜乃七乃はそう言って、一つ、小さな箱を取り出してきた。小さな、手のひらに収まるくらいの箱。バレンタイン、チョコ、とか──まあ僕は貰ったことがないので、それは完全にイメージでしかないのだけど、じゃあ見たことがあるもので何に例えられるかと考えると、特に思い浮かぶものがなくて──とにかく、プレゼント用のラッピング、ハートのパターンがあしらわれた包み紙で覆われた、そんな箱だ。
「なに、嫌いな奴から貰ったから食べたいと思えないけど捨てるのはカカオ農家や開発企業に失礼だし忍びないから何となく棚の奥にしまいこんであったバレンタインチョコとかか?」
「貰ったら食べますわよ、チョコは好きですの。そうじゃなくて、引っ越す時お母様からいただいたのです。困ったことがあったら開けなさいと言われていました」
「その手の贈り物にしてはデザインが愛らしすぎないか?」
もうちょっと古風な風格とかあるものだろう。
とはいえ。
「この中に何があるのか──お母様は何を以ってこのアパートを紹介して、何を想ってこの箱を託されたのか、そのことを加味した上で、情報の再整理を致しましょう?」
予期したような“困りごと“には、きっと因果があるのだろう。
経験則で、そう思えた。
事件概要。
音菜乃七乃が高校入学に伴って入居したアパートで、居住者の一人が、半年前から張り付けたような笑みを浮かべたお面を張り付けたまま生活するようになった。当初不気味にこそ思われたが、害を生すという類のものでは無かったため放置された。しかしその一週間後、面をした居住者が他の居住者に暴行を働く、という事件が発生する。加害者は逮捕されたが、被害者側が訴えを取り下げたことで釈放。その際被害者は、加害者と同じ、張り付けたような笑みを浮かべたお面を張り付けていたという。
説明を続けながら、丁寧に箱の封を剥がしていく音菜乃。
「以降、同じことがループして現状ですわ。お面をした方々は、一見すると普通──いえ、それ以上の、つまり、とてもにこやかで、愛想がよく、好感の持てる態度を取りますの。一つの条件を除いて」
「笑みを浮かべてない他の居住者を見たら、襲いかかってお面を被せる──」
にこやかな愛想笑い。社交的な、社会性。──張り付けたような笑みを張り付けて。
全く暴力的なことだった。そのための手段が、本当に暴力だというのだから、これは本当にどうしようもない。こんな依頼を受けてしまうだなんて、昔の僕は一体全体どうかしていたとしか思えないだろう。
昔の僕は。
確かにどうかしていた。
どうにもできないのに。
どうにかしようとしていた。
だから、彼女も僕に依頼しようだなんて思うようになってしまったのだ。
受けてしまったからには──僕はこの事件を、どうにかしないといけないのだけれど。それが勝利とは限らずとも。
「元々、このアパートの方々は本当にいい人ばかりで……。こんなふうに、何かに毒されなくたって、十二分に好ましい、素晴らしい方々でしたの。けれど、半年前──このパンデミックが始まって以降、皆様、みるみるうちに憔悴していきまして」
「あぁ……」
「え声に情感篭りすぎじゃありません? どうしましたの」
「雨、あんなににこにこ喋ってるの、初めて見たから……疲れてる?」
それは彩理もそうだろう、と思いついた返答は出力せずに悲しそうな表情だけ向ける。憔悴しているのは、本当に……まあ、うん……。
いやっ。
とにかくとして、僕は許せなかった。
少しでも、その仮面を外したまま──或いは外界に出て、疲労して、消耗して、ようやく重い外殻を取り払って、自由になれる──解放される。そうあれるはずの、家という場所で、気が緩んでもそんなこと、誰に責められるものでもないはずで、けれどこの怪異は、そうならないことを強制する。笑顔を張り付ける。
疲労。
消耗。
憔悴──消滅。
そんなことを続けていたら、きっと心は消えてしまう。
故に、これは紛れもなく、害であり、怪異であった。つまり依頼。解決だ。
解決するために、僕は調査をしなければ。
「……調査か──……」
方法は、限られる。音菜乃七乃の事前調査──そもそも。僕のことを知ったのが、いつであったかは知らないが、どちらにせよ、探偵だなんて得体の知れないものへの依頼だなんて、最後の最後、何もかも手を尽くし切ってそれでもどうしようもないくらいどうにもならなくなった時に、ようやく行き当たるべき行き詰まりなのだから、つまり僕に依頼をしている時点で、それ以前の段階で、自分にできる程度の調査は一通り行なっていると、そう考えることが当然の道筋というものだし──実際、彼女はそうしていたので、僕が調査するまでもなく、既に判明している事柄が、いくつかあって、それらの情報の共有に関しても、朝教室で話を聞いた時には完了していた。
それによると、という話。
まず、お面を張り付けられた住民に関しては、洗脳されているらしい。具体的には、お面のことや、それに纏わることを訊ねた時、様子がおかしくなった。──そこで追及を止めたことは、彼女の生存本能が招き寄せたまさしく第六感に他ならないだろう。
それ以外の記憶や認知については、確認した範囲で問題なし。まあ、そこは恐らく大丈夫だろう。面を被せる怪異で、面についてのことだけおかしくなるなら、その目的は面に関して探らせないようにすることだから、それ以外の記憶や自覚に干渉する理由はない。
次に、面を作った犯人についての可能性。
まあ、何か不可解な事件があったとして、例えそれがどれだけ不可解だったとしても最初から怪異、人ならざる存在の関与を疑うなんてことは、元々そういう趣味でもない限りそう無いだろうから(お嬢様言葉が“そういう趣味“に含まれるかどうかについては要検証)、最初に人為の痕跡を探るのは妥当なことと思えるが──これについては、手がかりが少なすぎて、殆ど何も分からなかったらしい。少なくとも、自分が知る限り付近で怪しい人物を見たということもないし、そういう噂もなかったということだ。とはいえ多分、僕の見た限りこれは普通に怪異の──人為ではない、人の偽物の仕業の事件だろうから、ひとまずこの可能性は排除して考えることとする。
「どうしてそう言い切れますの?」とは彼女の弁。
「逆に、誰がどういう動機を持ったら、被るとその人の人格を殆ど常ににこやかなものに変えて、同じアパートに住む人間が笑みを浮かべていなかったら凶暴化して同じものを被せようと襲いかからせる、アパート外部の人間には見えないお面を開発して、量産して、配布するのか、ってなるだろ。……理解し難いだろうけど、だからこそ、それは怪異がいるって証明なんだよ。──分からないのが怪異なんだから」
或いは謎、しかしミステリーでそんな天才科学者が出てきたらトリックは途端に陳腐化してしまうだろう。超人が集まるような話なら別でも、現実に超人なんてそんないない。──バケモノが居るからといって、人の心が変わるわけではないのだから。
むしろ、心があるからこそ人は超常の怪物にも立ち向かえる。それを信じたから僕はああして怪異に立ち向かい続けたのだから。
彼女を見て信じたのだから。
故にこの、見えない人には見えない、ただそれだけとも言える仮面は、地球上のあらゆる科学技術の粋を集めて作られた叡智の結晶なんかではなく、単に不条理な怪異であると、僕はそう言い切ったのだ。
「っていうか──僕と彩理にだけ例外的に見えるっていうのがだいぶ怪異なんだけど」
「ああ、まあ、それは確かに……技術だったらそういう揺らぎは排除されてそうですわね。バグってるのかもですけれど」
「んな簡単にバグる超技術よな。それよかよっぽど、怪異がいるって方が有り得そう。実際僕らが──」
彩理の手を取って、音菜乃七乃に見せつけるように掲げながら、握る。あーヤワラカ……フヒヒ。
「生き証人だし」
開いた方の手で何やらスマホを弄り始める彩理。え、今の決めシーンだったんだけど……! 泣きそうだ。悲しそうな表情を向ける。
「……っつうわってビックリした!! え、彩理!?」
かと思ったら突然大爆音で何やらかっこいい、某天才物理学者の推理ドラマのクライマックスBGMみたいな曲が流れ始めた。どうやら彩理が流したらしい。
「パチパチパチパチ……いやおみそれいたしましたわ、流石は超常の専属名探偵様、何やらかっこいいことを言うとそんなふうにBGMまで流れ始めますのね」
さっきお面リーマンと邂逅した時のものより数倍、乾いた笑顔だった。
「その口で拍手するのを止めてくれ! っていうか彩理も止めて、普通に近所迷惑だ……!」
「あ、あ、音量見てなかった、ごめ……」
慌ててボリュームを落とす彩理を見て愛おしさで抱きしめたい衝動に駆られながら、そもそもここで近所迷惑もクソもないなと思った。
むしろ、文字通り、全員近所迷惑だ。
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