来、いつの間にやら
十分後。
「助けられた……」
「雨、ほんとに大丈夫?」
「っていうか、ぜっ、彩理さっ、はっ、いっ、意外と体力、っていうか、膂力、っ、あれ、この場合どっちが適切なんですの……?」
どこかの、アパートの階段を上がったところの、通路だった。倒れ込んだ僕のそばでしゃがんで、こちらの様子を伺ってくる彩理(これを見た時点で僕は死んでしまったのかと思った。天使のお迎えが来たのかと)と、必死に息を整えながらどうでもいいことを気にしている音菜乃七乃の姿があった。僕はなんとか、水を飲みこんだりで疲弊した身体を持ち上げて、それぞれの方に向き直る。
「あー、どっちも、助かった……」
「いえ、まあ、わたくしは何も……彩理さん、両手を上げて大喜びしてくださいませ」
「えっ」
なんだその要求は。彩理が目を白黒させているだろう。具体的には白目が黒く黒目が白くなったり戻ったりしている。バトル漫画みてぇ。
じゃなくて。
怪異やんけ。
「えっ、ちょっ、彩理、それ大丈夫なのか!?」
「え、あ、これは、大丈夫だよ。ちょっと前からびっくりした時とか、なってて……困ったりは、ないから」
「ほっ、ほんとか、ほんとに大丈夫……!?」
「うん」
本当に、特に意にも介していない、というような、平気そうな表情を見せる彩理。どうやら、何か我慢をしているとか、そういう訳では無さそうだった。……まあ、実際彩理は、こういう時不調があるなら、それは真っ直ぐに伝えてきてくれていた。これは彼女の善性であり、僕の懇願の、結果でもあった。なので。
ひとまず、頭の隅に留めておくだけに抑えようか。気づいたから直せるって訳でもないし。ここまで気づけていなかったことは恥じるべきことだったが、気にしすぎても仕方がない。これから恥じ続けるだけで終わらせることにする。
そしてそうして割り切ってしまえば、彩理があわあわする様子は非常に愛らしいものだった。それで僕は一瞬で体力を全快にできたので、これはこの状況を作った、音菜乃七乃の功績になるのだろう。大手を振って大歓喜をしてもらおう。
爆アゲダンスフロア或いは無人島から救援を求める遭難者よろしくぶんぶん両手を振り回している二人を後ろに、僕は現状を確認する。流されている間視界も思考もめちゃくちゃだったので、何がどうなって今ここにいるのか、そもそもここがどこなのか、よくわかっていないのだが──。ぐるりと一周辺りを見回す。
煉瓦風の外観をした、適度におしゃれなアパートだ。外の(まあここも部屋の外側の通路なのだが、天井があるので一応内部扱いで)様子を見ると、雨の勢いは収まる様子がなく、階下にはさっきまでより一層激しく流れる濁水があった。大変な状態だ。おそらく、あれから逃れるために高台の、この場所に登ったのだろう。関わりのない住居の敷地内に入る是非はあろうが、まあ緊急のことだから、仕方ない──そう思っていると。
「うわっ。すげえ濡れてる……」
階段の方から声が聞こえた。誰かが登ってきたらしい。帰宅した居住者だろうか。それとも僕たちのように、避難してきた通行人かもしれない。とにかく、そちらを見る──。
「え、どうしたんですか? ……え大丈夫、ですか?」
そこには、こちらの、通路に座り込んだ不良高校生三人組、或いは、全身を水に濡らして、疲労困憊の様子でへたり込んでいる避難者たち、という様子を見て、後者だと認識したのだろう、心配の言葉を投げかけてくる──張り付けたような笑みを浮かべたお面を張り付けた、スーツ姿の男がいた。
怪異だった。
単なる、狂人。変人。先刻再認識した、尊重するべき個々人の性状ではあり得ない。なぜなら、それこそが、音菜乃七乃。依頼人の依頼人を取り巻き苦しめる、どうしようもない現況の。
探偵に依頼しようなどと、とち狂う、までに至った、その根因だったからだ。
伝えられていた不可思議。
「……あー、はい。すみません、ちょっと外の勢いやばくて、どうにか高いところにと……」
故に僕は、適度な、つまり僅かにわざとらしく、とはいえそれなりに好ましく、にこやかで、社交的な愛想笑いで、彼の疑問に返答する。怪異──笑っていなければならない、そういう性質だ。
彩理を見ると、僕と同じように、それでこそが社会性であるでとも形容するべきような、ぎこちない笑みを浮かべて僕の言葉に頷いている。条件は、僕の対人能力が自己認識を遥かに超えて乏しいという慮外がなければ、クリア。判定は──
「ああ……大変でしたねぇ、突然物凄い雨になって……慌てて帰ってきましたよ」
「ああ、そうなんですね、お疲れ様です……少ししたら出て行きますんで、すみません、よろしくお願いします」
「いえいえ、お気になさらずー」
形式的な、いかにも慮ったと自己弁護して取り繕いたさげな、幾らかの後ろめたさを伴うやり取りを経て、男は、通路の外側に寄った僕たち三人の前を、ぺこぺこと申し訳ないというふうな仕草を取りながら、通り過ぎていって、扉の一つの向こうへ消えた。──成功。緊張が解け、どっと疲れが押し寄せる。さっき回復したばかりなのに、逆戻りという感じで徒労感が募る。
「彩理、大丈夫か……? 大丈夫ならもっかい手ぶんぶん振ってくれ……」
「雨、大丈夫じゃない?」
「まああんまり」
軽く軽い(←つまり、軽薄な)やり取り。これだけでもいくらか調子が戻る。立ち上がり、服についた埃を払う。突然の、遭遇──それが意味するところ。僕は、もう一人に視線を向けようとして、でもその前に。
「……っていうか、出ていくって言っても、目的地はここなんですけれど」
そう、聞こうとしたことを、先に言った。先に言う、もう一人がいた。
音菜乃七乃。依頼人の依頼人。怪異に纏わりつかれた、お嬢様言葉。どうしようもない現況に、とち狂って探偵に縋った、哀れな少女──つまり、彼女の巻き込まれた、先の異質。張り付けたような笑みを浮かべたお面を張り付けた、スーツ姿、というより、このアパートに暮らす、音菜乃七乃を除いた全員が、或いはそのきっかけとなった不明瞭こそが、今回、僕、明日見彩理の専属探偵、解決というよりもケツ捲って逃げ出す専門の、役立たずの迷探偵が、解き明かして解決することを求められた、相対すべき怪異だった。
どうやら、目的地にはすでに、辿り着いていたらしい。
「っていうか、あれ、もしかしてあれ、見えてたんですの?」
「見えてた──な。話が違うけど、何か弁明は?」
「多分、あなた方が特殊なだけですわ。何度も試しましたもの。ここに住んでいる方々以外は、あの仮面が見えない、その言葉に、少なくともわたくしの現状認識に、間違いはありませんでしたわ」
「どうだろうな……自認とか、そういうのアテになんないのが、怪異だから」
っていうか、謎だ。ミステリーの定番、証言の偽証が、今回行われていないと、僕にはテレパシーがないので、むしろ、あったとしても、確定はできなかった。
「それで──何か手がかりは掴めました?」
「まだファーストコンタクトしかないのにハードルが高すぎないか? 探偵は超人じゃないんだぞ……!」
少なくとも僕は凡人以下だ。怪異に犯されてても断言できる。
フリフリした部屋の中で、パステルピンクな模様があしらわれたロリータなローテーブルを囲んでいた。目から塩味じゃなくて砂糖味の涙が流れてきそうな、涙を流して逃げ出したくなるような、女の子らしい(最大限穏やかに&定型的印象論に押し嵌めての表現で)内装の、ここは音菜乃七乃の自室だった。自室というか、自宅。彼女は一人暮らしらしい。普通高校生で親元を離れて生活する人間ってスポーツ推薦の寮生活者ぐらいで、それにしても他学生との共同生活、賃貸契約をするとか、とにかくほぼ完全に保護者不在の生活を送る高校生というのは、相当珍しいように思えるのだが──なぜか今この空間にいる三人は、総じてそういう環境に身を置いていた。
因果というか、因縁というか。これも一つの縁なのだろうが、似たもの同士が寄せ集まるというのは、個人的には勘弁してほしいと思う縁結びだった。僕のような人間ばかりでは世界は滅びるだろうし、彩理のような境遇は世界に一人としていなくなった方がいい。依頼の殺到なんて論外だ。
とはいえ──一人暮らし。女子高校生の、完全に親元を離れた、保護者不在。彩理は、一応、頼りない上にむしろそれが一番危険だろうと糾弾したくなる者も多いだろうが、僕という、ボディガード、というか肉壁があって、最低限の安全マージンは確保できている、とも考えられる。まあ、二人暮らしだ。ただ、音菜乃七乃は、そうではない。完全に、一人。一人で暮らしていると、そう言って憚らなかった。
因果。因縁。縁の、起こり。因縁をつけられる。彼女の状況は、望まない縁を呼び寄せる、まさしく絶好なのではないかと、僕には思われた。
「実は合気道の達人だとか」
「ひっくり返そうと踏ん張ったらわたくしの方がひっくり返ると思いますわ」
だよなぁ……。彼女の身体能力の残念さは、この短い付き合いの中でさえ、幾度と目の当たりにしてきた。
であれば、自信。自らの意思には、いかなる危機にも最善の判断を繰り返せる覚悟がある、そういう芯がある、と考えている可能性。これは、それなりにあり得そうに思えた。彼女の言動から迸る、よく分からない過剰な自意識。勇気と無謀は違うというか、蛮勇というか──ああ、まあ、でも、個人の意思なら、否定はできないというのは、やっぱり、先程省みたばっかりだ。ならば僕は、彼女の自我を尊重するべきだろうか。……いや、まあ、別に、考えるまでもなくそれは、そうなんだけど。一人暮らしと聞いて、それにどうこう口を挟むとか、まあ別にしない。
するとすれば──。
「……けど危なく、ないの?」
そうやって彩理が訊ねる。そう、普通に、ちょっと心配する。そのくらいだ。
それはまあ、自然で、普通なことだろうとは、思えるのだけど──果たして。
「いえ……なんと言うか、だからこそというか……。多分、今、このアパートがこんなことになっているのと、そのこととは、もしかしたら関連がありますの。ありそうな可能性を思い出しました」
不自然で、異常な、それはそんな回答であるようだった。
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