穢、つかれた

────怪異。

この世界における、最たる謎。未だに自分の目を疑うような、ありえないと叫びたくなるような、けれど確かに存在してしまっていて、僕が、彼女が、知ってしまって関わってしまったうつつならざるもの。幽霊、妖精、魑魅魍魎。化け物の総称として、僕はその言葉を使っていた。

その領外たる存在は、人に理解することは叶わず。

敵うことはできなかった。

故に逃れるしかない。


僕の、幼馴染にして、同居人にして、境遇を同じくするものである、世界で一番大切な人。明日見彩理は、僕が幼い頃知り合ってから、共に暮らし始めた現在に至るまで、その人生のほとんどを同道してきた上で──その理由の一切が不明なまま。

明るみに出ないまま。

白日の元に晒されないまま。

それこそ、世界で一番──怪異や、そうでないものや。数多くの、謎、というものに、いつからか。巻き込まれて生きてきたのだ。

彼女の持つ異常の、最たるもの。

明日見彩理は、誰よりも、謎に巻き込まれ易い体質だった。


少なくとも、七歳の春休み、彼女に初めて出会った時から、そうであったことを覚えている。初対面で、母親と手を繋いだまま、その背に少し隠れるように立っていた、頭部が彼岸花にすげ替えられていた彼女を見て、それを意に介さない(介せない)周囲の大人を見て、僕は彼女を知ったのだった。それから、僕が彼女と約束を交わして、ランドセルを背負って毎朝長い下り坂を舞い下りる日々が始まって、それが変わって自転車で夕刻同じ上り坂を駆け上がる日常が続いて、そのほぼ全ての一日を一緒に終える日夜があって。────そしてそのずっとで、彼女は謎に苛まれ続けた。

目を離せば、化け物に連れ去られた。

目を合わせれば、狂気に苛まれていた。

僕が彼女に出会ってから、高校生になってこの街に出てくるまでの、あのふざけた山奥の寒村で過ごした十年間で、いったい何度、謎におかされ、ひたされ、冒涜ぼうとくされた彼女を見ただろうか。

もうとっくに数えるのは止めてしまったけれど──


ただ、けれど、それが数多と繰り返されてきたことは、流石に覚えているのだから。だから僕は、今回も。

これまでの幾多がそうであったように。

彼女を、逃がそうと、そう尽力するのだった。

そのための探偵になると約束したのだった。



「……くそっ!」

──差し当たって、怪異に遭遇した場合、それから逃げ出すために、まず確認するべきことがあった。

それは、だ。

矛盾。背反。頓珍漢。けれど事実だ。怪異は、特にそれが今回のような、密室(またはそれに近い状態の)空間で──あー……領域を作って、それで人を襲う、といった種類であった場合、その空間全体を、ある種異空間のような、外部から断絶された世界にして、内部にいる獲物を閉じ込める、なんて挙動をとることが往々にしてあった。

逃げ出せない──例えば、窓ガラスに椅子を叩きつけても、ヒビの一つも入ることなく無傷で保たれる、みたいな形で。

閉じ込める。

閉じ込められる。

今回の場合、閉じ込められていた。


「最悪……!」よくある最悪だった。


「雨っ、危ない!」


そんな叫び声が聞こえた瞬間、ノータイムで僕は横に跳んだ。この場合左右は重要じゃない。大事なのはその場に留まらないことだ。静脈血のような黒をした、巨大で禍々しい左手が、跳び退く時にその場に放り出した椅子を粉々に砕け散らしたのが視界の端で見えた。左手からは、関節や筋肉がどういう配置をされているのかまるでわからない、ぐにゃった枯れ木のような形の細腕が繋がっていて、それは怪異の割れた顔面の奥から伸びてきているようだった。顔面の中にはやはり黒いどろどろが渦巻いている。怪異はそんな、首の上にくっついている、ということ以外それが顔であるということを説明できないような、過度に定型を崩した形の頭部を、ゆっくりとこちらに向けてきて、。「なんで(僕はそれを)認識できるんだよ……!」領外。やはり、今回も、相手取るは理の外。こちらの視覚など知覚など感覚など全無視してただ理解だけを与えてくる、それは、そういう顔をしているらしかった。

理外だけが理解できるようだった。


「ダジャレ言ってる場合じゃない……!」


とにかく、今この空間は奴の領域だ。物理法則より優先される奴の定めたルールがある。ここから逃れるためには、ルールに沿った正規の脱出法をなぞるか、ルールの綻びから破るか、そのどちらかしかない。これは経験則だ。これまで、領域に閉じ込められる種類の遭遇に対しては、そのどちらかで対処ができてきた、という話。脱出不可能な領域──それもあるのかもしれないが、少なくとも僕は、そして僕がそうならおそらくほぼ確実に彩理も、今のところその種類の理不尽には遭遇したことがない。──今回もそうだと、懇願するしかないだろう。



──幸い、奴の動きは比較的鈍間だった。僕の全力スプリントであれば問題なく距離を取って、適度なところで本棚の裏に身を隠し、そのまま視界から逃れることができる程度。なのでそれを敢行したのち、僕と彩理は今、ドーム状空間の中程、中央広間と壁際の、ちょうど真ん中辺りの──全方向を警戒しなければならないが、転じて全方向に逃げることもできるような、そんな位置にある本棚の裏に身を隠していた。

視界を切るということは、こちらの視界も切れるということで。先ほどまで僕たちが走っていた、つまり奴が追ってきていた通りをちらりと覗き見るが、奴の姿は既にそこには無かった。だからこその、全方位警戒だった。


「──担保────を────……』


ただ、不気味な声だけが館内に響いている。音から位置を探ることはできなかった。声量はそうでもないように聞こえるのに、なぜか奴の声はよく響く。よく響いて反響するので、位置関係はぐちゃぐちゃだ。まあ、仕方ない。


「……怪異だからな……」


「雨、どうしよう」


諦観気味に本棚を背もたれにして、天井を見上げて呟いていると、左耳にASMR。いかなる美声も彼女の前には全てがジャイアン、ご存知明日見彩理の声だ。ああいやこれは流石に失礼な例えだ……駄目だ、息が切れてる。酸欠で思考がまとまっていない。

どうしよう、同仕様? 同志用、怒牛様? 怒った牛様ってなんだ、あいつツノとか生えてたっけ……そもそも怒ってないだろ。……どうしようってどういう意味だっけ。いやなんだその疑問。いや、でも、どうしよう、どうしよう、なんだっけ。名称と意味が繋がってこない。普通は磁石のSとN、名称があれば意味が、意味があれば名称が、勝手に引き寄せられるように頭に浮かぶ、はずなんだけど……どうにも力場が狂っている。

疲れているのか、憑かれているのか。この場合憑かれている。間違いなく。なんせここは領域だ。それなら僕は、恐れている? 

いや──僕は、考えないといけない。彼女のために。だから何を考えないといけないのかを考えないといけない。だから、考えないと。


「ああ……そうだな、どうしないと」考えるために、とにかく喋って話を先に進めることにする。別のことをしながら考えた方が、ふっと答えが浮かんでくる、そういうこともある。


「どうしないと──」


どうしよう、どうしない、どうする、どうするか。どうするかか。

どうにかする、だ。うん、今はその方法を、考えないといけない。あの怪異を、どうにかする──ああ、その方法を探すんだ。よし、ふっと浮かぶ。ちょっとずつだけど。なるべく考えながらゆっくり視線を彩理の方に向けると、彼女は不安げな表情をしているようだった。怯えているのだろうか。当たり前だ、あんな不気味な化け物に襲われて、捕まったらきっとあの大きな黒い手で、担保を求められて、そんな意味不明な理由でなんでか殺されてしまう。ぐちゃぐちゃのばらばらだ。怖がらない方が、おかしいだろう。そうだ、僕は、彼女をどうにかして、ここから逃がさないと、だ。


「雨、大丈夫?」


彼女はそう僕の心配をしてくる。あれ、不安げなのは僕を気遣ってか? それなら非常に申し訳ないことだ。そういえば彼女は今瞳をまん丸にしている。ってことは、集中してる──今の状況に臆することなく、頭を動かしてる、ってことだ。つまり、さっきのは僕の考え違いで、怯えて、僕に助けを求めているから不安げなんじゃなくて、やっぱり僕の様子を見て、それを気遣う感情の表出として、不安げになっている、ってことなのだろうか。

それは。

つまり────


意識して、一度強く目を瞑って、開いて、それから答える。「……うん、大丈夫だ」


彼女を助けるための僕が、彼女を差し置いて堕落するなんてのは、なんて惰弱極まりないことだろうな。だから、してられない。気合を入れ直せよ、空拭雨。


「大丈夫──今、何個か、やりようは思いついたんだよ。多分、先に分かってただろうけど」


「雨?」


あれだけうだうだ考えたのだ。これだけ時間があったのだ。きっと彩理は、僕が思いつく程度のことなんかには、もう既に辿り着いていることだろう。ただ、その実行に、僕の肉体は、一助になれるはずだ。

僕の相槌に、首を傾げる彩理を見て、ああなんて謙虚で淑やかで慎ましやかな愛おしい少女だと僕は彼女にそう思った。



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