兎、脱
それから、しばらくの間彩理は本棚と本棚の間を行ったり来たり登ったり降りたり、滑車を回すハムスターよろしくくるくる忙しなく館内を動き回っていた。普段はもっと落ち着いて観覧しているのだが、今日は時間内に間に合わせるために急いでいるのだろう。本当に申し訳ない限りだった。
「本当に申し訳ない限りだ……」
こぼしながら、僕は適当な本を一冊、何も考えず抜き出した。『世界妖怪百景』どこかで見たことのあるようなままのひねりのなさな上に、妖怪という日本特有の名称を世界全体に押し嵌めて語ろうとするような微妙なプライドの高さというか、作者の思想的なものを感じて嫌なタイトルだった。嫌なのは僕の思考回路かもしれない。
(僕のことは一旦棚にあげておいて)嫌なタイトルだったが、ここで出会ったのも何かの縁だ。縁。えにし。巡り合わせ。流れ。運命。そういったものは、存外正鵠を得ていることが多いと僕は思っていた。なので、僕は彩理を待つ間、この本を読んで時間を潰すことにした。
……サンタクロースを妖怪扱いは、流石にどっかに怒られるんじゃないだろうか。
視界の端で、十冊目の本が重ねられたのを見とめ、僕は顔を上げた。世界妖怪百景はだいたい三十景ほどのところまで読み進められている。
窓から覗く空が薄闇に染まっていた。どうやら、いつの間にか結構な時間が経過していたらしい。時計を見ると、針は七時の数分前を指していた。彩理が、終盤のジェンガのようにガタついた積まれ方をしていた本を整えている。閉館直前。彩理は、なんとか今日借りる十冊の本を選び切ることができたようだった。それにしても彩理は何をしていても可愛いな。あ、本の角すごい綺麗に揃えてる。かーわーいーーー。
咳払い。
「決まったのか」
「うん。いこ」
重ねられた本は、医学や建築学、哲学の専門書やら株取引のノウハウ本、音楽入門美術応用etc、とにかく雑多、とにかく厚みのある本を内容は考えずに抜き出しました、みたいな混沌とした様相を呈していた。一冊だけ最新SFの設定を学術的に解説しました、という、彩理が元々好んでいるような内容のもの(確か新刊だったと思う)があって、その部分にだけ(あくまで僕の視点からとしてだが)指向/嗜好性を感じられた。
まあ、一年以上もこのサイクルを続けているのだ。好きなジャンルは既に読破してしまっていて、今は興味の薄いジャンルに手を出していく段階、ということであっても不思議ではない。……そうは言っても。
とは言えど。
だとしてもとも言える。
これほんとに読んで楽しいのか、ていうか理解できるのか、と思ってしまうような選び方をしていたが……彩理の自由に口を出すことはできない。普段からあれだけ集中して読んでいるのだし、多分楽しいんだろう。楽しいんだろう……共感できない。
共感するために僕も読んでみるべきか、新訳:現代美術のための自転と公転。(そういえば宇宙っぽいワードの入ったものが多い)
現代美術にどうやって星の回転が絡むのか、むしろ美術家なんて社会の公転から外れて僻地で自分からぐるぐる軸回転してるような(僕みたいなを付随させると辛くなるのでそれはせずに)人間ばっかだろ、みたいなイメージが湧いてくるタイトルだった。……まあ。
「じゃ持つよ」
まあ、自転と公転も世界妖怪残り七十景も家に帰ってからだ。僕は立ち上がり、彩理が重ねた十冊の上に世界妖怪百景を乗せてから、まとめて抱え上げた。うわ重っ。
辞書並みの分厚さのものを毎回何冊も借りているので、重いのはいつもそうなのだが、今回は特に辞書比率が高いようだった。世界妖怪百景は、この場合関係ないだろう。(二百ページないくらいの文庫本なのでさほど影響はないはずだ)
こういう時のために普段から腕立て伏せなんかをしていたのだが、どうやらあまり効果は無かったらしい。「あ。雨、私も持つ」なるべく平気なふうを装おうとしたのだが、彩理に気づかれて気遣われてしまう。しかしここで意地を張らねば男が廃るのだ。「い“や“っ“っ“、大“じ“ょ“っ“…“…“」ひどい声が出た。死にかけのゴブリンか、それか窒息した金魚だ。
結局上から四冊(重いやつ三冊と世界妖怪百景)を持ってもらう結果になり、僕はようやく落ち着いた呼吸に成功する。
「……ありがとう、ごめん彩理……大丈夫か? ほんとに重くないか? 重かったらまたすぐ乗せてくれていいから」その場合オークに進化して対応することになる。
「ううん? 平気だよ」
「え、ほ、本当か? あのっ、ほんと、遠慮とかしなくていいからな? 最悪肺呼吸できる金魚になるから僕、きつかったらすぐ言って……」
肺呼吸できる金魚、のところでふすりと笑う彩理。珠玉。その余裕があるところを見るに、本当に平気らしい。まあ、少し落ち着いて考えたら、辞書三冊分……か。教科書の入った鞄と同じぐらい、と考えたら、さほど大変な量ではないのかもしれない。さすがに彩理を低く見積り過ぎた。猛省しよう。
「猛省のためにやっぱり僕に持たせてくれないか」
「もう着くよ?」
そう言われて前を見る。重さに耐えようとあっちを向いたりこっちを向いたり、彩理に持ってもらってからはそっちを向いたりしていて気づかなかったが、発言の通り、気づけば貸出カウンターまで到着していた。仕方がない。家までの帰り道で持つことにしよう。
カウンターには、一人の司書が立っていた。たまに誰もおらず呼びに行かないといけなくなることがあるので、いてくれたのはありがたい。ばらばらのタイミングで(主に僕が持ち上げるのに時間を要したのが理由)本をカウンターに乗せる。
「……貸し出しですか?」
なんというか、暗い雰囲気のする司書だった。(僕も大概陰鬱な人間である自覚はあるが、流石にこれほどでは……いや、ああ、ちょっと自信無くなってきた)
彼女(それとも彼なのだろうか)は、俯きがちな姿勢のまま、ちらりと、積み重ねられた本を見て、ゆっくりと……というより、粘着質に。不気味に。おどろおどろしいと言ってもいい。およそ人のパーソナリティに対して不適切な形容詞。けれど、そうとしか、どうしても感じられなかった、そんな声色で訊ねてくる。
館内には誰もいない。
「? はい」
少し、不思議そうに。僕と同じものを感じたのかは、わからない。初めて見る司書だったからかもしれなかったし、その質問が、普段あまりされることのない類の(図書館なのだから訊ねるまでもなく基本的には貸し出しだろう)ものだったからかもしれなかった。とにかく疑問符を孕んだ調子で、彩理は答えた。
僕は──彩理の手を握る。
「雨?」
嫌な予感がした。この予感は、過去、何度か体感した種類のものであり、また過去経験した複数回の出来事から、経験則的に導き出された、予想──。
霊感。
「では──」
司書の、おどろおどろしい声が、再び聞こえて、僕の頬を、冷たい汗が垂れるのを感じた。
汗が伝って、握りしめた、彩理と僕との手と手の間で、落ちる。
「────担保、を──」
ぞわりと身体中に走った鳥肌の知らせる直感に従い全力で床を蹴り飛ばし後ろに跳んだ。浮かんだ彩理の身体を引き寄せ抱きしめて、そのまま反転し走る。風圧を受けて流れる速度を早めた汗が、目に入って痛い。思わずぎゅうと目を閉じて、痛みを抑える。ぶんぶんと首を振る。目を開き直す。
今。
この瞬間。
この状況は。
視界を捨ててはいけない。
それは死に直結する。
「あ、雨っ、あれ!」
正面同士で抱き抱えているため、彩理は今、僕の肩のところに頭を乗せる形になっていた。その彩理が、あれ、と、何かを指して言うのなら、それはつまり、何か、僕の後ろに何かを見たということだ。
「何が見える!?」僕は司書──では、おそらくないのだろうが、とにかくそれがいた位置から逃れる足を緩めず、そのために後ろを振り向くこともできないままで、なので彩理に聞いた。怒鳴るような口調になってしまうことは緊急事態ゆえ許してほしい。
彩理は、許してくれたらしい。不快感を表出することもなく(そもそも彼女は人の言動をいちいち不快に思うような僕のような類の人間ではないが)答えてくれる。
「しっ、司書さんが、顔が割れてるっ。えっと、多分、そこから真っ黒い手が出てる!」
「そういうタイプか……! 出てるのは手!?」
「うん!」
確認を取りつつ、僕はまず、カウンターの正面側にある窓に向かって走った。こういった状況に陥った場合、まず一つ確定させるべきことがあった。一瞬速度を落として彩理を降ろし、手を結び直し再加速。道中、若干引き出されたままになっていた椅子を、彩理を引く手と逆の手で掴む。
そのまま、椅子を振り上げる。
「彩理、頭!」
警戒を促しながら、けれどそれで間に合ったかはわからない。わからないので最大限彩理を庇うような姿勢を作りながら僕は、壁に嵌め込まれた焦茶色のガラス窓に向かって、掴んだ椅子を勢いよく叩きつけた。
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