違、盲信っていうか妄想
「──あ。雨。ね、これ見て」
言いながら、てこてこと歩み寄ってくる。風に吹かれて揺れる長い黒髪のあちこちには、パッチワークのように色付いたシアンとマゼンタとイエローがあった。彼女が生まれ持った異常の一つ。
このあまりにも特徴的な、というより異質で、異様な髪色は、彼女の──それもまた特徴的で、異質で、異様な、体質に由来するものなのか、以前にも調べようとしたことがあったが、結局わからずじまいのままになっていた。
明日見彩理の持つ、数多くの異常。不明瞭なまま、彼女を苦しめ続ける様々を、解決することは僕にとって一生涯の目標であり、そして同時に、なに一つとして果たすことができていない約束だった。
そのことを、彼女がどう思っているのか、それすらもわからないままだ。けれど現状、少なくとも表面上、彼女は僕の斜め横、指先だけ伸ばして触れられるくらいの距離にまで近づいて、僕にスマホの画面を見せてくるから、その画面を覗き込む。
最低限の役割として。
最大限に寄り添いたいとして。
「新彗星発見、って」
「……ほんとだ。名前出てるじゃん、嬉しいな」
「うん。雨のおかげ」
先日、彩理の日課である天体観測に、付き添いとして参加していた時のことだ。基本的に、僕は星を見るより星を見ている彩理を見ていたいタイプの煩悩性高校生なので、その日もベランダで天体望遠鏡を覗き込む彩理を眺めながら夕食の後片付けをしていた。
ただどうやら彩理は、自分が感じて良いと思うものを他者とも共有して共感したいと願えるタイプの協調性女子高生だったらしく(まあこのやりとりは何度も経験済みなんだけど)、僕にも星を見て欲しいと、据え置かれた望遠鏡の前にある特等席たる折りたたみ椅子を明け渡してきたのだ。
当然拒む理由はない。僕はスポンジで擦って泡がついたままの皿をシンクに放り出して、彩理の元へと駆け寄った。で、天体観測敢行。
その中で何気なく僕が望遠鏡を向けた方向に、未発見の彗星があったらしい。もっとも僕には言われなければ違いがわからず、それを新しいと気づいたのは、僕がその直後、気になった星の名前を聞こうと思って望遠鏡の視界を返還したときに、それに応えて覗き込んだ彩理なのだが。つまりおかげもなにもない。
「ほとんど彩理が見つけたようなもんだろ……僕はなにもしてないよ」
なのでそう言うと、彩理はふるふると横に首を振る。まるで小動物のような愛らしさだな。
「まるで小動物のような愛らしさだな」
おっとうっかり声に出てしまった。怪訝そうに小首を傾げる彩理の仕草を見るためだ。いやうっかりなんだけど。
「? えっと。……そうじゃなくて、えっと、偶然、運、とか勘は、大切だから。だから雨のおかげ」
うっすら何かをスルーして話を進めているような雰囲気で、彩理はそう言う。なにかあったのだろうか? 僕の顔に何かついているのだろうか。あちこち触ってみる。目尻の位置が普段より低く、頬肉の位置が普段より高くにある感じがした。
それはともかく、どうやら彼女は、今回の偉業に関して、僕の成果が多分に含まれていると、その理屈を翻す気はなさそうだった。であれば、僕にもこれ以上こだわる理由はなかった。素直に彼女の賞賛を受けて、喜ぶことで喜ばせよう。
大抵、褒めたのならその相手には照れて喜んでもらいたいものだろう。てれてれしてもらいたいものだろう。と思う。
ありがとう、と端的に言えばそう言う意味の言葉を二、三言発する。そうすると素直な彩理は、うん、と一言だけ呟いた後、小さく目線を俯かせながら、喜んだことで喜んでいることが非常にわかりやすい、てれてれしたみたいな微笑みを浮かべた。
ディアマイエンジェル、世界の全てがあなたに微笑みますように。両手を広げて、そろそろ紫比率が高まってきた空を仰いだ。
会話が止まったのを見計らって、横並びに歩き出す。川と夕陽を眺めながら歩く彩理を僕が眺めながら歩く構図だ。緩やかな斜面を登って橋の中腹。先ほどまで彩理が立っていた辺りまで来た時、唐突に彩理は立ち止まる。「彩理?」
三歩ほど、反応できず行き過ぎたところで、視覚情報が脳で分析されて、肉体に反映された。つまり立ち止まる。振り向くと、地面と垂直になるくらいの、伸び縮みしている筋肉への負荷が心配になるような角度で、首を反らせて頭部を上に向けている彩理がいた。
「見て」
そのまま、今度は首の角度と平行になる程度にぴんと、腕を突き上げて、空を指さす。
そのジェスチャーが意味するところに気づいた僕は、見上げる。
「一番星だ」
「……星は、救いになるから。方舟が、宇宙の向こうから、流れて、降って、着陸して、私たちを、乗せて連れて行ってくれる」
彩理は呟くように、事実、僕や他の誰かに聞かせようというわけではないのだろう。
内に籠っているから。
心を閉じ切っているから。
誰にも聞かせようとしないこと。
それを言った。
僕は口角を釣り上げる。
痙攣。
その言葉は、客観的に聞いて意味不明な言葉。流れ星をノアの方舟に見立てて、宇宙に救いを求める現実逃避。僕にとって、主観的に──解決するべき、約束、謎の、一部分で、ともすれば大部分だった。
星を見ることを止めた彩理が、こちらに表情を向ける。慈しみと悲しみの中間のような、そんな様相を、彼女は時折浮かべる。
「私たちが見つけた、あの星も、誰かの救いになってくれるかな」
今度は明確に、僕に聞かせようと、そんな言葉を彼女は言った。
「……あ、あ。きっと」
数拍の間が開いて、僕は一言を絞りだす。ふと右手が左の胸に添えられていることに気づいて、意識すると、数段早くなった鼓動がどくどくと感じられた。
……なぜ、急に、彼女はそんなことを言ったのだろう。最近は巻き込まれる頻度が少なく、脈絡なく祈りを捧げ交信を始める彼女の異常も、控えめになっていたと思っていた。思考を巡らせる──一つの可能性にたどり着く。
「──っ。なあ彩理っ、もしかして、待たせてる間に何か」
もしそうであれば、僕は自分の愚かさを呪って鈍まさを恨んでさらに嫌ってそれでも足りない。自己嫌悪の
思わず頭を抱えそうになって、後悔と反省の反復横跳びに陥る。ずぶずぶと、踏み込んだ足は少しづつ沈んでいく。ただ、彩理は至って平常通り、というふうな調子で──なんなら、言われてはじめて気がついた、みたいな雰囲気で。
「? ……あっ。えっと、そういうことは無かったよ。それは、大丈夫。……えっと、ただ……」
なかった。そういうことは無かった、と彩理は言った。ほとんど反射的に、胸を撫で下ろす。泥沼から足が引き抜かれる。しかし、ただ、という接続詞が残っていることに気づいて、再度はっと顔を上げた。「ただって」
言葉に詰まっている様子が見て取れた。んんん、と小さく唸りながら、眉間に皺を寄せたり返したりしている。
「……んん、なんでもない」
やがて、まるで宇宙人と地球人の交流にいずれ訪れるであろう断絶をシミュレートするかのように、彩理は言葉での感情表現、思考表出を諦めた。「それよりも」代わりに、話題の転換を選ぶ。
「いこ。図書館、閉まるから」
そう、本来の──お嬢様からの依頼とか、今のとか、そういう突発的なものを除いた、元々今日の予定として予定していた、それを言ったのだ。
橋を渡り切った先の十字路を右へ、横断歩道を渡って数分。公的機関が立ち並び、それに伴って広めの駐車場が敷き詰められた、この街の中では珍しい、空間の広がりを感じられる区域がある。(他には高校のグラウンドとか、市民公園あたりが該当する)
その一角にある、若干景観に浮いた建造物が、目的の図書館だ。営業時間PM7:00までのそこで、彩理は二週間に一度二〜三時間ほど滞在することが定番となっていた。もっとも今日は一時間強が限度となりそうだが。(原因について脳裏にですわますわ調がもぐらたたきワニワニパニック黒ひげ危機一髪)
黒、ってより多分焦茶色ぐらいの色味なのだろう、建築に馴染むよう工夫されたスモークガラスの自動ドアをくぐる。
入ってすぐ、開放的な空間に出迎えられた。ドーム状に切り開かれた特徴的なデザインが、温かみのある電球色の光に照らされている。
新進気鋭の若手デザイナーに依頼したというこの新築の図書館は当初、僕のような人間には見た目重視で機能性を無視していて、公共の施設として不適切なんじゃないかと、そういう邪推のもと歓迎よりも晒しあげの空気感で迎えられそうな類の公共事業としてスタートした。ただ、実際に完成して、実用してみると、これがことのほか快適で、現在では街の憩いの場兼観光名所として、様々な人に愛されるランドマークとなっていた。
もっとも今日はほとんど利用者の姿も見えない。平日だし、こういうこともあるだろう。据え付けられた返却ボックスに貸出上限マックスの十冊を投入する彩理を横目にそんなことを思った。
それにしても、ああ分厚くて、難解で雑多な本を週に十冊、それをこの街に越してきて以降ほぼ毎回読破しているのは一体どういう読み方をしているのだろうか。僕も本を読まないわけではない、というか、読書家と言えるほどでは無いにしても、それでもまあ同年代の平均値からすればある程度読んでいる方だとは思うのだが、彼女の読書量、読書質はその比では無かった。
元々、中学の頃まででも相当の本の虫だったはずなのだが、高校入学以降の彼女は、もはや──
「……異常」
「雨?」
「……ぁ、いやっなんでもない。それより今日借りる本決まってるのか? ほらその、今日は時間があまりないからな」
「うん……えっと、借りるって決めてたのが五冊あって……」
指折り考え始める彩理。僕の時間遅れを責めることもなく時間の足りなさを厭う素振りも見せないのは、きっと僕を気遣ってのことだろう。
「本当にごめん……」
「……? どうしたの?」
普段は半目がちに緩んだ、けれど何かに集中しているときには猫のように満月のように丸く輝く黄色の瞳を、さもなんのことか分からないというふうに!。こちらに向けてきた。
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