遺影_4

八月三十日。朝からのサッカー部の練習を終えて帰宅したのは三時頃だった。ウォーミングアップから最後の紅白戦まで、ずっと遺影のことが頭から離れなかった。遺影も用意できないのかよ、貧乏人。頭の中でリュウの低く熱のない声が何度もループした。団地の入り口から中央の広場を突っ切ると、今朝部活に向かう途中に見た、花壇に植わった小さな花がなくなっていた。薄い半紙でできた花びらに朱墨をじんわりにじませたような花だった。花壇には二十株ほどの花が咲いていたけれど、その内の四株程度の範囲は湿った土がれいに整地された空白になっていた。タヌキやハクビシンが荒らしたのかと考えたが、害獣の仕業にしてはちょうめんだ。

 五号棟の前に着くと、二階の部屋のベランダのプランターに朱色の花が移動していた。窓を開けてベランダに出てきたお婆さんが大きなペットボトルからプランターに水をやった。花壇にあったはずの朱色の花が団地の高いところで風で横に揺られ、水で縦に揺られる。僕はほうけて動けなかった。日差しのせいなのか、身体が無重力の中で揺られているようだった。視野がすーっと先細って行き、ひらひら揺れる花だけが目に映った。花の横には『ペチュニア』と黒マジックで書かれた板が刺さっていた。

 どれくらい見ていたのか分からない。ポロシャツの中を汗のひとしずくがつたって右脇腹をくすぐるように落ちていくのを感じて、僕はやっと眼球を動かすことができた。外階段を上る。金属で出来た踏み板をいつもより強く、踏み抜くような勢いで一歩一歩進む。部屋の前に着き、僕は鍵を開け中に入った。人の気配のない薄暗い部屋の奥、夏休みで給食の仕事が空きがちになった母はソファーで寝ていた。他の家族は皆出ているようだ。クーラーをけずに寝ている母は、汗ばんだ肌が熱で溶けているみたいだった。サエコが捨てようとしていたキャラクターのプリントが薄くなったTシャツを着ている。母の肩は等間隔に上下に揺れている。僕はしばらく眠る母を見下ろしていた。まだリュックを片方の肩に掛けたまま。一度だけ母の鼻か、もしくはのどなのか分からないけれど、ずずっと茶をすするような音を立てた。

 ソファーから離れた僕は、部屋の隅のポールハンガーに掛かっていた母の手提げバッグの紐をポールから慎重にずらし、空間を作り手を突っ込んだ。音を立てぬように母の財布をバッグの口から抜き取った。薄いピンク色をした傷んだ革の長財布、小銭を入れるところのチャックには鈴と小さな絵馬のついたキーホルダーが三つ付けてあった。鈴同士がぶつかり合ってしゃりんと高い音が鳴る。心臓が跳ね、その勢いで背筋が真っ直ぐに伸びた。鈴も一緒に握り込むようにして、財布を開くと千円札が三枚入っていた。小銭入れのチャックをちりちりと開けると五百円玉が一枚、百円玉が数枚、五円玉や一円玉の端数の硬貨が沢山あった。物色し終わって僕は素早く千円札を一枚と五百円玉を一枚手に取り、穿いていたジャージのポケットに荒々しく突っ込んだ。そして長財布を手提げバッグの口に滑り込ませ、紐を記憶を頼りに最初と同じ位置に戻した。古い財布だったから何か染み出したのか、それとも僕の汗のせいか、右手には脂っぽいぬめりが残った。

 足音を立てぬようにゆっくりと玄関に向かう。ポケットの中の千円札と裏地が擦れて鳴る音が異常に大きく聞こえた。

 ゆっくりとドアを自分の身体の幅だけ開ける。ドアを開ける金属音は最小限で済ませた。ドアを静かに静かに閉める。錠の内部の構造が手に伝わる振動で分かってしまうのではと思うほどに鍵をゆっくり差し込み回した。そして部屋のドアがこちらから見えない場所まで駆けていった。後ろめたさはなかった。胸で暴れる拍動を落ち着かせようと手すりに体重をあずけながら階段を下りる。中央広場に着いて、口で荒く息を吸う。海風のせいで口が乾き、舌がひび割れるような塩辛さを感じた。花壇の前で立ち止まり団地を振り返ると花が再び目に入った。遠く離れたところから見る朱色の点は近くで見るより美しく揺れていた。

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