遺影_4
八月三十日。朝からのサッカー部の練習を終えて帰宅したのは三時頃だった。ウォーミングアップから最後の紅白戦まで、ずっと遺影のことが頭から離れなかった。遺影も用意できないのかよ、貧乏人。頭の中でリュウの低く熱のない声が何度もループした。団地の入り口から中央の広場を突っ切ると、今朝部活に向かう途中に見た、花壇に植わった小さな花がなくなっていた。薄い半紙でできた花びらに朱墨をじんわり
五号棟の前に着くと、二階の部屋のベランダのプランターに朱色の花が移動していた。窓を開けてベランダに出てきたお婆さんが大きなペットボトルからプランターに水をやった。花壇にあったはずの朱色の花が団地の高いところで風で横に揺られ、水で縦に揺られる。僕は
どれくらい見ていたのか分からない。ポロシャツの中を汗のひとしずくがつたって右脇腹をくすぐるように落ちていくのを感じて、僕はやっと眼球を動かすことができた。外階段を上る。金属で出来た踏み板をいつもより強く、踏み抜くような勢いで一歩一歩進む。部屋の前に着き、僕は鍵を開け中に入った。人の気配のない薄暗い部屋の奥、夏休みで給食の仕事が空きがちになった母はソファーで寝ていた。他の家族は皆出ているようだ。クーラーを
ソファーから離れた僕は、部屋の隅のポールハンガーに掛かっていた母の手提げバッグの紐をポールから慎重にずらし、空間を作り手を突っ込んだ。音を立てぬように母の財布をバッグの口から抜き取った。薄いピンク色をした傷んだ革の長財布、小銭を入れるところのチャックには鈴と小さな絵馬のついたキーホルダーが三つ付けてあった。鈴同士がぶつかり合ってしゃりんと高い音が鳴る。心臓が跳ね、その勢いで背筋が真っ直ぐに伸びた。鈴も一緒に握り込むようにして、財布を開くと千円札が三枚入っていた。小銭入れのチャックをちりちりと開けると五百円玉が一枚、百円玉が数枚、五円玉や一円玉の端数の硬貨が沢山あった。物色し終わって僕は素早く千円札を一枚と五百円玉を一枚手に取り、
足音を立てぬようにゆっくりと玄関に向かう。ポケットの中の千円札と裏地が擦れて鳴る音が異常に大きく聞こえた。
ゆっくりとドアを自分の身体の幅だけ開ける。ドアを開ける金属音は最小限で済ませた。ドアを静かに静かに閉める。錠の内部の構造が手に伝わる振動で分かってしまうのではと思うほどに鍵をゆっくり差し込み回した。そして部屋のドアがこちらから見えない場所まで駆けていった。後ろめたさはなかった。胸で暴れる拍動を落ち着かせようと手すりに体重をあずけながら階段を下りる。中央広場に着いて、口で荒く息を吸う。海風のせいで口が乾き、舌がひび割れるような塩辛さを感じた。花壇の前で立ち止まり団地を振り返ると花が再び目に入った。遠く離れたところから見る朱色の点は近くで見るより美しく揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます