遺影_5

 ポケットを上から押さえつけるように手を置きながら歩いた。駅に向かう。三十分ほど歩くと大きな駅がある。駅前の商業ビルには画材や文具を扱う店や大きなチェーンの雑貨屋が入っている。そこに行けば遺影用の額縁が売られているはずだ。国道の青い看板の案内だけを頼りに向かう。家で何か飲んでくればよかった。朝家を出る時に持たされた水筒は空っぽだった。国道沿いには一定の間隔で自販機がある。今の僕は普段買うことを躊躇ためらうコーラだって買うお金の余裕がある。万能感があった。

 渇きに耐えて歩くにつれて海沿いの広い国道が少しずつ狭くなり、道沿いにビルが増えてゆき、海の匂いは少しずつ薄れて行った。駅に行くのはサッカー部の試合で他校に行って以来だ。駅と商業ビルは大きな歩道橋で直結しているはずだった。歩道橋に上がる階段を探す。歩道橋は見えているのにどこから上って良いのか分からずがゆかった。地上からでも目的地に着けるはずだと思い歩いたが歩道橋の下からでは方向感覚を失って自分がどこに居るのか分からない。何度も同じ道を行ったり来たりを繰り返して、やっと目的の商業ビルに到着した。ガラス張りの壁面には店のロゴマークがいくつも張り出されていた。エスカレーターを上がっていくと女性の洋服のフロアと男性の洋服のフロアを抜けて画材や文具、雑貨を扱う七階に行き着いた。一度財布をリュックから取り出し、いくらあるのか確認する。ベリベリとマジックテープをがしてあけるタイプの財布だ。カード入れはあるけれど、ここにカードが入ったことはない。あらかじめ入っていた現金は八百四十二円、さらに盗んだ千五百円を財布に移した。あわせて二千三百四十二円。当然フロアマップを見ても遺影というエリアはない。画材と書いてある付近に当たりをつけて回ると額縁が置いてあるのを見つけた。棚に並ぶ見本の額縁を手に取り小さな数字の書いてあるシールを確認すると、僕に買うことのできる値段のものはなかった。何より全てに絵や写真を飾るための優美な装飾が施されていて、遺影の重苦しさがなかった。あての外れた僕は、悩み考え、結局材料を買い、遺影を手作りすることに決めた。フロアを暇そうに歩く若い男の店員に声をかけ「遺影を作りたいんですけど」と伝えた。

「遺影ですか? 亡くなった時の?」そう聞き返され、

「そうです。作れますか?」と答えた。考え込んだ店員は僕の母と同じくらいの年齢の女性の店員を連れてきてくれた。事情を説明する若い店員が僕の身代わりとして質問責めにされている。僕は近くの陳列棚に置いてあったガラスペンを興味も買う気もないのに吟味するように見ていた。意味を良く理解できていないであろう女性店員の責めるような尋問は数分間続いた。ガラスペンの試し書きは店員にお声がけくださいと書いてある紙が挟まったプラスチックの立て札を意味もなくもてあそんでいた。しばらくすると女性の店員がこちらにやって来て、

「こんにちは。遺影を作りたいって聞いたんだけど」母が電話に出るときと同じ、他所よそ行きにチューニングされた声だ。

「そうなんです、美術部で。夏休みの課題なんです。それで作りたいんです」

 その場で思い付いたにしてはよく出来た噓を笑顔で言い切った。喋りすぎたかもしれない。

「そうなのぉ。夏休みもう終わっちゃうけど間に合うの?」

 大仰に笑う女性店員のじりは、和紙をくしゃくしゃに丸めて広げたみたいに大小のしわが集まっていた。

 女性店員の後についていくと工作用の木材のコーナーに案内された。

「額を作りたいそうなので」そう言って女性店員が次の店員に引きついでくれた。額と言えば良かったのかとその時初めて気が付いた。

 男性の店員にサイズの想定や図面の有無に関して幾つか質問されたけれど、何ひとつ上手くは答えられなかった。遺影がありさえすれば良かった。その過程は何一つ重要でない。貧乏を理由に虐げられるアミの遺影を作るために、僕は母の財布から金を抜いた。金のない母の財布からまた金が失くなる。

 男性の店員は胸ポケットから出した小さなメモ用紙に、必要な木材の数と長さや、そのほかの部品のリスト、そして簡単な図面を書いてくれた。木材の値段を用心深く聞き、カットしてもらう。他の部品は自分で探しますと伝えて、僕は店内を回り部品を買い揃えた。安く済んだ。裏板や自立させるためのスタンド用の板、写真を固定しておくアクリル板は値段との兼ね合いでプラスチック板に変えた。頭の中で何度も暗算を繰り返した。僕の財布には百三十六円残る。電光表示を睨み付けるようにレジを通すと計算した値段より少し高くついた。違う数字が表示された焦りで財布をぎゅっと強く握り込んだがギリギリ払える額だった。先程までは母の財布にあった千円札をトレイに置く。何かに取りかれたように盗んだ金。トレイに置いて初めて、それが母の金だという当たり前の罪の意識が芽生えた。やっぱりいいです。そう言おうかと、思考が声になろうとするその瞬間に「ポイントカードを作りますか」と聞かれたので、大丈夫、あ、いや、作ります、とどもるように答えた。レジに並ぶ人の流れをき止め必要事項を書いた。アプリでも可能だと言われたけれど、あたかもアプリではいけない理由があるように断った。置いた千円は亀の重石おもしを載せられ、すでに店のものになっていた。残りの小銭もトレイに載せる。商品の入った大きな手提げのビニール袋を手渡された。レシートと一緒に受け取ったプラスチック製のカードは店員の着けているエプロンと同じ濃いグリーンで光沢があった。

 しばらくは前も見ずにカードを眺めて歩いた。レシートの白とのコントラストが目にまばゆく、蛍光灯を反射し大きな水滴のような光の塊がのっかり滑るように動いた。財布のカード入れにゆっくりと押し入れると今までふにゃふにゃと頼りなかった財布に一本背骨が通ったような気がした。後ろめたさは消え失せていた。残ったレシートはビルの入り口のゴミ箱に丸めて捨てた。幼い子供と手をつなぐように袋を強く握って僕はビルを出た。

 僕は学校に行こうと決めた。この手提げに詰まった材料を持って学校に行き、隠さなければいけなかった。僕の家は五人それぞれの生活が競い合うように主張しあっていて、他人の目線をさえぎり隠し事をできるような隙間がない。そういった意味では僕は家よりも学校が好きだった。一人一人に与えられたロッカーの中に僕のスペースが守られている。帰り道を足早に歩いた。幾つもの初めてを一度に経験したから、昂揚こうようしていたのかもしれない。金をるのも、大きな買い物をするのも、一人で街に出るのも初めてだった。財布にカードが入るのだって初めてだ。リュウの財布にはバッティングセンターの回数券や接骨院のカードが入っていた。スポーツ用品店のポイントカードには判子が半分くらい押してあった。犠牲を払って、僕は普通を取り戻している。

 防砂林沿いの国道を歩いて、団地を横切る。団地に意識を向けることなく通り過ぎた。学校に着く頃には六時を過ぎていた。校門の重そうな門扉は人が一人通れるスペースを残して閉まりかけていた。校門を抜け、校舎に入る。誰もいない校舎には吹奏楽部の演奏が音というより壁や床の震えになって感じ取れた。校舎の三階に僕の通う一年生の教室がある。学年が上がるたび階段を上がる数は減っていく。職員室から最も離れた一年生の教室は先生の目が届きにくくなっている。校舎の階段を上がるたび、気温は少しずつ高くなり、階段の表面は湿気を帯びているのか、上靴が音を立てた。

 三階に着く。階段の正面には古ぼけた石造りの流し台があり、そこから左に進んですぐが僕の教室だ。廊下の端、教室側の壁にピッタリとくっつくようにロッカーが並んでいる。金属製のロッカーが二段重ねになっていて、天井から突っ張り棒のようなもので押さえつけられている。真ん中あたりの下段にある僕のロッカーを開く。四けたのダイヤルを回してあけるタイプのロッカーだが、初期設定から数字を変えていない。盗られるものなんてないのに鍵を掛ける意味がない。みんな平等に一冊ずつ与えられる教科書くらいしか入っていない。鍵を掛けるのは決まってスマホを隠している生徒だけだった。

 乱暴に引っ張るようにロッカーの扉を開ける。中には夏休みの課題で使わない副教科の教科書が立て掛けて並べてある。その教科書を平積みに配置を変えて、その上に手提げ袋を置いた。明日で夏休みが終わる。明日の部活が終わってからの時間で遺影を作らなければならない。今日の内に作ってしまいたかったけれど、変に遅く帰れば怪しまれる。怪しまれれば母は財布の異変に気がつくかもしれない。友達と遊んで帰ってきた、それくらいの時間に帰る必要があった。

 ロッカーの扉を足で蹴るように閉めて、四桁の数字の並びを親指で擦るように散らした。鍵を掛けたのもこれが初めてのことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る