第70話 最後の時間

 たまたま、そろそろアリウム男爵家のもとから離れないといけない。


 ——そう思って、口から出た言葉をミラに聞かれてしまった。


 扉の前に立っていた彼女は、涙を浮かべながら部屋に入ってくる。


 張り詰める空気。たくさんの言い訳を並べ立てた俺の嘘により、なんとかミラを宥めることには成功した。


 その後、ミラを部屋に返して改めて罪悪感を抱く。


 俺はまもなく、家族を、使用人たちを裏切って消える。


 きっとマリーとミラ、両親は俺を許さないだろう。恨むかもしれない。見捨てられたと泣くかもしれない。


 それでも俺は、安易な幸せに手を伸ばすことができなかった。


 たしかに全てを捨て去ってアリウム男爵領に逃げれば、平穏な幸せを手にすることはできる。


 両親に愛されたまま、妹と仲良く、ミラと楽しく毎日を過ごせるだろう。


 両親の仕事を手伝い、可愛らしい婚約者ができて、いずれ領地を継ぎ、妹の婚約やら結婚に涙を流す。


 領地を繁栄させながら子供を作り、楽しくても辛い、そんな当たり前の日々を過ごすこともできる。


 俺が選びさえすれば、そんな未来を実現するのも難しくはない。




 ただ平和に生きるだけなら、どうせ魔王は勇者が倒す。


 俺が無理をする意味はないのだ。


 ないけれど……。


 やっぱり、俺は見て見ぬふりはできない。伸ばせる手を引っ込めようとは思わなかった。


 辛く、苦しい未来を想像して吐きそうになったが、震える手を必死に握り締めて我慢する。


 ——迷うな。決して、迷うな。


 後ろを振り向けば呑まれる。恐怖と安易な幸せに呑まれ、ゆるやかに衰弱する道を選んでしまう。


 ——前を見ろ。目を離すな。


 俺が頑張りさえすれば、かつて救えなかった彼女たちが救えるのだ。


 大丈夫。やれる。俺の味方は多い。その上、俺には前世の知識もある。


 すでにシナリオは大きく外れた上で進んでいるが、それでも俺の記憶は必ず役に立つ。


 だから、やっぱり俺は前を見ることにした。


 両親や妹との関係を捨て去ってでも、俺は必ずすべてを救ってみせると誓ったのだから。




 果てに、絶望しかないのだとしても。




 ▼




 嵐は過ぎ去り、それからは平穏な日常を過ごした。


 と言っても、すぐにアリウム男爵領に帰ることになり、俺もマリーも両親に、「ぶーぶー」と文句を垂れながら荷物をまとめていた。


 宿の前に停まった馬車に自分たちの荷物を詰め込む。


 もともと勇者誕生のパーティーに参加するためにやってきた。


 家から持ち出した荷物などほんの一部でしかない。


 母や妹のマリーのように、女性はなにかと入用だが、男の場合はほとんど荷物がいらなかった。


 ゆえに、最後に母とマリーの分の荷物を回収し、馬車へ突っ込むと……問題なく、帰りの支度は終わった。


「ふう……これでマリーたちの荷物も全部終わりかな?」


 額に付いた汗を拭いながら訊ねる。


「はい。マリーの荷物は綺麗に片付きました! お手伝いありがとうございます、お兄様。お母様のほうはどうですか?」


「私もあとは服の入った鞄を運べば終わりよ。ごめんなさいね、あなたたちにも手伝ってもらって」


「力仕事には自信があるんだ。遠慮しないで、お母様」


 これでもステータスの表記上はSTRが100以上ある。


 装備の分を含めるとかなりの数値だ。たかだか少量の荷物を運ぶのに苦労なんてしない。


「だからって、貴族が荷物運びなんてしなくてもいいのに……まったく、優しい子なんだから」


「それほどでもあります」


 いやだって、護衛の騎士たちに任せていたら時間がかかるだろう?


 それなら力持ちの俺も参加したほうがより早く終わるってなものだ。


 それに、母親はともかく、妹のマリーの荷物を護衛の騎士たちに触らせるはずがない。


 妹の荷物に触っていいのは家族だけだと相場が決まっている。




「お兄様? 早く馬車に乗りましょう。すぐに出発するそうですよ」


「あ、うん。隣、失礼するね」


 マリーにそう言われて、慌てて彼女の隣に腰を下ろす。


 メイドのミラは馬車の外側に乗っている。使用人は少ないのでそっちで運ぶのが常識だ。


 馬車の中には、家族四人でも十分なスペースがある。


 あるというのに、妹のマリーは真っ先に俺の腕を抱きしめた。


「ふふ。帰るまではずっとずっとお兄様にくっ付いています!」


「あはは。これはまた幸せな帰路になりそうだね」


 両親が苦々しい表情を浮かべる。


 無理もない。この様子を見るかぎり、マリーも俺もまともに婚約者候補の相手を見つけることができなかったのだから。


 ごめんね、親不孝もので。


 内心でくすりと笑うと、そのタイミングで馬車が動き出した。


 たくさんの荷物と人を乗せて、ゆっくりと正門のほうへ馬が歩く。


 ちらりと窓の外から街並みを眺めると、視界の端に、勇者イルゼと団長エリカがちらついたように見えた。


 思わず、ごくりと生唾を呑んだ。改めて覚悟を決める。




 これが、最後の家族団欒なのだから。

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