「理解」と「使える」には大きな高い壁がある③

 フィリピンの英語教育はとても素晴らしい。

 この教育方針(英語のみで授業をする)をとる国はフィリピンだけではないが、ここまで結果を出している国は珍しいものだ。

 結果として英語をペラペラに話す能力があり、日本など海外で英語教員として働いたり、コールセンター業務を請け負ったりして世界に貢献することのできるスキルを身に着けられるのだ。


 短絡的に考えれば、日本もこれをすればいい。

 だが、私はあることを危惧している。

 それは、「日本人の日本語離れ」である。


 どういうことかというと、世界でも類を見ないほど珍しい言語体系であり、とても美しく、表現が豊かな日本語。その言語感覚、延いては日本の文化が失われてしまう危険性があるのではと考えている。

 漫画や小説、日本ではそういったカルチャーがあり、その特徴として「擬音語」を多く用いることや、細かなニュアンスの違いのある単語を使い分け、色彩豊かな文章表現がされることにある。

 そういった言語的に価値のある日本語を蔑ろにし、英語教育を優先することは日本人として、容認できない。


 確かに、英語は世界の言語であるから、とても重要なのは間違いない。

 だが、忘れてはならないのは日本語と英語というのはあまりにもかけ離れすぎていて、お互いに、お互いの言語をマスターすることがとても難しいのだ。


 スペイン人がポルトガル語を習得するのが簡単なように、ドイツ人が英語を習得するのは簡単だ。

 だが、日本人が英語を学び、習得するのは彼らの倍、いや、その倍、そのさらに倍、それでも収まらないくらいの時間を要するかもしれない。


 それほどまでに、日本人が英語を学ぶことの難易度は高いのだ。

 英語の感覚と日本語の感覚、それらには大きな隔たりがあり、そう簡単に理解できるものではない。

 私はこう言っても何なのだが、言語に対するセンスがあった。

 なので、少しやる気になって英語を勉強したり、いろいろやっただけで今ではある程度の日常会話であれば不自由なく話せるほどとなった。


 だが、なぜ俺はできて周りができないのかの論理的な説明ができない。

 強いて言うとすれば、英語は英語で、日本語とは別物として考えるべきだ。という自論があるが、厳密に考証したわけでもなければ、その考えのお陰で出来るようになったという確証すらない。


 結局、何が言いたいのかというと、「日本語は大事にするべきだ」ということを前提としたうえで、「英語を学校の授業だけで喋れるようにする」というのを可能にするのは極めて難しいということだ。

 どちらかを捨て、片方に特化する。

 この場合であれば日本語を捨てるというのは、日本人としては考えられない。


 であれば、英語を捨てるという選択肢しか残らないが、英語を捨てるのであればそもそもこの議論は必要ない。


 結局、日本語と英語を両立するのであれば、今の形がベストなのだ。

 ただ、もっと改善できることとすれば、「英会話」という要素を強くし、英語の授業中は英語縛りにすることや、もっと外国人と英語での触れ合いを増やし、英語を喋ることへの羞恥心を弱くしていくような改善が必要だろう。


 では、日本人が英語を喋れるようになれないのは、日本の英語教育が原因なのだろうか。


 次回はその話を深掘りしていこうと思う。

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