屋根の上を廻るカラス 【一話完結】

大枝 岳志

屋根の上を廻るカラス

 私が暮らす地域は山地と平野のちょうど境目で、辺り一帯が山の陰になっている為、物心がついた時からは夕方になるのがやたら早い地域だと感じていた。

 特に秋が深まる季節になると橙と紫を混ぜたような鬱蒼とした色合いの空が眼前に広がり、まだ幼い頃の私は家の縁側からその風景を見ながら甚だ不気味で寂しい色だと感じていたのを覚えている。

 ある秋の夕暮れであった。その日は風が強く吹き、暗がりになった廊下の窓をガタガタと揺らし続けていた。夕方五時を告げるチャイムの音が風に流され、不穏なメロディとなって耳へ流れ込んで来る。余りの風の勢いに窓が取れてしまうのではないかと不安になり、顔を窓へ向けて見ると、隣家の屋根の上では夜が近付いているのにも関わらず、無数のカラスがカァカァと鳴きながら飛び回っていた。その光景から目が離せずにいると、勝手仕事をしていたはずの母が廊下の端でやはり私と同じように窓の外に目を向けながら、こんなことを言った。


「あー、カラスが廻ってる。亀永さんのおじいちゃんだね」


 私にはその言葉の意味が分からず、何も応えないでいると私の様子を母は察したようであった。


「晋也。屋根の上でカラスが廻ると、その家の人が死ぬんだよ」


 それは迷信のようなものだったのだろうが、母の口調がまるで知っていて当たり前の出来事を語るような口調だったので、私は母の言葉をすんなり信じ込んでしまった。

 人は高層ビルの上から飛び降りたら死ぬ。そんな当たり前のことを話すような口調だったので、何かを疑問に思って聞き返す言葉も思い浮かばず、その日の夕方から、隣家に住む人の良いあのおじいさんがもうすぐ死ぬのだと意識し始めた。

 亀永のおじいさんは年齢こそ八十を越えていたが、足腰はまだ丈夫な方であったし、近所でも祭りごとなどがあると大人達から頼りにされていた。私の住む地域には私を含めて十人ほどの年齢の近い子供が暮らしていて、子供達は皆亀永のおじいさんを慕っていた。

 私の家の前には小さな坂道があり、そこを下った先が隣家の亀永家だったのだが、家の前には通年花を咲かせた花壇が置かれていて、そこに咲く花々を育てるが亀永のおじいさんの日頃の愉しみでもあったのだ。私も友人達も花になど微塵も興味は湧かなかったが、このチューリップがどうだの、ヒヤシンスがどうだのと言った話を聞くだけでお菓子をもらえたり、時には家の中に招き入れてケーキを食わせてもらったりしていたので亀永のおじいさんの長話に付き合う機会は多くあった。

 夕暮れのカラスを見た翌日、私は早速友人のMとKに昨日のことを真剣に話して聞かせてみた。


「亀永さん家の屋根の上にぐるぐるカラスが廻っててさ、母ちゃんが言ってたんだけど、それってその家の人が死ぬサインなんだって」


 意気揚々と話を聞かせてみると、私の家の左隣に住むMが目を丸くして興奮気味にはしゃいだ声を出した。


「知ってる! 前にうちの母ちゃんも同じこと言ってた!」

「晋也もMも母ちゃんから聞いたんなら、間違いないな。だって、大人が言ってたんだもんな……亀永のじいさん、死ぬんかな」 

「カラスが廻ってたから、死ぬんだろうな。もうお菓子もらえなくなるな」

「お菓子、もらえなくなるのか……そっか……」


 この頃はまだ私達は幼かったから、悲しむということを余り理解出来ていなかった。当然、死ぬことが何であるかなんて実感として持ったこともなければ、「これは悲しむべきことだ」という無意識に誘導されて悲しみを発現させる大人のようなスイッチも持っていない。すると、かえって現実のことしか目には映らないもので、私達にとって亀永のおじいさんの喪失というのはお菓子がもらえなくなる、という一点に尽きた。KもMも自宅へ帰ってから家族に亀永のおじいさんの話を聞かせたようで、私が母から聞かされた迷信の類の小さな話は大人達によって次第に大きな真実へと上書きされるのであった。

 亀永のおじいさんが入院したのはそれから僅か一週間後のことであった。噂話を聞きつけたのか、おじいさんの身を心配した家族が検診を勧めた所、胃に異常が見られたのだという。幸い今すぐ命に関わるようなものではなかったらしいのだが、退院後の生活には食事制限が強いられるようになると母と父が食事の時に話していたのを、私はバラエティ番組のUFO特集を観ながら聞き耳を立てていた。入院、という言葉を聞いてからやはり亀永のおじいさんは死ぬのだと決めつけ、KとMと共に亀永のおじいさんが外に出るのを待り、外へ出て来ると声を掛けることなく遠くから眺めたり、よろめいた瞬間にひそひそと声を立てて「やはり死ぬんだ」などと盛り上がっていたりした。

 亀永のおじいさんの所には今生の別れを告げに来るように次から次へと客がやって来るようになった。元の仕事関係の人間であったり、隣の区の長であったり、町議会の人間であったりと、様々だった。それなのに、入院後の食事制限のせいでストレスが溜っているのか、亀永のおじいさんは誰に対してもつれない態度で接していたのだという。そして、自分が死ぬなどという噂を聞いたという来客があったおかげで、そんな噂話が流れているのも亀永のおじいさん自身が知ることとなったのである。

 それから以後は亀永のおじいさんを見掛けても、以前のように花壇の前で話し掛けられることはなくなった。亀永のおじいさんは誰かと話す機会もめっきり減ったようで、草だらけになった花壇を見下ろしながら、鎌を片手にぶつぶつ何やら呟きながら突っ立っている姿を多く目にするようになった。その姿に私達が「こんにちは」と声を掛けてみても、亀永のおじいさんはただの一度も反応を見せることは無かった。

 その年の冬の学校帰りであった。私が一人で帰っていると、花壇の前に立つ亀永のおじいさんが目に飛び込んで来た。どうせ話し掛けてもいつものように無視をされるのだろうと思い、そのまま黙って横を通り過ぎようとすると、久しぶりに声を掛けられた。ついつい驚いてしまい、無意識に肩をビクッとさせるのが自分でも分かった。振り返ってみると、冬にも関わらず上下肌着姿の亀永のおじいさんはだらりと下げた右腕の先にやはり鎌を握り締めたまま、私を睨みつけて来た。言葉で理解する前に、はっきりとした憎悪と念を、幼かった私はその目に感じ取った。


「こんクソガキが。おい、おまえか」

「……何が、ですか?」

「しらばっくれるんだけはいっちょ前か、おお? おまえの家は、どうせロクなモンじゃないでな。ガキまで下らなく出来上がるから始末が悪いで。おい、俺はな、頭取だったんだぞ」

「とー、どり?」

「おまえの家の人間と俺ではな、訳が違うんだで。俺はな、頭取だったんだ」

「……」

「頭取だ!」

「……は?」

「分からんかこんのクソガキはぁ!」


 突然激高して鎌を振り上げた亀永のおじいさんに私は恐怖し、家へ向かって一目散に逃げ出した。その途端、鼻腔を微かに刺激するものがあり、これは一体何の匂いだろうかと思案したものの、振り返ってみると鎌を片手によろめきながら迫る亀永のおじいさんが目に入り、思案することを放棄した。家に帰ってすぐに玄関の鍵を掛け、息を切らしながら先ほどの匂いを思い出してみると、それが人の小便の匂いだと気が付いた。近頃は亀永のおじいさんに声を掛けても反応がなかった為、花壇を通る時は自然と急いていたので気が付かなかったのだが、声を掛けられて立ち止まった為、あの花壇がいつの間にか人の小便に塗れていたことを知ったのであった。小便の主は間違いなく亀永のおじいさんで、だからこそ冬でもあんな肌着姿で外へ出ていたのかと合点がいった。鎌を振り回しながら小便を放つ亀永のおじいさんを想像した私は再び恐怖に戦き、もう二度とお菓子はもらえないだろうと悲しい気分に陥った。

 それからしばらく警戒していたものの、亀永のおじいさんが我が家の窓を割って押し入ったりすることもなかった。冬ではこの辺り一帯に下りる夕方が一層早く、夕方五時を前にした頃には地域全体がすっかり暗い陰に包まれていた。窓の外に見える微かな夕暮は薄めてないアクリル塗料を零したような濃い橙に塗り潰されていて、太陽の外側の空は早くも黒ずんで青は消えていた。その橙を背景に、坂の下の亀永家の屋根が廊下からは見えていて、屋根の上のアンテナが微かに揺れたのが私の幼い目に飛び込んで来た。カラスが飛んだのだ。

 窓の外へ目を遣ると、山へ帰るのを忘れたカラスが無数に亀永家の屋根の上を飛び回っていることに気が付いた。夕暮の狭い橙を背景にして、鳴きもせず、喚きもせず、カラスの群れはただ無言でぐるぐると亀永家の屋根の上を廻り続けていた。


「あー、カラスが廻ってる。亀永さんのおじいちゃんだね」


 母の言葉を思い出した私は、勝手仕事をする母のエプロンの端を掴んで廊下まで無理に引っ張って行き、カラスが舞う空を指さした。


「母ちゃん、カラスがすっごい飛んでる。だけど、全然鳴いてないよ」

「本当だ。鳴いてたカラスが、もう笑ってるんだね」

「えっ、カラスって笑うの?」

「笑うよー、だって生き物だもん」

「へぇ……そうなんだ」

「母ちゃん揚げ物してるから忙しいんだよ。晋也、宿題は?」

「やべー、まだ……」

「早くやんなさいよ」


 母は勝手仕事へと戻り、私は勉強机へ向かう為に廊下の窓から離れた。狭くなっていた橙が次第に小さく萎んで行き、完全な群青として残り香のように空に光の残滓を与えていたものの、その群青を切るのは色のない真っ黒なカラス達だった。

 カラスが屋根の上で廻ると、人が死ぬ。その言葉は現実のものとなり、真夜中の私の目を覚ました。父と母が起き上がり、何やら騒いでいた為に身体を起こした。廊下へ出てみると、真っ暗なはずの廊下は赤いランプが廻り続ける光が外から入り込み、その眩しさに目をしかめた。その晩死んだのは亀永のおじいさんの、同居家族の長男の嫁さんだった。亀永のおじいさんに検診を勧めたのは、彼女だった。その晩迷信だった言葉は現実となり、私には瞬間的に底知れない罪の意識が芽生え、寝室へ戻って身体を震わせながら布団を被ったのを今でも明確に覚えている。そして、明くる朝から全てが嘘だったと思い込むように、事件のことに関しても亀永のおじいさんのその後のことに関しても、一切口にしなくなった。

 今夜はあの秋の日と同じように、風が強く吹いている。両親はとうの昔に亡くなり、売りに出された亀永家はとうとう買い手がつかずに老朽化が進み、二年前に取り壊しとなった。空地は山間の水道局施設の駐車場となっている。がらんどうになった廊下の窓からの景色には、早い夕暮れが今日も変わらず訪れている。遠くの方で、山へ帰るカラスの群れが空を裂くように鳴いている。風が揺れ、空を震わせる。その風の中に、ほんの一瞬だけアンモニアのような匂いが混じったのを感じ取った私は、急いで廊下の窓を閉めた。窓の縁から埃が舞い上がり、家の中には咳き込む私の声だけが、鳴った。

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