第11話 湯けむりエンカウンター

 拝啓、俺の両親殿。

 息子は都会の森の中で元気にやってます。

 ただ一つ誤算があるとしたなら、それは最推しの魂をやってた女の子と同居生活が始まったことでしょうか。なんてな。


「誰が予想できるんだ、こんなの……」


 あのあと、雨宮さんがきちんと着替えを終えて戻ってきたのを確認してから、俺もまた風呂に浸かっていた。


 雨宮さんも一人暮らしだったらしいから、慣れない環境でいつもの癖が出てしまったと考えれば不思議じゃないけど、それにしたって心臓に悪い。

 なんせこの十九年間の人生で、バスタオル姿の女の子を見たのなんて初めてだからな。そりゃ動揺の一つもしない方がおかしい。


 虚しい? 放っておいてくれ。

 そんな戯言はともかくとして、真面目に考えるならこの同居生活でぶち当たって然るべき壁にぶち当たった、というのがさっきの事故に対する結論だろう。


 不動産会社もこの部屋で二人暮らしをすることなんて想定していなかっただろうし、仕方あるまい。


 なんせ六畳一間にワンキッチン、安アパートには違いないけど、それでも東京都内という条件を加味すればそれなり以上であることもまた確かなのだ。東京の家賃高すぎるだろ。


 嘆いたところで世の中がどうにかなるわけでもないからその辺は置いておくとしても、一緒に生活していく上でのアクシデントとかは想定して、事前にチェックリストでも作っておいた方がいいかもしれないな。


 薄らぼんやりと、そんなことを考えながら湯船に浸かっていたそのときだった。


「お、お邪魔します……」


 浴室の扉が控えめに開かれて、その隙間から雨宮さんが顔を出す。

 なぜ、なに、どうして。

 鳩が豆鉄砲どころか機銃掃射を喰らったように、俺は呆然と雨宮さんを見ていることしかできなかった。


「……雨宮さん?」

「……えっと、一宿一飯の、恩義というか、その……恩返し、できないかなって……」


 そう言って浴室に踏み入ってきた雨宮さんは、スクール水着に身を包んでいた。

 ただ、サイズが合ってないのか、明らかにぱつぱつになっているというか、豊かなものが色々くっきり浮かび上がってるというか。


 いや、サイズの問題じゃない。

 なんでそんなものを持ってるんだ。というか、どうしてそんな発想に至ったんだ雨宮さん。


 こめかみを金槌で殴られたような衝撃を喰らったような錯覚を抱き、俺は湯船に深く沈み込む。

 でもこの湯船、雨宮さんが入った残り湯でもあるんだよなとか余計なことが脳内にポップアップしそうになるのを堪えながら、脳内でひたすら般若心経を唱える。空即是色、色即是空。


 じりじりと、恐る恐ると浴室に踏み入ってくる雨宮さんと俺の間で始まった頭脳戦──というにはレベルが著しく低い戦いの火蓋が切って落とされた。落とされてしまった。


 どうしてくれるんだ、これは。

 運命の女神様がサイコロを振った結果だとしたら、ファンブルもいいところだよド畜生。


 最推しがサイズの合ってないスク水姿で風呂に押しかけてきましたなんて吹聴したら、血涙を流したやつにぶん殴られるか、病院行きを勧められるかのどっちかだろうけど、目の前にある光景は、紛れもなく、疑いようもなく事実だ。


 事実だからこそ、タチが悪いというかなんというか。


 雨宮さんが嫌いだとか、忌避してるとかそういうんじゃない。

 ただ単に俺は、社会的な死が近づいていることに恐れ慄いていた。


「……その……お背中、流します。水着なので、濡れても平気ですから」

「うん、気持ちはありがたいんだけどね。でもそれはなんというか気持ちだけ受け取らせてくれないかな」

「ダメです……それじゃ私、なにもしてません。久城さんに、なにもお返しできてません、だから……」


 雨宮さんの目に燦然と輝く決意は、鋼どころかオリハルコンよりもきっと固い。

 眦に、じわりと涙の粒が滲んでいるところを見るに、ある種の強迫観念じみたものに駆られてそうやってるんだろうけど──困ったな、どうすればいいのかさっぱりわからん。


 見返りを期待して雨宮さんのことを助けたわけじゃないし、そもそも身体なら既に洗ったからこうして湯船に浸かっているわけで。

 かといって、他人の善意を無視するやつは一生苦しむとかどこかで聞いたしで、八方塞がりだ。


 なにかこの事態をどうにかするための名案を閃かないものか。


 あるいは誰かに助けてもらうか。


 でも、残念ながら俺はハンサムでもないし、共に旅する仲間もいないから、現実は非情だという選択肢しか残されていないのだと、きつく目を瞑る。


 だけど。


 天啓が降ってきたのは、このまま社会的な死を受け入れるしかないのか、と腹を括ったまさにその瞬間だった。


「雨宮さん。話は変わるけど、髪乾かした?」

「……えっ、その……はい」

「もう一回乾かすの、大変だと思うし……それに、今日は雨宮さんも疲れてるよね? だからこう、またの機会に、ってことにできないかな」


 諦めさせるのが、要求を呑ませる無理なら、最低限の妥協点を探って話を進めていく。

 営業トークに欠かせないスキルだ。

 実際は要求を通すためにわざと最初にめちゃくちゃな提案をするのが定石だから、厳密には違うんだろうけどさ。


 雨宮さんの長い黒髪は手入れも大変だろうし、もう一回シャワーで濡らしてしまったら、二度手間どころじゃない。


 だから、相手にもこの道を選ぶなら損をするよ、と、遠回しに伝えるのだ。

 大人の世界って大体こんな感じだから世知辛いよな。頭を下げたり上げたり、忙しない。

 俺の言葉を受けた雨宮さんは僅かに身じろぎすると、はっとした様子で大きな、あどけなさの残る目を丸くしていた。


「……そういえば、そうですね……」

「雨宮さんの綺麗な髪がもう一回濡れ鼠なんてもったいないよ。それに、恩返し、っていうのもなんだけどさ、少なくともなにかしたいなら急がなくたって大丈夫だよ」


 精一杯の営業スマイルと、悲しいことに役に立った試しはないけど、練習してきた営業トークで、やんわりと「お断りします」を伝える。


 断るのも本当は心苦しいんだけどさ、でも、それはそれとしてスク水着た女の子に背中を流してもらいましたなんてどこかにバレたら俺の社会的な死は約束されたものになるわけで。


 俺が檻の中にぶち込まれれば、この部屋も強制退去だろうし、それじゃあお互い損しかしないよね、ってだけの話だ。それに、営業トークとはいえ、嘘八百を並び立ててるわけでもないしな。


「……それじゃあ、その……いつか、お背中、流させてくださいね、久城さん」

「ありがとう。そのときが来たらよろしく頼むよ」


 できれば来てほしくはないし、恩返しをしたいならもっと別な形になってほしいけどさ。


 ともかく、これで危機は免れた。

 去っていく雨宮さんの小さな背中を見送りながら、俺はほっと胸を撫で下ろす。


 耳まで茹で蛸のように赤く熱を帯びているのがわかる。まるでウブな子供じゃないか。


 ぶくぶくと湯船に顔の半分までを埋めながら、そんな他愛もないことを考える。


 というか、そんなことでも考えてないとさっきの雨宮さんのスク水姿が脳裏にフラッシュバックしてくるから、全力で現実逃避するしかないのだ。


「……でも、可愛かったな」


 ぽつりと呟く。


 色々と行動がぶっ飛んでるというか、今のところ善意が斜め上に空回りしてるけど、雨宮さんは決して悪い子じゃない。


 むしろ、見ず知らずの俺なんかを信頼して、色々尽くしてくれようとしてる時点で、少し危うささえ感じるレベルでいい子だ。


 それに、改めて意識するとなんだか気恥ずかしくなるけど、やっぱり雨宮さんは、美少女という言葉で括っても差し支えないぐらい可愛らしい。


 いや、美少女という言葉でも見劣りするぐらいか。背丈が低いのに出るところは出て引っ込むところは引っ込んでて。

 トランジスタグラマーって、もう死語なんだろうか。とにかくそんな感じだ。


 あどけなさを残した童顔に、楚々とした黒髪。確かに、雨宮さんは可愛らしい。でも、それ以上に。


「綺麗、なんだよな」


 そう、綺麗だった。あの赤みがかかった、紅玉みたいに大きな瞳は、間違いなく。


 我ながらなにを言ってるんだとは思う。

 頭の中まで茹ってしまったのかもしれないから、今はそういうことにしておこう。


 ぶくぶくと湯船に浸かりながら、俺はぼんやりと浮かび上がってくる雨宮さんのスク水姿とその瞳の間で、真紅に透き通った底なし沼の中で、ひたすら足をばたつかせていた。


 拝啓、運命の女神様。

 色々と前途多難な同居生活ですが、まだまだ始まったばかりってマジですか。マジなんだよな、あんたの確認取るまでもなく。

 そんな、わかりきった事実をひたすら反芻していたら、のぼせかけたのは秘密にしておくとしよう。

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