第7話 推しが我が家にやってくる
雨宮さんが当分どうするかについては、一応無事に決まってくれて一安心だった。
差し当たって困ったことがあるとするなら、それは。
「……もしかして雨宮さん、退去の日にちって、今日なの?」
「はい……その、今日です……」
要するに、雨宮さんが次の物件を探す間もなく家を追い出されたということだ。
警備の人が不法侵入と勘違いしても困るから、流石に事務所で寝泊まりしてもらうわけにはいかないし、かといって他に伝手がありそうなところはない。
美羽さんの家に泊めてもらうのが一番ベターなんだろうけど、あの人実家暮らしだしな。
流石に一日だけならともかく、しばらく厄介になることを考えると、事情も含めて結構厳しいものがある。
そうなると、一度実家に帰ってもらうという選択肢も出てくるといえば出てくるんだけど、そもそも雨宮さんの実家ってどこだ?
都内から離れるなら、それも厳しい。
ビジネスホテルは滞在し続けるなら相当金がかかるし、インターネットカフェなんて論外だ。
アンゼリカとしての収益がどれぐらい雨宮さんに還元されていたのかはわからないけど、「シュヴァルツェスブルク」のやり方を考えれば、ほとんど最低賃金スレスレでこき使われていた可能性も大きい。
そうなると、やっぱり美羽さんに事情を説明して泊めてもらうのが一番いいんだろうけど、仕方ないとはいえ、美羽さんの家族にとっては見ず知らずの誰かをタダで複数日泊めてくれ、というのはやっぱり現実的じゃないだろう。
「弱ったな……荷物とかは?」
「一応、このキャリーバッグの中身が……全部、です……」
「そっか……雨宮さん、実家に戻るつもりは?」
「……え、っと、その……両親に……あんまり、迷惑かけたくなくて……家も遠いですし……一人で暮らしてるのも、そういうことなので……」
そりゃそうだ。娘さんが嵐の中で野宿してましたなんて言われてみろ、親の立場なら卒倒するぞ。
雨宮さんが芸能界に戻りたいかどうかはともかくとして、俺がもしも親御さんだったら、二度と近づかせないだろうよ。
そうなると、ここで事務員として働くという選択肢が潰えてしまう。
少なくとも、それが嫌だからこそ、雨宮さんは実家に帰るという選択肢に対して拒否感を示したところはあるはずだ。
全く、八方塞がりもいいところだな。
だけど仕方あるまい、ここはせめて大人として……って格好つけるような柄じゃないけど、俺が始めたに等しいことなんだから、ケジメはしっかりつけなきゃいけない。
薄給を切り詰めて貯めていた貯金をビジネスホテルの宿泊費に充てる、最早これしかあるまい。
さらばだ万札、いつかまた会おう。
断腸の思いで取り出したスマホで旅行サイトを開いて、近場のビジネスホテルを調べようとした、その瞬間だった。
「……あの」
「どうしたの、雨宮さん?」
「……その、勝手なこと……言うかもしれないです……えっと……久城さんは、許して、くれますか……?」
「うーん……具体的なことがわからないからなんともだけど、できることなら俺は雨宮さんの意志を尊重したいと思ってるよ」
本人が望んでいないことをしても、嬉しくないし禍根が残る。それはお互いにとってよくないことだよな。
だから、できる限り雨宮さんの意向を汲むのは織り込み済みだ。多少のアドリブぐらいはドンと来い、ってところだ。
「……ありがとう、ございます。その……私……久城さんのお家に泊めてもらうことは、できないですか……?」
今、飲み物を口に含んでいなくて本当によかったと、心の底からそう思った。
寝耳に水、青天の霹靂。
いや、そういう手段もあるにはあるけど、流石にそれはないだろうと真っ先に切り捨てた選択肢を、雨宮さんは突きつけてきたのだから。
「いや、雨宮さん……流石にそれは……」
いくらそれが彼女が望んだこととはいえ、男一人で暮らしている安アパートに年頃の女の子を招き入れるなんて、普通に考えたら色々ダメだろう。アウトもアウトだ。
「いや……悪くない話ではないかね、久城くん?」
「社長までなにを言い出すんですか!? 相手は女の子ですよ!?」
だから、懐を痛めてでもお断りしようとした矢先に、さっきまで沈黙を貫いていた社長が急降下爆撃のごとく火種を投下してきたのだから堪ったもんじゃない。
悪くないってなにがだよ。なにもかも最悪だよその選択肢は。
「そうだね、しかし『シュヴァルツェスブルク』が今後雨宮くんになにかしらの嫌がらせや圧力を加えてこないとは限らない。いや……連中のことだ、十中八九してくると見ていいだろう。そのとき、頼れる誰かが傍にいてくれるというのは、彼女としても心強いのではないのかね?」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「なにも君たちがいつまでも一つの部屋を二人で共有する必要はあるまい。久城くん、君の隣の部屋は空き部屋なのだろう? 家賃も手頃だ、そこに引っ越してもらえばいい」
それまでの間、俺の部屋で共同生活を送ることになるという点を除けば、確かに社長の話は理に適っている……かどうかはわからないけど、根拠がないと切って捨てることもできない重みがあった。
社長と「シュヴァルツェスブルク」の間になにがあったのかはわからない。
ただ、確実にそうしてくる、と言い切れるだけのなにかを見てきたことは確かなのだろう。
今時嫌がらせなんてあり得ないことだとは思いたかったけど、もしも雨宮さんが疎ましくて事務所から追放したのなら、芸能界から去るまでバッシングし続けるというやり口は十分に考えられることでもある。
「雨宮くんも、久城くんのところに身を寄せるのに抵抗はないのだろう?」
「……はい。久城さんは、命の恩人ですから……」
なんというか、信頼が痛い。凄まじく。
いるかどうかはともかく、神に誓っていえることだけど、間違いを犯すつもりは断じてない。
ただ、どうしようもなく限界な一人暮らしの部屋に年頃の女の子を招いて、入居が決まるまで共同生活を送ってくれというのは、いくらなんでも俺に求められるハードルが高すぎないか。
とはいえ、背に腹はかえられない状況なのも確かなことだ。俺が始めたことなら最後まで責任を取れ、というのも道理ではある。
住むしかないのか。
今まで意識の外に置いていたけど、最推しの魂をやっていた女の子と。
世の中の男子諸君に呪い殺されそうなぐらいの幸運なのはわかっているけど、俺にとっては別に福音でもなんでもないんだよな。
「……ふ、ふつつか者ですが……よろしくお願いします、久城さん……」
「いや、その、なんだ……少しの間だけだと思うから、狭いけど我慢してね、雨宮さん」
「はい……その、お役に立てるよう、頑張りますから……あの……」
──私を、見捨てないでください。
それは、切実な祈りだった。
最後に付け足された言葉の重さが、両肩にずしりと乗りかかってくるのを感じる。
見捨てるつもりなんてない、という言葉も今はきっと届かないほどに、雨宮さんは擦り切れて、傷ついているんだ。
信じていた事務所にも裏切られて、約束を反故にされた挙げ句、一方的に追い出されて。
そんな状況にまで追い込まれた雨宮さんに、俺がしてやれることなんてないのかもしれないけど。
せめて、雨風凌げる屋根を提供することぐらいはやってみせなきゃならないだろう。最推しだとかそうでないとかを抜きにして、一人の人間として。
例えこの世界が悪意を軸に回っていても、誰かが当たり前のことを、当たり前にやらなきゃ、なにも始まらないのだから。
「……わかった、雨宮さん。俺は……さっきも言ったけど、君の味方でいたいし、いるつもりだよ。だから、少しずつでいい。雨宮さんが本当にやりたいことを見つけるまで、手伝いをさせてくれないかな」
「……ありがとうございます、久城さん。ダメダメな、私なんかのために……」
「ダメじゃないさ、もしダメだったとしても、少しずつ変えていけばいいことだよ」
その先にある未来のことなんてわからないし、なんの保証もできないけど。少しずつ、歩くよりも遅く、地べたを這いずるような速さでだって、変わっていけばいい。
俺がかつて、アンゼリカに……雨宮さんに勇気をもらったように。今度は、俺がお返しをする番だから、きっと。
「……っ、うぅ……っ……ぐすっ……」
「……つらかったね、雨宮さん。君はよく頑張った。頑張っただけじゃない。俺は……何度も言うよ。君に助けられたんだ。それは……君にしかできない、凄いことだよ」
「……うぇぇぇん……っ……!」
俺の胸板に顔を埋めて泣きじゃくる雨宮さんを静かに宥めながら、静かにその痛みを想う。
止まない雨はないとかいうけどさ、その前に雨風から少しでも身を守れる傘が欲しいんだよな。わかるさ。
だから、五百円で買えるようなビニール傘でいい。その程度の気休めであったとしても、俺は。
雨宮さんにとって、そういうなにかであれればいいと、思ったんだ。
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