第5話 報連相は迅速に
「くぁ……ずぶ濡れずぶ濡れ……随分とまあ濡れ鼠になってますねぇ、マネージャーさん」
階段を登って事務所の扉を開けるなり、バイトで事務員をやっている女性──
ふわふわと天然のウェーブがかかった亜麻色の髪を指先で弄びながら、美羽さんは相変わらず眠たげに暇を持て余していた。
それもそうだ。仕事がそもそもないんだし、事務員としてやることは今月も垂れ流される赤字の計上なんだから。
「まあ、ちょいと傘を忘れましてね」
「忘れ物忘れ物……天気予報、見てなかったんですかぁ?」
「見てましたけどね、いや昨日晴れてたからどうせ今日も降らないだろと」
「災難災難……それは大変でしたねぇ。ところで背中に隠れてる子はどこの誰なんです?」
まあ、そりゃ突っ込まれるよな。
雨宮さんは人見知りを発動させて緊張しているのか、さっきから俺の背中に隠れっぱなしだ。
美羽さんは喋り方こそ間延びしてるし、年中眠そうだけど、警戒するような相手じゃない。だから大丈夫だと、俺は隠れていた雨宮さんへ、前に出るように促す。
「……そ、その。初め、まして……」
「お初お初……初めましてだねぇ、美羽はこの事務所でバイトやってる事務員だよぉ」
「……雨宮……雨宮深月、です……その……」
「ん……そうそう、訳ありなら別に言わなくてもいいよぉ。見たとこ、マネージャーさんがスカウトに成功したとも思えないからねぇ」
美羽さんは、ガチガチに緊張している雨宮さんのそれを解きほぐそうと、柔らかい笑みを浮かべて彼女に接していた。
それはいいとして、流れ弾が俺の方まで飛んできているのは勘弁願いたいんだけどな。
いや、確かにスカウトしてきたわけじゃないけどさ。未だに実績らしい実績も挙げられてないけどさ。
「そういえば美羽さん、社長はいないんですか?」
「不在不在……そうですねぇ、社長なら今ちょっと出かけてますけど、そのうち帰ってくると思いますよぉ」
「なら待ちますか、雨宮さんは……」
「待機待機……今ちょっとタオル持ってきますねぇ、マネージャーさんと雨宮さんはそこでちょっと待っててくださいねぇ」
間延びした甘ったるい声でそう告げると、美羽さんは給湯室までタオルを取りに向かった。
しかしこの人も大概美人だというか、喋り方に癖はあるけど、アイドルやVtuberやってけそうなのに事務員やってるのも大概謎だな。
社長も美羽さんに転向を薦めたりしないってことは、まあなにかあるんだろう。
そんな、益体もないことを考えながら、俺はしばらく玄関前で立ち尽くしていた。
雨宮さんは美羽さんへの挨拶を終えるなり、なぜか再び俺の背中に隠れてしまう。
果たして人見知りの対象に俺が含まれてないのかどうかは気にはなるけど、個人の事情に踏み込みすぎるのも野暮というものだ。気にしないのが一番だな、うん。
「あまり緊張しなくていいよ、見ての通り俺と社長と美羽さんしかいない事務所だからさ」
「……はい。でも……私、その、さっきも言いましたけど、人見知りする方なので……」
もじもじと俯いたまま、雨宮さんは呟く。
アンゼリカをやっていたときは溌剌として活発だったのが、リアルだとおどおどした子だってギャップには確かにびっくりさせられたけど、それも含めて雨宮さんなんだと考えれば、なんの不思議もない。
今や誰もがペルソナを被っている時代だしな。誰かがなにかを演じることそのものに忌避感を抱いていたんじゃ、Vtuberを推していくことなんてできやしないだろう。
「お待たせお待たせ……タオル、持ってきましたよぉ」
「ありがとう、美羽さん。雨宮さんも、よければ使って」
「……はい。ありがとうございます……」
ぐっしょりと濡れた服そのものはどうにもならないとして、せめて顔や髪を乾かすだけでも大分違ってくるものだ。
美羽さんが用意してくれたタオルで顔と髪を拭きながら、さっぱりしたとまではいかなくても、最低限身なりは整えられたかな、と小さく息をつく。
雨宮さんも濡れた髪を丁寧にタオルで拭い、恐る恐るといった様子で美羽さんにタオルを手渡していた。
「……あ、あの……ありがとう、ございます」
「んぅ? 無礼講無礼講……気にしなくていいよぉ」
また赤字が増えるだろうけど、美羽たちにはあんまり関係ない話だからねぇ。
そんな冗談とも本気ともつかない言葉を残して、美羽さんは再び給湯室の方に引き返していく。
確かに乾燥機まで動かしたら、ただでさえ赤字経営なうちの光熱費が跳ね上がるのは確かだけど、もう少しこう、手心というかなんというか……いや、そもそも俺が傘持ってくれば済んだ話だからな、これ以上はやめておこう。
「それじゃ行こうか、雨宮さん」
「はい……その、さっきから色々と、ありがとうございます……」
「気にしなくていいよ。美羽さんもそうだし、俺がやりたくてやってることだからさ」
そんな具合に軽い胃痛を覚えながら、とりあえずは最低限身なりは整えたということで、俺は雨宮さんを応接セットが置かれているスペースに案内する。
上等というには微妙な感じのソファに、観葉植物とガラステーブルが置かれているその一角に、今のところ誰かが腰かけているのを見たことがないから、彼女が来客第一号ということになるわけだ。
今社長がいたら、これは記念すべきことだって盛り上がってたんだろうけどなあ。
懐が深いのは確かだけど、割とノリと勢いで生きてるからな、あの人は。
「どうぞどうぞ、粗茶だけどねぇ」
「……すみません、いただきます」
なんてぼんやりしている間にも、緊張して、肩に力が入っている雨宮さんの前に、美羽さんが給湯室で淹れてくれたお茶を差し出す。
できる人だな。いや、俺が半人前どころか四分の一人前ぐらいしかできてないってだけの話だけかもしれない……というかほぼそうなのが悲しい限りだけど。
事務所の扉が勢いよく開け放たれたのは、雨宮さんがおずおずと湯呑みに口をつけた、まさにそのときだった。
「いやあ、ひどい土砂降りだね今日は! 傘を持っていなかったら服の中まで濡れていたところだよ! はっはっは!」
「社長社長、お客さんがいますから、声抑えてもらっていいですかぁ?」
「おっと、そうだったね失敬! 蔵前くんはよくできた……と、来客……?」
ドアを全開にして、豪快に笑っていたブラウンスーツにえんじ色のネクタイといった格好をしている壮年の男性。
よくいえば剛毅で、悪くいえばガサツなところがある彼こそが、我が「ヴァイスライブ」の社長を務めている
来客、という美羽さんの言葉を聞くなり、社長は首を傾げて、応接セットに腰かけている俺と雨宮さんの間で、視線を往復させる。
「……お、おお! 久城くん、その様子だととうとうやってくれたのかね!」
なんというか、期待が重い。
めらめらと情熱の炎を灯した社長の瞳は、とても壮年のそれには思えないぐらい若々しい熱がこもっていた。
だけど、それだけにこう、実際はスカウトに成功したんじゃなくて、訳ありの子を抱えて相談しにきただけだという事実に申し訳なさを感じてしまう。
それでも、だ。
これは俺が始めたことなのだから、どんな形になるにしろ、ちゃんと決着をつけなければならない。
「御影社長、大変申し訳ありませんが……残念ながら、彼女はスカウトに成功したわけじゃありません」
「ふむ……? ならば、その子は」
「いわゆる訳ありってやつです、私情で申し訳ありませんが、少しだけお力添えいただけないでしょうか」
きっちりと腰を折って、頭を下げて、そう願い出る。
本当なら、俺一人の力だけでなんとかできる方が理想ではあるんだけど、現実はそんな風にできちゃいない。
社長ならなんとかできる──かどうかだってわからないけど、少なくともあのまま雨宮さんを放っておくチョイスは絶対にあり得ない選択肢だ。
だから、俺は俺にできるベストを、ベストに届かないならベターを。
雨宮さんを助けるために、少しでもいい選択肢を選びたいんだ。
大人としてとか、社会人として、とかじゃなくて、一人の人間として。
「なるほど……とりあえず君も座りたまえ、久城くん。その訳とやらについて、彼女の口から語るのは難しそうかね?」
「雨宮さん、できる?」
俺の問いに、雨宮さんはしばらく迷った様子を見せていたが、やがて決心がついたのか、小さく首を縦に振った。
「……でき、ます」
「つらくなったら、いつでも代わってくれていいからね」
「……ありがとうございます……久城さん」
「では、雨宮くんといったね。私が力になれるかどうかはわからないが……君の事情に対して最大限の誠意は尽くさせてもらうよ」
社長の言葉を受けた雨宮さんは、きゅっ、と豊かな胸の前で小さく拳を握りしめる。
決意を込めるように、自分の中に見つけたのであろう、一欠片の勇気を逃してしまわないように。
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