第3話 灰被りの天使
「……えっ、と……」
数分置くことで少しは落ち着けたのか、その子は相変わらず、雨降りの空に似つかわしくない、透き通った声でそう呼びかけてきた。
「久城でも陽太でもプロデューサーでもマネージャーでも構わないよ。まあ、君をプロデュースしたりマネジメントしてるわけじゃないんだけど」
「……じゃあ、その……久城、さん」
「なんだい?」
「久城さんは……私を、スカウトしにきたんですか……?」
考えてなかったな、ごめん。
なんて言うには若干空気が重たいというか腰が引けるけど、正直になにも考えてなかったといった方が誠実だ。
なんせ、土砂降りの公園でずぶ濡れになって俯いている女の子がいて、その子は俺の最推しかもしれないって状況だ。自分でも事態を上手く飲み込めていないところはある。
それに、名刺を出したのだってコミュニケーションの材料になればと思っただけだ。
普段は大概名刺渡す前に逃げられてるから、そもそも受け取ってくれるとさえ思っちゃいなかった。
初めて受け取ってくれた相手が最推しの魂なってたかもしれない女の子だっていうのも驚きだけどな。
「そうだなあ、俺としてはその提案も魅力的なんだけどさ、正直そこまで考えてなかった」
「……か、考えてないのに……名刺、渡したんですか……?」
「なんていうか……その、君と話をするきっかけになればいいと思って」
アホかお前は、とでも言いたげな顔でその子はきょとんとつぶらな瞳を丸くしていた。
いや、アホといえばアホなんだから、そう言われたところで文句をつける資格なんてないんだけどさ。
「……久城さんは、よくわからないです……」
「ははっ、よく言われるよ」
なに考えてるかわからないってね。
まあ、実際はなんも考えてないというか、ほとんど勢い任せで行動してるんだけどな。
いけると踏んだチャンスは逃したくないし、あの日アンゼリカに背中を押してもらって、逃げ出すのはもうやめだと誓った手前、それを破るのは筋が通らない。
熱意がありそうだったからとは、それを買ってスカウトしたとは社長が言っていたことだ。
現状、熱意以外は全部空回りしているのが悲しい限りだけど、それは一旦横に置いておこう。
その子は困ったように細い眉を八の字に歪めていたけど、少なくとも警戒は解いてくれたようだった。
俺と、雨でふやけた名刺の間で往復する視線に、さっきまで感じていた投げやりさだとか、ある種自暴自棄になっている節は感じない。
それが、俺という理解できない存在が目の前に現れたことに対する困惑だとしても、あのまま俯き続けているよりはマシだろうよ。
「……あの……」
やがて決意が固まったのか、その子はおずおずと手を小さく挙げながら口を開いた。
「なんだい?」
「……私が、なにを言っても……信じてくれますか……?」
縋るような目だ。
俺が果たして、この子にとって地獄に垂らされた一本の蜘蛛糸になれるかどうかはともかくとして、彼女の中で、少しでもその目が希望に向いてくれたことは幸いだった。
「ああ。俺は……俺だけは今、君の味方だよ。そこは信じてくれていい」
かつて最推しに勇気づけられたときと、変わろうと、生きようと思ったときと同じ言葉を、最推しを務めていたかもしれない子にかけるっていうのも中々どうして、皮肉なものだ。
だけど、それは俺の本心でもあった。
この子は最推しだったかもしれないとか、損得だとか、そういうのも一切抜きにして、ただ目の前にいる誰かが、いつかの俺と同じように、世界を恨むことしかできないでいるなら、味方になってやりたい。
ただ、それだけのことなんだ。
「……ごめんなさい。さっき、私……嘘つきました」
この子が俺を信じてくれたのかそうでないのかはわからない。あるいは自棄になっていたのかもしれない。
ただ、何度も息を吸って、吐いて。
悩みに悩み抜いた果てに、口を開いてくれたのは確かだった。
「嘘?」
「……はい。私、アンゼリカ・ベルナルをやってました」
「そっか……でも、話してくれて助かるよ」
「……驚かないんですか……?」
「驚いたさ、目の前に推しがいたんだから。君の声を聞いたとき、正直めちゃくちゃびっくりした」
なにもVtuberに限った話じゃなく、有名なスポーツ選手や芸能人、憧れの人でもなんでもいい。
同じ状況に出くわしたなら、驚かないやつの方が珍しいはずだ。
そんな一般論はさておくとしても、彼女が口にしたのはアンゼリカの魂だった子が自分みたいな……なんてニュアンスの言葉と見て間違いないだろう。
猫背になって俯いているその子は、いつも溌剌としていたアンゼリカのイメージからは確かに程遠い。
だからといって、別に失望したりだとか、そういう感じはしなかったな。
魂が交代すると聞いた時は心の底から落ち込んだものだけど、不思議と、アンゼリカを演じていたこの子とは自分でも驚くくらいにすらすらと喋れていた。
「……声で、わかるんですね」
「自慢じゃないけど、最推しだったからね」
「最推し……」
「ああ! なんていうか……本人の前で言うのも恥ずかしいけどさ、俺は君に、アンゼリカに、心から勇気づけられてさ。プロデューサー兼マネージャーになったのも、君みたいに、誰かの助けになれたら、って思ったからなんだ」
──まあ、今のところアイドルだとか芸能人の卵の一人もスカウトできてないんだけどさ。
肩を竦め、冗談めかして俺は言った。
本人を前に推し語りするってのも中々得難いというか貴重な体験なのかもしれないけど、少し恥ずかしくなってくるのを誤魔化す意味があるのもまあ、否定はしない。
「がっかり、しないんですか……私みたいな根暗が、アンゼリカをやってたなんて……」
「しないさ、びっくりこそしたけど」
「……ありがとう、ございます……でも……私……」
そこまで口にして、堪えていられなくなったのか、赤みがかかった彼女の瞳から、涙の粒がこぼれ落ちていく。
降りしきる雨に洗い流されても、次から次へと目を腫らして悲しみに暮れるこの子に一体なにがあったのか、生憎俺は神様じゃないからわからない。
ただ一つわかることがあるとするなら、彼女は深く、深く傷ついているということだけだ。
「……わた、わたし……アンゼリカを……辞めさせられて……それで……ぐすっ……どうしていいか、わからなくて……っ……事務所からも……捨てられて……」
「事務所から、捨てられた?」
なんだか急に、きな臭い香りがしてきたな。
いや、元キャストが公園で野宿しようとしている時点でただ事じゃないといわれればぐうの音も出ないけどさ。
だが、アンゼリカの魂が、キャストが交代するのはあくまで円満なものだった、というのが表向きの発表だったはずだ。
大本営発表を信じるか、といわれたらそりゃそうだという話になるけど、曲がりなりにも大手事務所をやっている「シュヴァルツェスブルク」が、なんの理由もなくキャストを使い潰して、捨てるような真似をするかといわれれば、普通は考えられないことだ。
「……はい……アンゼリカの次のキャストさんは、社長さんの娘さんだからって……私は、新しくモデルを用意してもらえるって話でしたけど……全然そんな話なんかなくて……結局、クビになったんです……」
訂正しよう。きな臭いどころじゃなかった。
ガソリン被って火事場に突っ込むような真似を、よりにもよって大手事務所がやらかしてしまっているなんて話はそう簡単に信じられないことだが、アンゼリカの魂をやってた子の口からそれが語られたってことは、真実と見て間違いないだろう。
そして、元キャストが路上生活を強いられているような状況も合わせれば役満だ。
どうすればいいんだ、これは?
正直、一介の弱小プロデューサー兼マネージャーに抱えられるレベルを超えた案件だ。
マスコミにその情報を持って、捨て身のリークを図るという選択肢もあるといえばある。しかし、「シュヴァルツェスブルク」の法務部と対決できるような蓄えやノウハウがこの子にあるとも思えない。
つまるところ、詰みだ。どうしようもないほど、この子は詰んでいた。
「……アンゼリカでもなくなって……捨てられて……私……なにか……悪いこと、したのかな……もう……生きてたくない……死んじゃいたい……」
彼女の口をついて出てきたのは、命を絶とうとするのにも納得がいく理由ではあった。
あの「シュヴァルツェスブルク」が裏じゃこんなに真っ黒なことをしてるだなんて思いもしなかったけど、それでも。
この子がこんなに惨めな思いをしなきゃいけない理由がどこにある。そんなもの、ないに決まってるだろう。
「だったらさ、うちに来ないか?」
「えっ……?」
「君の事情とか、抱えてるものとか。この場じゃそういうのを全部は受け止めきれないけど……せめてあったかいものでも飲んでさ、雨宿りぐらいはできるよ」
それが果たしてなにかの助けになるのかなんて、俺だってわからない。だとしても、ここでずぶ濡れになっているよりはよっぽどマシだろう。
気休めだったとしても、考えを落ち着かせる時間を作れるかもしれないしな。
それに、社長もいるはずだから、キャストを降ろされてクビになった話についても少しは協力できるはずだ。
そう提案した俺に、彼女はしばらく困った様子できょろきょろと視線を往復させていたけど、やがて決心ができたのか、控えめに首を縦に振った。
「……お願い、します……私、どうしたらいいかわからないので……」
「ああ、任せてくれ! って言えたら格好いいんだろうけど、俺も新人だからな……ははっ」
「……くすっ……」
控えめではあるものの、彼女はようやく笑ってくれた。新人も新人な自分が情けない限りではあったけど、さっきまで泣いてた子が笑いの種にしてくれたのならなによりだ。
「……あ、あの……」
「なんだい?」
「私、よく考えたら名乗ってなかったな、って……だから、その……名前……」
一呼吸間をおいて、小さく息を呑み込むと、その子は相変わらず透明感のある綺麗な声で、自分の名前を口にする。
「雨宮……
「任せてくれ! えーっと……」
「……あ、雨宮でも、深月でも……その……」
「よしわかった、行こう! 雨宮さん!」
大船に乗った気分でいてくれよな、と言い張るには他力本願が凄まじいから黙っておこう。
下手すればどこかで爆発炎上しかねない火種を拾ったことになる以上、現場の判断だけで動いちゃ危険だからな。
とりあえず、そんな大人の事情は一旦脇に置いておくとして。
アンゼリカ──もとい、雨宮さんが、少しでも前を向いてくれたってだけでも合格点だろう。
俺にしてはよくやった方だ。
ただ一つ、問題があるとするなら、それは。
「傘……どうしましょう。私、折り畳みとかも持ってなくて……」
「そうだなあ、無難にコンビニで買うか……」
俺たちは二人とも、この土砂降りの中で、傘を持ち合わせていなかったことぐらいだろうか。
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