第2話 卵以上ヒヨコ未満
推しが公園でずぶ濡れになっていた。
一体なにをいっているんだと思われるかもしれないけど、正直俺だって困惑している。
土砂降りなんて言葉が生ぬるい雨に打たれながら、呆然と立ち尽くすことしかできないぐらいにはな。
「君は……アンゼリカ・ベルナル、なのか……?」
「えっ……?」
幸いなのかそうでないのか、困惑しているのは俺だけじゃなく、彼女もだった。
事実、俺の出したその名前に、その女の子は動揺と驚きが綯い交ぜになった目を見開いていたからな。
その沈黙は、答え合わせみたいなものだ。
それから、なにか言いたそうに、もにょもにょと口ごもるその子の姿勢は、あれだけ陽気な声でリスナーたちを魅了していたアンゼリカとは真逆のものだった。そこに間違いはない。
だけど、透き通るようなハイトーンボイスも、今は暗く沈んでいるけどはっきりとわかるその独特な声質も、ずっと前からアンゼリカのことを追い続けてきた俺には一発でわかった。わかってしまった。
今、目の前でずぶ濡れになりながら、公園のベンチで蹲っているこの子こそ、初代──俺が追いかけ続けてきた、アンゼリカ・ベルナルの魂そのものなのだと。
初代、といったのは、そのまま言葉通りの意味だ。
アンゼリカの魂、身も蓋もないいい方をするのであれば、キャストは今、俺が熱心に追いかけていた頃とは別人に代わっている。
ある日突然、生放送での告知もなく、だ。
アンゼリカの魂は二代目に引き継がれるというお知らせが所属事務所「シュヴァルツェスブルク」の公式ホームページに載っけられて、それでおしまいだった。
そこにどういう事情が絡んでいるのかはわからない。
ただ、「シュヴァルツェスブルク」のスタンスとしてはあくまで、「アンゼリカ・ベルナル」というVtuberの引退ではなく、新しい活動の形を模索していくためにやむを得ないことだったという姿勢を、今も貫き通している。
アンゼリカの魂が交代すると聞かされたリスナーたちは、俺も含めてそれはもう阿鼻叫喚だったさ。
ペラ紙一枚に収まるような文字列だけで事実上の引退に等しいことを納得しろ、なんてのは到底無理な話がすぎる。
それにな、実質的に推しの供給が断たれるってのはな、オタクにとっては半身を引き裂かれるのにも等しいことなんだよ。それをわかれ。
と、そんな怒りと失望が真っ赤に滾った結果、事務所とアンゼリカの公式SNSは燃えた。それはもう派手に、山火事のように燃えたさ。
俺は悲しみに暮れる一方で、それどころじゃなかったけどな。アンチと信者と野次馬が作りあげたゴモラを、力なく見ているのが精一杯だった。
だけど、悲しいことに人は忘れる生き物だ。
アンゼリカ炎上事件があったのも半年前。それだけの期間があれば、どれだけ生き残りが声をあげたって、氾濫する情報に押し流されていくのは必然だ。
事務所がだんまりを貫いていたのは、それを狙ってたんだろう。
大人の事情をある程度は把握できる身にこそなってはいるし、「シュヴァルツェスブルク」のやり方も炎上対策としては理解できるけど、納得できるかどうかは別の話だ。
そういえば、なんの因果か、その日も今日みたいにひどい土砂降りだった。
全くもって、雨なんてろくなもんじゃない。つくづくそう思う。
話が逸れたな。要するに今、俺の目の前にいる女の子は、恐らくではあるけど──半年前から音沙汰のなかった、初代アンゼリカの魂だということになる。
根拠は状況証拠と勘だから、まだ、一概にそうだと判断できるわけじゃないけどな。
「……そ、そんな……人違い、です。だって……そんな立派な人が、雨の中で野宿なんて……しない、ですよ……」
絞り出すような弱々しい声でその子は呟いたけど、それが苦し紛れの言い訳なのは、残念ながらバレバレだった。
必死に頭の中でアドリブを練り上げたんだろうけど、話し方の辿々しさだとか、俺から目を逸らしたことだとかでわかることだ。
とはいえ、状況証拠だけでは推察が関の山で、真実については当人が喋ってくれない限りどうにもならない。
この子がアンゼリカ・ベルナルの魂だったかどうかは一度置いておくとして、確かにわかることがあるとするなら、それはたった一つだけだ。
明らかに、異常な事態が起こっている。
この土砂降りの中で野宿をしていると、彼女は口にしていた。それが事実なら、この子には帰る家もなく、行く当てもないということだ。
普通に考えたら、警察なりなんなりを呼ばなきゃならない事態ではあるんだろうけど、恐らくこの子はそれを拒むだろう。
死にたい、消えてしまいたい。
世界の全てを嘆いて、恨んでいるような目が全てを物語る。助けてほしいけど、上辺だけ差し伸べられるものにただ縋りつくだけじゃ、なんの解決にもならないと知っている、諦め。
その気持ちは、痛いほどわかった。
漠然と死にたい、消えてしまいたいって思いだけが募って、どうしようもなかった時期があったのだから。
でもな、考えてもみろ。
赤の他人が訳知り顔で「君の気持ちはわかる」なんて同情を寄せたところで、その上で「生きるのを諦めないで」なんて綺麗事を吐いたところで、追い詰められている相手には逆効果だ。
俺には俺の痛みがあったように、この子にはこの子の痛みがある。
それは理解から遠いものなのかもしれないし、あるいは近いものなのかもしれない。
ただ、一つだけいえることがあるとするなら、それはどこまで近しくても相似形であって、合同として重なり合うことは決してない、ということだった。
放っておいてほしいというオーラを全身から醸し出している目の前の子は、もしかすれば、助けなんか望んじゃいないのかもしれない。
そんな彼女に、俺がしてやれることはなんだ。
まさしく、追い詰められて困っている誰かが目の前にいる今、俺がすべきことは。
一秒がどこまでも薄く、しかし重く引き延ばされていくような感覚の中で、考える。
警察を頼ろう、なんてくたびれた正論でも、生きてればその内いいことあるさ、なんて力無い楽観でもなく、目の前の女の子に届くような言葉を。
「そういえばさ、君の名前はなんていうんだ? よければ訊かせてくれないか?」
考えた末に出てきたのは、そんな他愛もない問いかけだった。
小学生がやるような英語の授業で、ハロー、アイムファインセンキュー、なんて繰り返してきたときのように、俺は軽く薄っぺらい言葉を投げかける。
ずぶ濡れのまま俯いていたその子は、きゅっ、と小さな拳を握り締めて、絞り出すような声で俺の問いに答えを返してきた。
「……そんなこと訊いて……なにに、なるんですか……?」
「そうだね、なんにもならないかもしれない。でも」
放っておいてくれ、と言い淀んだその子の言葉を喉元で遮るように、俺は濡れ鼠になったスーツの内ポケットから、革製の名刺入れを取り出した。
いつか使う日が来ると思っていたが、今のところ、そのいつかが訪れていないものだ。営業向いてないのかもな、と悩んだりもしたっけな。
苦笑しつつ、中からそれなりに厚みがある名刺を一枚取り出して、社長から教えられたように恭しく、俺はその子へと差し出した。
「初めまして。わたくしは、芸能事務所『ヴァイスライヴ』のプロデューサー兼マネージャーを務めている、久城陽太という者です」
ハロワ帰りに社長からスカウトされて、そのまま一も二もなく入社を決めた芸能事務所。
俺はその端くれでこそあるものの、一応は芸能事務所のプロデューサー兼マネージャーだ。
まあ、弱小もいいところなんだけどな。
なにせ俺以外にプロデューサーやマネージャーはいないし、今年できたばかりとはいえ、我が「ヴァイスライブ」は、所属タレントの一人もいない始末なのだから。
苦笑する俺を見て、少しだけ気も紛れたのか、差し出された名刺をまじまじと見つめて、その子は恐る恐るといった様子で、雨でふやけていくそれを手に取った。
「芸能、事務所の……マネージャーさん……?」
「ああ。なにになるかはわからないけど……君の助けには、そうじゃなければ、愚痴を聞く相手ぐらいにはなれるかもしれない」
だから、聞かせてほしいんだ。
どれだけ君がつらかったのかを。どれだけ悔しくて悲しい思いをしたのかを。
なんの自慢にもならないけど、俺はプロデューサー兼マネージャーとはいえ、まだまだ尻に卵の殻を貼り付けた──いや、殻を破ることさえできていないヒヨッコ未満だ。
だからきっと、頼りないかもしれないけどさ。
せめて、黙って話を聞くことぐらいは、できるはずだから。
俺の言葉に、その子の瞳がじわり、と熱を帯びて、眦に涙の滴が滲む。
「……どうして……」
なんの、一銭の得にもならないのに、そんなことをするのかって?
そんなことは決まっている。俺があの日アンゼリカ・ベルナルに助けられたように、自分もまた、行き詰まった誰かを助けたい。
ただそれだけのことだ。エゴといえばエゴだし、偽善といえば偽善だけどな。
それでも、やらないよりはいくらかマシだろうと開き直って、俺はその子が次に言葉を紡ぐのを、ただ雨に打たれながら待っていた。
雨はまだ、止む気配を見せなかった。
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