ep.004 繚乱の花、真空の声

 目を覚ますと、香ばしい匂いに意識が覚醒した。じゅうじゅうと音を立てるベーコンの匂い。認識した途端に口の中に唾があふれた。ずきりと痛んだ身体を動かすと、なぜか身体にへばりついていたナジェが呻いた。起こさないよう、そっと寝台から滑り降りる。寝台の隣、机に向かう椅子の肩に紺の軍服が引っかかっていた。手に取って広げてみれば、空いていたはずの大穴は消えていて。よれよれの軍服に袖を通しながら、レグルスは微かに唇を歪めた。微笑みと言えなくもないわずかな角度で。


 キッチンのある方へ向かえば、フライパンを握る少女の後ろ姿が見えた。一房の三つ編みに結えられた赤毛が上機嫌なリズムを刻んで揺れている。


「マルゴ」


 三つ編みが跳ねる。フライパンを握ったまま、マルゴが振り返った。菫色の瞳が瞬く。そして、彼女はふわりと破顔した。


「起きたのね。おはよう、レグルス」


 何でもない挨拶なのに、レグルスは思わず目を見開いた。焦げた砂糖のような褐色の双眸に戸惑いが溶けていく。


 どうして、こんなにも。


 顔に手を当てて目を逸らす。


「……おはよう」


 たぶんきっと、だいぶ下手くそな挨拶だった。ぷはっとマルゴが噴き出したから。


「挨拶だけで緊張しすぎよ。あたしなんて毎日してるわよ。それとも、久しぶりだったりした?」


「ああ、随分と、な」


 おはよう、なんて言葉を口にしたのは何年ぶりだろうか。特殊諜報部隊に配属されてから、誰かと話すのは義務で、何でもない言葉を交わすことはできるだけ絶っていた。他者という温もりを遠ざけてしまわなければ、自分を罰さねば、重ねた罪の重さに押し潰されてしまうような気がしていた。それなのに、温もりに触れてしまえば一瞬で、ふわりと軽くなる心の矛盾に苦笑した。


「ナジェも起こして朝ごはんにしましょ」


 今日は奮発してベーコントーストなんだから、とマルゴは笑う。レグルスは頷いて、ナジェを起こしに向かった。


「ねーちゃん、なんでレグルスまだいるの?」


 もしゃもしゃと口を動かしながら、ナジェが問う。マルゴは口の中に入っていたトーストを飲み込み、目を三角にする。


「口にものを入れたまま喋らないの! それからレグルスはお客さまなんだからね」


 ふぁーい、とやる気のない返事がひとつ。それが気に食わないらしく、マルゴは顔をしかめながらナジェに説教を始めた。とは言っても、ナジェはまるで聞く耳を持たずにトーストをもぐもぐやっているし。


「──て、聞いてるの!? ナジェ!」


「ねーちゃん、そういう人のことなんて言うか知ってる? オニババって言うんだよ?」


「お、おにばば!?」


 卒倒しそうになるマルゴの姿に思わず笑いが漏れた。自分でも驚くほどの明るい笑い声に頭は戸惑う。先程まで怒っていたマルゴは呆気に取られてきょとんとしていた。


「……レグルスが、笑った」


 万年お通夜な辛気臭い顔ばかりしていたから、表情筋がこころなしか悲鳴をあげている。それでも、止められなくて。気づけばナジェとマルゴもつられて笑っていた。


 何でもない一日が、ゆるゆると流れていく。それがどれだけか貴重なことか、レグルスは痛いほどに知っていた。こんな日々が続くのなら、続いてもいいのなら、ここに、いてもいいのなら。


 すっかり日が暮れて、黄昏の死んだ夜半。へろへろになったマルゴは仕事から家に帰ってくる。そんな彼女を出迎えて、おかえりなさいと口にしてみる。灯った橙の光で菫色の瞳が瞬いた。


「ただいま」


 これ以上の幸せはないとばかりにわらって。


 罪深い人殺しこんなじぶんにも微笑みかけてくれる人がいる、それだけでよかった。思わず伸ばしてしまいそうな手を抑え込む。マルゴはまだ、レグルスと十くらいも歳の離れた少女なのだから。


「そろそろ俺は帰る。たくさん迷惑をかけたな。もう──」


 来ないから。


 言葉が喉奥に張り付いたまま出てこなくなる。マルゴがレグルスの服の袖を引く。視線を彷徨わせたレグルスの言おうとしていることなんて、マルゴにはお見通しのようだった。


「また、来て。お願い」


 あたし、待ってるから。


「なんでか分からないけどね、あたしね、レグルスの笑う顔もっと見たいな」


 言ってから今更恥ずかしくなってようで、顔を赤らめてマルゴはそっぽを向く。そうしてレグルスは間抜けな顔を晒すことになる。そこそこ長くぽかんとして、遅れて我に返った。


「俺なんかでいいのか?」


 うん、とマルゴが小さく頷いた。いくらか低い彼女の頭を撫でて、レグルスは夜へ踏み出す。


「……じゃあ、また来る」


 それは確かに未来の約束だった。





「マルゴ」


 一週間経って、レグルスは任務の切れ目にフライハイトのクインス通りに足を向けた。マルゴの住むアパートの一室の扉をおそるおそる叩いてみる。もしかしたらマルゴは忘れているかもしれないと半ばで恐れながら。


 ぎぃと開いた扉の向こうで赤毛の少女が笑った。


「来て、くれたのね」


「……ああ」





 蒼く澄み切った空を見た。

 夕影に咲き誇る花絨毯を見た。

 翠の鏡のような湖を見た。

 朝焼けに白む街の端を見た。

 沈む月が照らす波を見た。

 終わるのが惜しい宵を、始まるのが待ち遠しい暁を。


「ねえ、あたし思うんだ。どんなことがあってもこの世界はいつだってきれいな姿で、そこにいてくれるんだ、って」


 どんなにかたちでも、どんなに明日を望めなくなろうとも、いつだって。


 青い花が狂い咲く海辺の草原。絶え間なく吹く海の匂いの風に揺られ、攫われ、青い花弁が吹雪く。ごう、と吹いた一際強い風にマルゴの被っていた麦わら帽子が飛んだ。ぱっと手を伸ばして掴み取る。


「お前がそう言うのなら、きっとそうなんだろうな」


 マルゴの髪にうずもれている花びらをそっとそっと指先でつまんで払う。それから麦わら帽子を被せた。深く被りすぎて前が見えないほどの帽子のつばをマルゴは人差し指で持ち上げる。


 真昼の蒼と陽だまりが何よりも似合う彼女が眩しい。けれど、これからもっと綺麗になっていく少女が、十ほども歳上のレグルスにばかりにかまける理由が分からなかった。


「どうして、そんなに俺によくしてくれるんだ?」


 菫色の宝石みたいな瞳が不満げにそっぽを向く。何か気に障ることを言ってしまっただろうかと自問するレグルスに、マルゴは思いっきり舌を出した。


「……なんで気づかないのよ、ばか」


 知っているのはたぶん一面の青い花だけ。





 ***





 フライハイトの街の中央にある噴水広場をマルゴは歩いていた。働いている服飾店でマルゴの働きが認められたらしく、中心街に出張だ。いつもより身綺麗にして、ちょっぴり化粧もして、お得意様の屋敷で採寸をしてきたその帰り。


 優雅に水を振り撒いて、織り成す波紋すら芸術的に設計された白い噴水に足が止まった。小鳥が水浴びをしている。思わず近づいて眺める。ぼうと視界を横切る小鳥と煌めく水滴と、それから。


 焦げた茶色の髪色が見えたような気がした。


 慌てて立ち上がってマルゴは広場を見渡す。ぐるぐると巡らせる視界で焦げ茶の頭を探し出す。と、同時に地面を蹴った。せっかくの綺麗な服装が砂ぼこりに汚れるのもお構いなしに追いかける。なにも軍服で出歩く軍人は珍しいものではないし、茶色の髪色なんてありふれている。けれど、なぜかマルゴの中には確信があった。


 レグルス。


 心の中で追いかけている人の名前を叫んだ。入り組んだ路地へ入った途端、日差しが遮られて温度が下がる。ひやりとした空気に一度だけ肩を震わせて、あの広い背中を探した。けれど、すっかり見失って、それでも往生際悪く歩き回ってみる。入り組んで暗くなる路地の中、マルゴの耳は聞き覚えのある声を奇跡みたいに拾い上げた。


「……ここまでだ、諦めろ」


「な、何故だ! 何故! わ、わ、私は!」


 必死に震える声で弁明しようとしている男の声が断ち切られる。ただ一度の喘鳴に重い液体のこぼれ落ちる音。物陰からほんの少し顔を覗かせると、やっぱり見覚えのある茶色の髪の男がいた。その足元には男の身体が血の中に沈んでいる。倒れている男の方にも見覚えがあると記憶を探れば、先程訪れた屋敷の主の姿とよく似ていた。レグルスは無表情の頬に飛んだ鮮血を無造作に拭い、頭をマルゴの隠れている方へ動かす。


 ばくばくと口から出てきそうなほど鼓動する心臓を押さえながら、マルゴは路地から逃げ出した。明るい広場に帰ってきたところで嫌な汗は引いてくれない。


 軍人は戦場で戦うのではなかったのだろうか。レグルスのあれはなんだったのだろうか。


 あんな顔をしてあの人は人の命を握りつぶすのだ。


 初めて出会ったあの時も、ひょっとしたらマルゴだってあんな風に血の海に沈んでいたかもしれなくて。


 嫌な考えを頭を振って振り払う。まだ、分からないじゃないかと己に言い聞かせた。何かの見間違えで、あの男はレグルスでないかもしれない。けれど、その言い訳があまりにも苦しいことは頭の奥で分かっていた。





 昼間の晴天が嘘のように、夕方にかけて突然雲が湧いてきた。夜の曇天は重苦しくて押しつぶされてしまいそう。ごろごろと空が唸る。石畳にぽつりぽつりと染みがつき、昇り立つ雨の匂いに街は包まれて溶けていく。曇天の向こう側で紫電が走った。それを合図に雨が堰を切ったように降り出す。街灯の灯りが雨の紗幕に滲んでいく。


 傘を持っていなかったなあ、とずぶ濡れになりながらマルゴは街灯の横でしゃがみ込む。今日は一日中晴れですとかのたまった邸宅のラジオが恨めしい。


 今日はレグルスがやって来る一週間に一度の特別な日。ナジェが寝た後、いつも通り街灯の側で待っている。けれど、まさかこんなに雨が降るなんて。


 昼間見た光景が頭から離れない。ぐるぐると回る思考の中で緋色の海は渦を巻く。


 ざあざあと、ざあざあと、雨が降る。身体中が奥まで雨に濡れてぐちゃぐちゃだった。


「……おそいなあ」


 呟きが強い雨に捻じ切られていく。いつもならとっくに来ている頃合なのに。


 冷たい顔で人を殺めたレグルスを、確かに怖いと思った。こうして待つこともやめようか、ともちょっぴり思った。けれど、マルゴはやっぱり街灯の下にいる。土砂降りの雨に身体の芯まで冷えても構わないと思いながら、ここにいる。あの人を待っている。


「あたし、おかしくなっちゃったのかも」


 ちらと見上げた街灯が霞む。雨はひたすらに降りしきる。この世界にたった一人取り残されたような錯覚。雨はいつもそう。父親と母親の葬式もこんなひどい雨の日だった。けれど、今はどうしてだろう、寂しくない。まばたきをすると、まつ毛に載っていた水滴が転げ落ちた。


 それでもまだ、レグルスは来ない。





 土砂降りの雨が降っていた。傘を差して、レグルスは夜の道を急ぐ。思いがけず標的を発見し、日の照る時間帯に始末をした。夜にかかれば、マルゴの元に行く時間が遅くなる、そう思った。けれど、迂闊だった。あの現場には確かに目撃者がいた。息せき切って逃げていく赤毛の少女の背中が脳裏から離れない。


 赤毛の少女なんて珍しくもない、気の所為だと自分を納得させようとしたけれど、そんなものはただの気休めにすぎないことを知っていた。


 ひどい雨の日に、命を失うことを悟ったあの日と同じ光景が眼前に広がっている。濁流のようになった道の端、傘の隙間から見つけた通りの名前を示すプレート。


 今度こそ。本当に怖がらせてしまったはずだ。そう思えばこの歩みすら無駄な気がする。温かな扉ももう開かないで、雨の中で独り、ぼうと立ち尽くすことになるかもしれない。


 それなのに、恐れながらもこの足は前へ進む。


 任務の後始末と、来ることを躊躇った分だけ遅くなってしまった時間。いつもマルゴが立っている街灯に人影はなくて、やっぱりもう──。


 焦がした砂糖のような褐色の瞳を見開く。手からするりと傘が落ちた。


「マルゴ!」


 街灯の側でうずくまる少女に向かって走る。傘も差さずにずぶ濡れで、氷のように冷え切った少女の身体を、逡巡も置き去りにして掻き抱く。


「……れぐるす、よかった」


 やっときてくれた、と腕の中で吐息混じりにマルゴが呟く。


「……ああ、遅れて悪かった」


 傘を棄てて、レグルスはマルゴを抱きかかえて家に帰った。びしょ濡れの二人は家の中でも水滴を降らせる。マルゴを降ろすために腕を解こうとした動きは、思わぬ妨害にさらされた。


「いや、あたし離れない」


 マルゴがレグルスの首を回した手を少しも緩めない。諦めて抱きかかえ直せば、冷えていてもじんわりと温かい。


「……俺が怖くないのか」


 最初に会った時と同じ質問をした。マルゴはレグルスの肩にうずめていた顔を上げる。菫色の中にある感情に恐怖なんて一欠片もない。熱に潤んだ双眸に宿る心の色は。


「こわくないって言ったら嘘になるわ。でもね、でもね──」


 ──そんなことどうだっていい。


 そう言ってマルゴはレグルスの言葉を奪うように口づけをした。びくりと身体が跳ねる。決して踏み越えないよう固く自分自身を戒めてきた一線を、マルゴはいとも容易く踏み越えた。マルゴの冷たい唇にレグルスの温度ねつが溶けていく。心地よさを振り払うようにレグルスはマルゴを降ろして、後ろに下がる。けれどマルゴがそれを許さない。


「お、れはお前に相応しくない。見たんだろう、俺が人を殺すところを。俺はお前やナジェが考えていたような真っ当な軍人じゃない、俺の仕事は暗殺なんだ。いつか、いつか、マルゴを危険な目に合わせてしまうかもしれない」


 マルゴの顔にかかっている髪をそっと払う。別れ際にいつもそうしてきたように。いつもはマルゴが目を細めて寂しそうに微笑むのだが、今日のマルゴは目を細めて、レグルスの大きな手を捕まえると頬ずりをした。


「かまわないわ。どんなレグルスでもあたしは好き。大好き。あなたが笑うところもっと見たいし、あなたの側にずっとずっといたい」


「……だめだ、だめなんだ、マルゴ」


 これ以上はもう。


 真っ直ぐに好きだと告げる視線の温度に焦がされる。こちらからは踏み越えないと決めた戒めが破られてしまう。薄氷を踏み抜いてゆくほどに容易く、そして這い出ることのできないくらいに深い水底が顔を出す。


「あたしじゃ、だめかな」


 違う、違う、違う。そうじゃないから困るんだ。そう口にしようとして気がついた。もうとっくに手遅れなのだと。


「……後悔しても、遅いからな」


 呟いて、マルゴの細い腰を引き寄せる。目を見開く彼女に声も言葉も呼吸も奪うような口づけを。腕の中でまぶたを閉じたマルゴが愛おしい。つま先からてっぺんまで自分のものにしてしまいたい。大雨でしとどに濡れたワンピースの腰のリボンに手をかけた。


「……いいよ。あたし、ぜったいに後悔しない自信あるもの」


 耳元でマルゴが囁く。家の中まで聞こえていた激しい雨の音すら遠ざかる。お互いの心臓の音はうるさいくらい。雨で冷えた少し低めの体温と夜に溺れていく。






 ──マルゴ、愛してる。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る