ep.005 刻の終わり、惑いの死

「ねーちゃんとレグルスは結婚式、しないの?」


 学校から帰ってきたナジェに問われてレグルスは困った顔を作った。レグルスは椅子に座って裁縫をしているマルゴを見やる。


「もう、ナジェ言ったじゃない。レグルスの仕事の関係上そういうのはできないって」


「でもさあー」


「すまない、二人とも。俺のせいで──」


「だから、レグルスもいちいち謝らないの! レグルスが悪いわけじゃないんだから! それにご近所さんだってお祝いしてくれたし、あたしは十分満足してるわ」


 それに、この子ユーリもいるし。そう呟いてマルゴは少しだけ膨らんだ腹に手を当てて、愛おしそうに優しく撫でた。窓から差し込む柔らかな陽光は慈雨のように、マルゴの髪に降り注ぐ。照らされた微笑みの温度にレグルスは思わず呼吸を止めた。


 いつからか、この小さな家はレグルスの家にもなった。温かな帰る場所、それがあるだけで世界はこんなにも愛おしい。身重のマルゴは、今は体力仕事はやめていて、家でもできる服飾店の仕事だけを請けている。


「レグルスー、あそぼーよ」


「……ええ、またか? さっきも遊んだだろ、お前」


「いいじゃんいいじゃん。せっかくいい天気なんだし」


 返事を待たずにナジェがレグルスの腕をぐいぐいと引っ張っていく。


「しゃーないなー。悪いマルゴ、ちょっと出てくる」


 いってらっしゃーい、と楽しそうなマルゴの声にレグルスは苦笑する。なんだかこの調子で毎回ナジェに引きずられているような。ともかく、そうして真っ昼間にかけっこやらなんやらをして遊びに付き合わされているわけだ。やれやれ、と口では言っているけれど、実際には口元が綻んでいることをレグルスは知らない。ずぶぬれで死にかけていた男はもういない。そして、それでいいとレグルスは心の底からそう思う。





 ***





「レグルス隊長、変わりましたね」


 書類の束を整理しつつ、コーヒーの入ったカップをエルザが傾ける。コーヒーはブラックが正義、が持論らしい。なんでも、砂糖を入れたらコーヒーではなくなるのだとか。と、エルザのコーヒー観はさておき、ダグサムの後を継いで隊長となったレグルスは熱いコーヒーに砂糖とミルクをどばどば投入し、エルザの隣に腰を下ろした。言うまでもないが、エルザの顔は見事に引きつっていた。


「……ああ、自覚はある」


「まさか一番結婚しなさそうだった隊長が真っ先に結婚するだなんて、大穴も大穴ですよ。それに息子さんまでいるんだから。やっぱり結婚すると変わるんでしょうか……」


「さあ……、それは分からないが、俺はあの子に救われた。生きていてもいいんだって教えてもらったから」


 真顔でそんなことを言うと、エルザの頭がぐらりと揺れて机に突っ込んだ。ごん、と重い音がしてから沈黙が落ちる。長い金髪が書類の間を川のように流れている。


「なんなんですか、惚気ですか……」


 呻くように下から声がする。レグルスは訳が分からずにまばたきをした。


「惚気? ……ああ、確かに? で、そういうお前はどうなんだ? 結婚するのか?」


「この流れで聞きます? それ。まあいいんですけど」


 顔を机から引っぺがし、エルザの灰色の瞳はコーヒーの褐色の水面に注がれる。凪いで静かな水面にエルザの顔が鏡のように映っていた。褐色の水面では色なんてほぼほぼ分からない。けれど、それでも少しだけ違和感のある自身の髪色にエルザは溜息を吐く。


「私にはもう息子みたいな存在がいるんです。まあ、歳で考えればギリギリ弟と言った方がいいのかもしれませんけど。その子がいるので、結婚なんて考えられません。……まあ、もうその子に私が会うことはないのかもしれませんが」


「どういう、ことだ?」


 雲を掴むようなエルザの話に首を捻る。エルザはけれど曖昧に笑って説明しようとはしなかった。


「……と、私の話はどうでもいいんです。最近、反政府組織の活動が活発になっているみたいですから、隊長も気を付けてくださいね。隊長は共和国軍の誇る最高の刃なんですから」


「刃、か。それが誰かを守るためのものであったら良かったのに」


 くいと煽ったコーヒーは、掻き混ぜる手間を面倒くさがったせいで、ひどく甘ったるくて胸焼けしそう。レグルスの刃は殺すためだけのもの。決して守るためのものではない。前はそれでいいと思っていた。けれど、今はそんな刃なら必要なんてないとすら思う。


「だが、俺に──」


 できるのか?


 ぼんやりと両の手を見つめた。血で染め上げたこの両手で今更、誰かを守りたいだなんて。もしもレグルスの頭の中を覗き見る神さまでもいるのなら、そんなレグルスを見てせせら笑うのかもしれない。





 けれどそう、きっと、だから。


 だから、レグルスの手は──。


 ──いつだって大切なものを取りこぼす。





 その日はどんよりと空気の重い曇天だった。密に敷き詰められてぎゅうぎゅうになった雲は、見ているだけで息が詰まった。レグルスは無意識に軍服でかっちり固めた襟元を緩める。懐には拳銃、ナイフ。細い路地をすり抜けて行った標的ターゲットを褐色の瞳を尖らせて追う。メリッサ・オルトーという名の女はやたらと逃げるのが上手だった。けれど、そんな追いかけっこももうおしまい。


「あんたは! 国の言いなりでいいのかよ!?」


 メリッサは叫ぶ。レグルスはただその叫びを黙殺する。長い髪の揺らぐメリッサの背中を捉えた。レグルスがナイフを投げる。とすりと軽く柔らかく、けれど深々と銀の刃は背面から彼女の心臓を貫き通す。崩れながら、振り向きながら、メリッサは歪んだ顔で嗤った。


「……ふ、ん、……バカだね、あんた。私は──」


 メリッサがごぼりと口から血を吐き出す。地面に落ちた彼女をレグルスは無表情に見下ろした。心臓をナイフで一突き。それでも十分。けれど、レグルスは銃口すらもメリッサに向けた。殺すのなら、確実に。


「──おとりだよ」


 銃声の前に掠れたメリッサの声が響く。それきりメリッサは動かなくなって、沈黙する。長い髪を血染めにして、苦痛に歪んだ顔で死んでいる。


「待て! 何を!?」


 レグルスは思わず追及しようと声を上げるが、とうに女の身体からは生命の灯火は消え果てていた。念の為に頭を撃ち抜いて、レグルスは走る心臓を抑え込むように息を吐く。


 じりじりと焦げるような嫌な感覚がある。


 上から聞かされた話では、先程殺した女は反政府組織の者だという。彼らは大統領の腹心であるディエゴ・マクハティンをも追っているという話もある。あの問いかけを思い出してもそれは間違っていないだろう。それならば、なぜ、ここで囮が必要なのか。


 立ち去ろうと踵を返し、レグルスははたと足を止めた。


 曇天の下に押し込められて暗い路地。フライハイトの中でも特に貧しい階層の人々が暮らす貧民街スクルータ。無理矢理建てた家々が所狭しと並び立ち、壁に防がれない生活音は騒がしい。視界も悪く、入るのも出るのもそう簡単ではないこの場所に、メリッサが逃げ込んだ理由とは。


 彼女が逃げたのではなく、レグルスを誘い出したとするならば。


 違う、レグルス個人を狙ったのならば。


 共和国最高の暗殺者を直接相手取るのは、それ以上の実力を持つ者でない限り不可能だ。レグルスを直接倒す力がないのなら、取る手段はひとつに絞られる。


「……マルゴ、ユーリ、ナジェ」


 大切な彼らの名前が唇からこぼれて落ちた。はっ、と浅くなる呼吸に胸が上下する。標的ターゲットを始末した、後始末、報告。そんなものはどうでもいい。今まで欠かしたことのないそれらをすべて振り捨てて、レグルスは走り出す。


 決して、失いたくない大事なもの。


 守り抜くと誓いを立てたもの。


 幸せにしてやりたいと思ったもの。


 こんな、人殺しじぶんを愛してくれたもの。




 雲にとざされていても分かるほどに斜陽の光は強い。とろりとした蜜色の光が紅く変わる黄昏時、それがレグルスが家に帰って来ることのできた時間だった。


 血の匂いがする。レグルスにはあまりに嗅ぎなれた鉄錆の、決して良い香りではないはずなのに、いやに鼻にまとわりつく香りはどこか甘くも感じられる。鮮血の匂いを運ぶ風にふとすると意識も攫われてしまいそうだ。


 こんこんと戸を叩く。もしもここに敵がいるのだとしたら、あまりに危険な行為。分かっていた、分かってはいた。けれど、止められもしなかった。返事のない扉を押せば、ぎぃと鳴って開く。いつもならこの微妙に建付けの悪い扉を溜息交じりに眺めるのだが、今はその音すらも怖くてたまらない。


 血の匂いがする。


 血の匂いがする。


 血の匂いがする。


 人の気配のない家は鉄錆の匂いに包まれている。魂が抜けたみたいにレグルスはふらりと足を進める。ぐらぐらと揺れる視界の中で重い足を引きずるように進んだ。爪先が何かを蹴った。マルゴではない。死んだ男に刻まれているのは素人が撃ったようなめちゃくちゃな弾丸の痕。側に落ちている薬莢を見れば、護身用にと家に残した拳銃によるものと断定できた。なら、たぶん撃ったのはマルゴだろう。それなら。


 それなら、ギリギリ逃げ切れた可能性だって──


「──っあ」


 台所の奥、開け放たれた戸棚の扉の先に、撃ち抜かれてあらぬ方向に曲がった細い手が見えた。あちこちに散乱した食器の破片を踏みつけて、戸棚を閉めて……。


「マルゴ……」


 視界がぶれる。緋色に視界が染まる。呼吸が止まる。背筋が凍って、両手両足は鉛の重さになる。動けない。声が出ない。


 だって、そこにいるのは。


 小さな家の片隅で赤毛の娘は、死んでいた。ありえない方向に曲がった右手に、額にぽっかりと開いた風穴に、深紅に染まった服に、肌は信じられないほどに青白い。あんなにもきらきらと輝いていた宝石みたいな菫の双眸はがらんどうと死んでいる。


「……マルゴ、マルゴ」


 ひざまずいて呼んでも唇が開かれることはなく、しんと突き刺すような静寂がこだまを返す。もう二度と、ああ決して、彼女が返事をすることはないのだと知った。目が熱い。ぼやけていく世界の中で手を伸ばす。まだほんの僅かに温かいまぶたをそっと下ろして、軍服の袖で顔に飛び散った血を拭ってやる。眠っているみたいだと、馬鹿みたいにそう思った。


「ユーリと、ナジェ……は」


 嗚咽を呑んで、部屋中を見渡す。二人がいないことに少しばかり安堵して、レグルスは立ち上がった。


「二人を、探してくる」


 マルゴに告げて、レグルスは外に出る。ここから出るとしたら裏口、それからきっと近くの川の方。高架下辺りは身を潜めやすい、とそんな話をしたこともあったっけ。ぱあんと乾いた銃声を耳が捉える。そう遠くない。薄暗いみちを駆けて、間に合うようにと願いを掛けて。


「ナジェッ──!」


 間に合わない、と本能で悟る。既に撃鉄は落ちたあと、崩れ落ちる幼い影を見る。もうレグルスの指先は引金をとっくに引いて、ナジェを撃った男のこめかみを弾丸は貫いていた。崩れていくナジェと赤ん坊が地面に叩きつけられるその前に、転がるように身を投げ出して掬い上げる。ナジェは撃たれる最中であるにも関わらず、守るために赤ん坊をあえて手放して、自らの心臓を差し出したのだと、そうして気がついた。


「ナジェ! ナジェ! 死ぬな! 死なないでくれ……」


 レグルスの哀願にナジェはふっと苦しげに息を吐き出した。


「……ね、え、ぼく、ちゃんとゆーり、まもったよ。へへ、だって、ゆー、りはぼく、の、だいじな、おいだもんね……、だいすき、な──」


 げほっ、と咳き込むナジェの背を撫ぜる。わかった、わかったから、もうこれ以上喋るなというレグルスの言葉を無視してナジェはか細い声で続けた。


「──ねー、ちゃん、と、れぐるすの、こども、だもんね……」


 どうして、そんなに得意げに、誇らしげに笑うのか、レグルスには分からなかった。分かりたくなかったけれど、ナジェのふわふわとした赤毛を優しく撫でた。子猫のように目を細め、ナジェは微かに肩を震わせる。


「……やっぱし、れぐ、るすは、かっこいい、な。ぼく、さ、おっきく、なったらさ、れぐる、すみたいな、かっこ、いい、ぐんじんにさ──」


 その先の言葉を聞くことは能わない。


 ナジェの青ざめた唇はマルゴと同じ、もう二度と開かれない。菫色の瞳を覆い隠したまぶたも二度と開かない。あとは、ただ、温度が、消えていくだけ。欠けて崩れて、おしまい。見下ろしている空はやっぱり曇天だった。陽が暮れて夜のとばりが落ちて、それでも星は一つだって見当たらない。狭いみちの狭い空から見えるものなんて何もない。


 ぼたぼたと、どうしようもなくみっともなく流れ落ちる涙がナジェの冷たい頬を流れていく。それから、こんな状況で図太く眠っていたユーリの頬にも。半分寝ぼけながらユーリがふぇっと声を上げる。


 ぬるい風にレグルスの髪が揺れた。蝋人形のようになってしまったナジェをそっと横たえて、赤ん坊を抱え直す。小さな身体に収められたすぐにでも壊れそうな未熟な命は、父親の腕の中で拍動している。


「泣いてる場合じゃないな、お前を守らないと」


 まだ眠っているユーリを転がっていた木箱の中に隠し、レグルスは拳銃を構えた。どうやら、レグルスが追い付く速度は連中の想像を超えていたらしい。ユーリを人質にする前に追い付いてしまったから、順番が狂ったのだと冷静に思考する。地面に膝をついていた間に集まってきたらしい灰色の男たちは全部で七人。はっとレグルスは鼻で笑った。


「俺をたったの七人で仕留めようと? 笑わせてくれる……。今の俺は、最高に、機嫌が悪いんだ」


 低く、唸るように呟いた。《夜叉オグル》と恐れられる男の纏う気迫は、数的有利にあるはずの彼らを一人残らず圧倒してのけた。抜き身の刃のような鋭利な視線に彼らが竦んだこの瞬間こそがレグルスの支配する時間だ。レグルスはゆらりと動いた。暗闇に銃声が走り抜けていく。まとわりつくような重たい空気もレグルスの速さを削ぐには決して至らない。すべきことは簡単。ただ、愚かしい敵の頭蓋を撃ち抜くだけ。簡単だ、そうレグルスには。


 この手は救うためではなく、殺すためにあるのだから。


 はは、と嗤う。同時に向かって来る男の喉笛をナイフで掻き切った。血を浴びるより先を行く。もっと踏み込んでもう一人を撃ち殺す。


「……それがっ、どうした!」


 それでもいい。それでもいい。ユーリさえ守れればそれでいい。


 殺すための手で最後のひとつくらいは守ってみせよう。マルゴとナジェがくれた機会と時間を無駄にはしない。


 そうして暗闇に静けさが戻ったあと、レグルスはナイフを振り抜いてへばりついた血を落とす。手が汚れていないことを再三確認してから、ユーリをそうっと抱き上げた。確かな命の重みを腕に感じて自然と唇が綻んだ。


 たったひとつだけ、それでも守ったものがあるのなら。


「マルゴ、ナジェ……、大丈夫。俺が、ちゃんと、ユーリを、守り抜いて、みせるから……」


 頬を伝う涙の感触に目を見開く。なぜ、どうして。さっき涙は止めたはずなのに。ぱちりとユーリが目を開いた。ふわふわの焦げ茶の髪の下、丸い菫色の瞳と目が合う。


 それは、マルゴとナジェのふたりと同じ目だった。きらきらと眩しい、宝石のような澄んだ双眸。


 レグルスは幼い光を大切に抱きしめて歩き出す。……振り返らずに。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

薄命の花に慟哭を 斑鳩睡蓮 @meilin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ