ep.003 白銀の遺志、菫の温度

「お前にこれを、預ける。……お前なら、大丈夫だ」


 腕にずしりと男の身体の重さが落ちてきた。止まらない鮮血に汚れた男の手のひらには徽章が載っている。


 ダグサム・ケイ少佐は髭面で強面、酒癖も悪くて酒が入った瞬間手に負えなくなるような男だ。普段はマトモな活動をしているように見えるから余計にタチが悪い。けれど士官学校で埋もれていたレグルスを見つけて導いた上官でもある。暗殺技術をレグルスに教えた張本人。彼の行いが正しかったのか、間違っていたのかは誰にも分からない。


 ダグサムの心臓に深々と突き刺さったナイフをずるりと引き抜く。大柄な男の身体が立っているレグルスとすれ違うように倒れていった。身を虫に食い尽くされた巨木が倒れるような音がした。


「……」


 べったりと両手に付いた血の赤に目眩がする。息を深く吐き出すと、折れたあばらがギシギシと痛みを訴えた。銃創がひりつき、身体中の関節がガタついている。レグルスはダグサムの死体の隣に崩れるように座り込んだ。


 剥き出しの石畳はひやりとしていた。橋の影でレグルスとダグサムだったものは黒の中に溶けている。川が静かに流れる音に耳を澄ました。


「まさか、あんたがマクハティンの首を狙っていたとは思わなかった」


 声が掠れる。レグルスが上から受けた命令は共和国の上院議員であるディエゴ・マクハティンの命を狙う人間を殺すこと。命令通りに動いていたら、いつの間にかダグサムが目の前にいた。殺すべき相手として。


「……なんで、あんたは、俺に命令を守ることを教えたんだ」


 命令を棄てれば、軍人はただの人殺しの身に堕ちる。暗殺任務を請け負うレグルスは、任務を棄てればただの殺人鬼に堕す。そう教えたのは、ダグサムだ。


「……だったら、あんたも」


 ──それくらい、守れよ。


 ゆっくりと立ち上がる。死体に背を向けかけて、視界の隅に白銀の煌めきが映りこんだ。レグルスが受け取らなかった白銀の徽章。いつも、ダグサムの胸の上で星みたいに輝いていた光の正体。今は血溜まりの中で半分曇っていた。嵌め込まれたアクアマリンはすっかり血に汚れてよく見えない。


 受け取りたくない、と思った。


 あんなに綺麗なものはレグルスには似合わない。このへべれけ野郎にも似合っていなかった。


 けれど、つま先を動かそうとする度に躊躇う。溜息を吐いて、レグルスは指先を伸ばした。まだ少しだけ温もりの残る徽章を拾い上げる。血に濡れた手でアクアマリンを拭う。きら、と淡い碧が瞬いた。


 いつか、これが似合う人のために、少しの間、預かるだけだ。


「さよなら」


 死体をずるずると引きずって川に沈める。決して浮かび上がってこないのように鉛を括りつけて。少し離れた場所で事切れている部下も一緒に沈めた。手のひらの血が冷たい水に溶けていく。


 しゃがみこんで口を押さえる。えづいたけれど、出てきたのは胃液だけだった。冷水に頭を突っ込む。びしょ濡れで、血まみれで、傷だらけで、あまりにも惨めな有様で。


 それでも、涙だけは呑み込んだ。


 背負うものがまた増えただけ。大したことはない。自分に言い聞かせて、無理やり立ち上がる。


「──っ」


 どこかへ行きたくて。

 けれど、どこにも行きたくなかった。


 ふらふらとフライハイトの街を歩いた。明けていくだけの夜が憎らしい。叩き壊してしまいたい。光なんて、欲しくない。


 ──殺したくなんて、なかった。


 ぷかりと浮かんだ言葉に愕然とする。心の本当を知ってしまったから。


 どこへこの足が向かっているのかも分からないまま、歩き続ける。こんな時間に出歩く人はいないし、明かりのついた家もない。貧しい人々の暮らす区画に立ち並ぶ家々はやはりみすぼらしい。誰かが取り込み忘れた洗濯物がロープにぐったりとぶら下がっていた。


 まぶたが重い。目が開かない。ずるりと崩れるようにレグルスは深い眠りに落ちていく。


 そして無慈悲に朝はやって来る。





 ***





 一年と半分。それがレグルスとマルゴが別れてから過ぎた時間の長さだ。


 マルゴは伸びをした。ぎいぎいと椅子が叫ぶ。机の上に突っ伏して寝てしまっていたらしい。縫い途中の服にヨダレの跡がべっとりだ。


「う、うわー、これは、ちょっと、不味いわね……。納品しなきゃなのに」


 女手一つで年の離れた弟を抱えて生活するのは、このご時世なかなかに厳しいものがある。日中は近所のパン屋の手伝いを、夜は服屋の手伝いを。余った時間には内職を色々詰め込んで、どうにかこうにか生きている。弟のナジェには良い暮らしをさせてやりたいと思っているけれど、現実はいつもふざけたみたいにバカ高い壁だらけだ。


 ヨダレの付いた布地をとりあえず洗ってこようとマルゴは椅子から立ち上がった。ギギギギ、と椅子が叫び出すから、黙ってなさい、ナジェは寝てるんだから、と小声で叱ってみる。ギイ、と椅子が謝った……ような気がした。


 臙脂色の布地を手にマルゴは窓の外を見る。朝の白んだ光に目を細めた。いつもより少しだけ起きるのが早い。眠気覚ましに風に当たってこようと、布を放り出して玄関に向かう。おんぼろで動きのよろしくないドアノブを押し下げ、あくびをしながら外に出た。


 扉の側に血だらけの男が倒れている。焦げ茶の髪は濡れそぼって、男の顔を隠していた。紺の軍服はやっぱり破れている。男が目を開けば、何色の瞳で自分を見るのか、マルゴは知っていた。


「──レグルス」


 あと、彼の名前も。


 彼の生気のない姿に指先を震わせながら、おそるおそるマルゴは手を伸ばした。頬に触れるとじわりと温かい。ふわりと微笑んで呟いた。


「……もう、ここは病院じゃないのに」


 でも、またここに来てくれたのね。


 孤独で傷ついた狼が選んだのがこの場所であることが、不謹慎かもしれないけれど、マルゴには嬉しかった。しょうがないなあと、ずるずると引きずってレグルスを部屋まで運ぶ。前は何とか寝台まで歩いてもらったけれど、こうも寝こけてしまっては非力なマルゴでは到底持ち上げられない。折りたたんだ布を枕にして、ボロキレみたいな軍服を剥いでから寝かせた。以前のように明らかに塞いだ方がいい外傷が今回は見当たらない。医者でもないマルゴが下手に触らない方がいい。そう判断して、毛布を探すために立ち上がった。





 チチチ、チチチ、雲雀ひばりが鳴いている。まぶたの上から光が突き刺さってくる。硬い床の上でレグルスは目を覚ました。見知らぬ天井に知らない空気と匂いがする。いや、この空気と匂いにはどこか懐かしいような気がした。すぐ傍に人の気配がある。ピクリと動いた手を抑え、もしも何かをするつもりならとっくにやっている、と身体に教え込ませる。視線を動かすと、ばちっと菫色の瞳と目が合った。随分と前に一度だけ会った娘と同じ色だ。


「う、あ、お、起きたか! え、えと、オオカミ!」


 狼狽しきった少年の声が降った。


「ね、ねーちゃんはいないぞ、しっ、仕事行ったからな!」


 腕組みをしてそっぽを向いている少年の赤毛がふさふさと揺れている。レグルスは呆気に取られて思考を停止させた。


「……お前の名前は?」


「ぼくはナジェ・ヴィンスだぞ。ねーちゃんがいない間は、このぼくがおまえを見張ってるんだ。朝起きたら、床でおまえが寝ててびっくりしたんだ。知ってるぞ、前にねーちゃんが言ってたオオカミはおまえなんだな!」


 あの娘はそんな風に自分を呼んだのか。レグルスはふっと唇を綻ばせた。言い得て妙だ。そう思っているうちに、ナジェがレグルスの隣に腰を下ろし、大真面目な顔で質問攻めを始めた。


 オオカミ、おまえはどこから来た!

 オオカミ、おまえ年はいくつだ。

 オオカミ、おまえは何食べてるんだ。やっぱり生肉か、生肉うまいか!?

 オオカミ、おまえは仕事してんのか。ねーちゃんはすごいぞ。パン焼いて服つくって、工場にだって行くこともあるんだ。それでこの部屋のやちんと食べ物とか買ってるんだぞ。オオカミはあれか、えっと、無職ってやつか。

 オオカミ、ねーちゃんになんかしたのか、ねーちゃんあの日からなんか変だぞ。


 思わず特大の溜息を吐いた。何をどこからどう答えたものか、悩ましい。きらきらとした菫色の瞳がすぐ近くにあるから余計に。


「まず……、オオカミっていうのをやめろ。俺はレグルスだ、ナジェ」


「おおおおー! 名前あったんだな! おまえ!」


「いや、普通あるだろ、名前」


「だって、オオカミなんだろ、レグルスは」


「……」


 何も言うまい、ときょとんとした顔をするナジェを見て思う。十歳くらいの子供と言葉を交わすのは初めてだったけれど、案外嫌いではないのかもしれない。それとも、現実逃避の口実にしているだけか。思考を放棄して、天井とナジェと視線を交互に移しながら、返答を続けた。


「出身は共和国南西の街ピルグリム。歳は二十五で、生肉は食ったら腹を壊すから無理だ。あと、無職じゃないからな、俺は。軍で働いてる」


「すっげー! すっげー! すっげー、レグルス! かっけー! 軍人なのか、かっけー!」


 とびきり眩しく菫色の瞳が瞬いた。反対にレグルスの顔は影に沈む。ナジェが想像するような輝かしいものではないのだと、口にはできない。ましてや、自分が卑劣な暗殺者であることなんて。切り替えて最後の質問に答えようとしたところで、レグルスの口が重くなる。言葉が出てこなくなった。


 マルゴに何もしていないと言えば嘘になる。倒れていたレグルスを介抱してくれただけの彼女の首に硝子の破片を当てがった。涙を浮かべて気丈なフリをするマルゴの顔が頭を離れなくなった。けれど、その後に彼女が見せた小さな花が咲き誇るような柔らかい微笑みも離れてくれない。変になったのは、レグルスだって同じなのかもしれない。


 いいや、まさか。


「何もなかったさ、死にかけてた俺をマルゴが救ってくれたんだ」


 ただそれだけ。


 けれど、それなら、どうしてレグルスは今ここにいるのだろう。


「ただいまー、今日は早く帰ってきたわよ」


 陽が傾いて、窓から差し込む光がいなくなる頃、建付けの悪い部屋の扉がぎこちなく開いた。ナジェに訊いたところ、この家はアパートの一室なのだと言う。狭いけれど、生活には困らないだけの設備を何とか備えている。壁に背を預けてぼうとしていたレグルスの隣でナジェがいつの間にか眠っていた。


「ナジェ?」


 パンのはみ出した籠を持ったままのマルゴが顔を出す。レグルスは人差し指を唇に当てた。マルゴの顔がぱっと明るくなって、音を立てないようにしながらレグルスの隣にちょこんと座る。パンの香ばしい匂いがふわと漂った。


「えっと……、久しぶり、になるのかしら」


「ああ、また助けられた。ありがとう」


 マルゴは三つ編みの端っこをくるくると指先に巻き付けてはほどいている。レグルスは窓の方から視線を外さない。しんとぬるい静寂が支配する。


「……ナジェのこと、見ていてくれてありがとう。あの子、学校行かなかったのね」


「俺を見張るためらしい」


 くす、とマルゴは笑った。


「監視対象の隣で思いっきり寝てるのにね」


 あたし、ご飯の支度してくる。そう言って立ち上がるマルゴの背中に声をかける。ギシギシに軋んでいる身体を無理矢理動かしてナジェを寝台に載せた。


「マルゴ、俺はもう行く。……迷惑をかけた、その、すまない」


 なぜ、よりによってマルゴの家の前で倒れたのか。迷惑をかけるだけだと分かっていたのに。あまりにも愚かだ。


 俺は薄汚い人殺しだろう?


 黒い夜の高架下、育ての親のような存在だったダグサムの心臓を突いて殺した。どくどくと両の手を流れ落ちる生ぬるい液体の鉄さびの匂いが、消えていく温度が、声の残響が、一度に蘇る。水のとろりとした独特の匂いすら鮮明で、身体中の傷が悲鳴を上げる。音を立てて崩れ落ちるせかいに凍えるほど恐怖した。


「ぐッ──、あッ──」


 呼吸が苦しい。景色がぐらりと傾いて、レグルスは自身の身体が重力に引かれて崩れていくことを自覚する。


「レグルスっ!」


 パンの甘い匂いがした。籠を振り捨てたマルゴの手が伸びる。伸びてレグルスの肩を捕まえた。一緒に床にぶつかって、レグルスとマルゴは呻く。すぐに離れようと身体を起こすレグルスの服の端っこをマルゴが引いた。


「……いかないで。もうすこしだけ、もうすこしだけでいいから」


 華奢な腕を見る。マルゴは震えていた。思わず伸ばしてしまった右手に動揺する。ふらふらと行き場を失くして宙を彷徨わせて。けれど、やっぱりどうしようもなく止められなくて、レグルスはそっとマルゴの頭に手を載せた。じんわりと温もりが指先から流れ込んで、冷え切った身体を温める。


 駄目だ。そう、頭ではわかっている。


 この温もりに溺れたら、もう二度と前の自分には戻れない。










 ──それでも、こんなに汚い人殺しでも、求めてもいいのだろうか。

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