ep.002 鋼の狼、呵責の傷
手負いの獣は目覚めるといなくなっていた。
弟のナジェと共に擦り切れて薄っぺらい毛布にくるまっていたマルゴだったが、いつも通りの日も登りきっていない時間に目を覚ませばレグルスの姿はどこにもなかった。空っぽの寝台は綺麗に片付けられ、誰も居なかったかのような顔をしている。瀕死の男がいたという証明はどこにもない。
「ねーちゃん、昨日なんで床で寝たのー?」
マルゴの動き出す気配にもう一人も目を開ける。目をこすりながら、十歳になるナジェはよたよたとマルゴの姿を追って、とろんとした目で問いかけた。
「んー、ちょっとね。怪我をした狼を拾ったの。けど、もう行っちゃった」
もぬけの殻になった寝台を眺め、マルゴは呟く。荒んだ褐色の瞳をした獣はもう遠く、マルゴには届かない場所に行ってしまった。破けた軍服すら残っていない。
「森に帰ったの?」
ナジェの赤毛を撫ぜて、微笑む。
「……そうね。いるべき場所に帰ったんだと思うわ」
初めから、交わる道ではなかったのだから。
ふと部屋の隅っこを見やると、マルゴが片付け損ねた水差しの破片が朝日を跳ね返していた。ネグリジェに隠れた右の手首を無意識に持ち上げる。刻まれた鬱血の
***
マルゴがシーツを破いて作った包帯が巻き取られていった。麻酔をぶすりと刺され、空いた穴が、血管が、手際よく縫合されていく。処置は一瞬で終わった。新品の真白の包帯を硬く巻かれ、ぐいと最後に引っ張られて、それから肩を叩かれた。
「終わりましたよ、レグルス中尉」
くすんだ金髪の若い女が微笑む。レグルスは表情を変えずに頷いた。
「すまない、エルザ」
エルザ──エルザ・レーゲンシュタット准尉はレグルスの所属する特殊諜報部隊の隊員で医務官である。特殊諜報部隊はというと、暗殺・諜報など後暗い仕事を請け負う小さな部隊のことだ。その性質上、少人数で動く者が多く、レグルスが顔を知らない人間も存在も知らない人間もいる。
エルザの私室のようになっている診療所(エルザが名付けた)の白い壁をぼんやりと見つめる。棚には薬剤が所狭しと並んでいた。元は物置だったのだが、エルザが魔改造をしたという話だ。
片付けられていく針やピンセットが金属のトレーの上で硬質な音を掻き鳴らす。血に染まった脱脂綿が小さな山を作っていた。
「その包帯、誰が巻いてくれたんですか? 結び目を見るに、どう考えても一人ではできないものですよね」
レグルスの意識は一日前へと引き戻された。死んでもいいと思えた雨の中、冷たい奈落の底へ滑り落ちていく身体を引っ張り上げた少女がいる。それは命知らずの赤毛の娘、綺麗な
「もうこんなことはない」
ゴミ箱へ棄てられていくよれた包帯と同じ。手放して忘れるべき記憶。レグルスは己が何者かよく分かっていた。
「帰還報告をしてくる」
シャツを取ろうと手を伸ばせば、触れる前にシャツが遠ざかる。顔を上げると、エルザがにこにことレグルスのシャツを持って微笑んでいた。
「上官でもこれは譲れません。怪我人は安静にしていてください」
それから抜糸をするまでの五日間、エルザに
「レグルス。傷の調子はどうだ?」
髭ヅラの男が身を乗り出す。ダグサム・ケイ少佐だ。大柄な彼には物置、ではなく診療所は狭すぎて、身体を縮こまらせている。
「もう動けます。先程抜糸が終わりましたし」
エルザの眼光が鋭くなる。立ち上がろうとした動作を中断し、レグルスはダグサムの顔を見上げた。ダグサムが纏う紺の軍服の襟元で白銀が光っている。アクアマリンの嵌め込まれた白鳥の徽章。ハクと持ち主を渾名する、白銀翼徽章。
「そうか。上からお前に任務が来ている。詳細は追って話そう」
「了解です」
***
夏を目前にし、針葉樹林は一層緑を深めていた。吹く風の匂いは草と微かに松の瑞々しい枝葉のもの。鏡のような千草色の広い湖に水鳥が遊んでいる。そして、湖畔に広がるレンガの街は朝日に白く燃える。
帝国領デアグレフ。
レグルスが上から命じられたのは、この地を領地とする帝国貴族ゲルデンシュバイク家当主の暗殺だ。
ゲルデンシュバイクは、帝国の剣と誉れ高いリーゼンバーグ家に次ぐ歴史ある名家である。帝国南西、共和国から見て北西のリーゼンバーグ。帝国南東、共和国から見て北東のゲルデンシュバイク。帝国と共和国の戦線を維持する双璧だ。慎重で穏便なリーゼンバーグ候とは逆に、ゲルデンシュバイク候は苛烈で残虐な人柄で知られる。その上、金を裏へ流して人身売買に手を出しているという調査報告も上がっている。その商品は専ら共和国市民だ。共和国上層部が暗殺命令を下すのも道理だった。
帝国と共和国の国境は戦闘区域を突破する形で越え、帝国軍人へ扮したレグルスと、作戦上のパートナー、グラハム・ブルーメフェルト少尉のふたりは帝国の土を踏みしめた。特殊諜報部隊は基本的にペアで任務に当たるシステムとなっている。人数はもちろん作戦の規模にもよるが、最小単位での作戦命令はレグルスの《
帝国は霧の国とも言われるほどに頻繁に濃霧に覆われる。これは南東からの湿気を含んだ季節風が帝国横を流れる寒流に冷やされるからだ。そうして濃霧の中での列車移動を強いられたわけだが、帝国南西部リーゼンバーグ候の治安の良い領地から(密)入国したため遠回りを要したからである。最短を進みたかったのは山々だが、帝国南東部、共和国との国境は山地で区切られているので仕方がない。
「パートナー、僕で良かったの?」
浅葱色の瞳がレグルスの横顔に注がれる。汽車はもう行ってしまった。駅にはぱらぱらと帝国の民の姿と軍人がちらほら。戦闘区域を突破した時や乗り継ぎの汽車では帝国軍人に扮していたが、今はくたびれた服を着て市民に擬態している。というのも、移動の間は帝国軍人という肩書きは大いに有効だが、これから作戦の詳細な計画を立てようとなるとゲルデンシュバイク候の監視下に入る軍人では不都合が生じるためだ。
「当たり前だろ。俺のことをよく知るのはお前だ」
ぶっきらぼうに言う。グラハムは薄桜の髪を落ち着かなさげに弄っている。抜き身の刃のような瞳と精悍な顔つきのレグルスとは反対に、グラハムは少しだけタレ目で繊細な美しさを持つ青年だった。
「確かに長い付き合いだけどさ、士官学校からだし」
でも僕は《夜叉》に釣り合う実力を持っているわけじゃない。そう言ったグラハムの顔はなんとなくぶすくれている。
「別に昔のよしみでお前を選んだわけじゃない。お前は俺の動き方を知ってるし、索敵能力と作戦立案に長けている。俺に足りないところをすべて補ってくれる優秀な人材だ」
グラハムの浅葱色の瞳を覗いたまま、レグルスはいつもと変わらないぶっきらぼうな口調で口にする。すべて真実だ。
「…………君さ、そういうところ直した方がいいよ」
グラハムは大きな溜息と共に呟くと、そっぽを向いた。髪から除く耳の端がほんのり赤くなっていたのは内緒だ。
「さて、移動するぞ。既にホテルの予約は済んでいる」
「はいはい」
デアグレフの北北東に位置する帝都ソフィリアは霧に覆われた死の街だと聞いている。だから、デアグレフも同じだとばかり思っていたのだが、意外にもデアグレフは帝国にしては解放的な都市だった。
湖畔ののどかな雰囲気に加え、厳しい気候の地域が多い帝国の中でも南部に位置するために過ごしやすい。夏と言えば汗で参ってしまうのが共和国だが、帝国南部は爽やかだ。だからといって、日中日差しがじりじりと刺してくるのは変わらないけれど。
おざなりな荷物検査を掻い潜った二人は、まだ温まっていない涼やかな朝の気配の中、街を歩く。まだ日が南中するまで時間はあるが、市場は既に賑わっていた。ぴんと張った糸のような緊張はあるものの、人々の営みは共和国のそれとさほど変わらない。
目の前で林檎を売っている少女がいた。明るい赤毛が目に留まる。あの娘とはわずかに色合いが違う。マルゴの髪の色はもう少し落ち着いていた気がする。なぜ、思い出すのだろう、と益体もなく考えてレグルスは首を横に振った。
「どうかした?」
レグルスの動きにグラハムは怪訝な顔をする。
「何でもない」
日が沈んだ頃、この街で二番目に高いホテルの一室。テーブルにゲルデンシュバイク候の屋敷の図面を広げ、レグルスとグラハムは作戦開始に向けて最後の詰めに入る。
現在、ゲルデンシュバイク候は屋敷に滞在しているという。前線に出てくることの多いリーゼンバーグ候と異なり、ゲルデンシュバイク候は滅多に屋敷を離れない。その理由はたぷんたぷんに蓄えられた脂肪にあるとかないとか。
「──とはいえ、防衛体制は結構硬いね」
「ああ。兵の巡回の間隙も想定より少ない」
腕を組んでいたグラハムだったが、不意に指を伸ばして屋敷の一角をつついた。
「ここ、セキュリティが甘い。森に面しているし、この館は最近使われてないらしいからかもしれない」
「東の館から周り込めば、侵入のハードルが下がるか。なるほど。だが、それでも屋敷周辺の兵が邪魔だ。隠密作戦だから、できるだけ交戦は避けたいが」
ああ、それならもう手は打っておいたよ、とグラハムの唇が微笑む。けれど、それは張りぼての笑み。長い付き合いのレグルスにだけ分かる微細な違和。そして、その意味も。
ブルーメフェルト家は軍人の系譜だ。男はみな軍に入るのが習わしであり、義務。けれど、士官学校で彼と初めて出会った時、グラハムは軍人にとことん向いていないとレグルスは思った。画家になりたかったんだ、と呟いた彼の顔を忘れることはできなかった。心をどこかに置いてきてしまったような、そんな顔をしていたから。
しかし、本人の気質と気持ちに反し、自らに流れる血を証明する形でグラハムは実力を発揮した。実技も申し分なく、座学も優秀。座学がてんでダメだったレグルスとは真逆だ。そうして、とにもかくにもグラハムはブルーメフェルトとしてのエリート街道爆進中なのだが、現在は彼の部隊を編成するまでの浮いた期間、経験を積ませるという名目で特殊諜報部隊に仮配属されている。
とはいえ。いくら出世コースを走っていようが、心優しいグラハムには軍人は向いていない。今だって、ほら自分の心に嘘をつくために微笑んでいる。
「日中に
デアグレフ市街の地図を見ると、屋敷から数キロメートル離れた距離に倉庫が集まる区画があった。グラハムの視線はそこに固定されたまま動かない。
「……なるほど、武器庫か。騒ぎになるな」
ああ、と心在らずに頷くグラハムにレグルスは目を細める。比較的人死の少ない区画ではある。けれど、それでは彼の憂いを取り除くには足らない。
「作戦開始時刻は二三四五。狼煙が上がるのはその十分前だ」
軍の要員が移動へ向かうのに十分、レグルスたちが屋敷に乗り込むのに十分。完璧な計算だ。
帝国軍に支給される自動拳銃の弾倉を入れ換える。予備弾倉も用意しているが、使う機会はおそらく来ない。無駄弾を撃つ愚かなど、共和国の《夜叉》は犯さない。
夜気に触れ、乾いた風に枝葉が擦れる音に耳を澄ます。暗闇に
「行こう」
黒い空が光った。遅れて轟音が空気を揺らす。ざわりと動いた時間と気配に身を沈め、レグルスとグラハムは森を抜け出した。
電気の消えた窓を静かに破って中へ。いつでも発砲できるようにと拳銃を抜いたまま、しんと静まり返った廊下に転がり込んだ。ここまでは順調。
「上手くいったね。早く終わらせよう」
「待て」
光の差す方向へ歩き出そうとするグラハムの肩を押さえ、レグルスは飛び出した。獣のように肢体をしならせ、軍服の男へ彼の死角から肉薄。左手で男の口を塞ぎ、ごきりとその首を捻った。動かなくなった途端重たくなる男を静かに床に横たえる。レグルスの背後でグラハムが息を呑んだ。
「……殺したの?」
抜き身の刃の冷えきった目が暗闇で鈍く光る。レグルスの瞳も纏う気配も、氷のよう。レグルスが人の形をした別の生き物のようにグラハムの目には映った。まさしく、それは夜叉。
「ああ、任務だからな」
眉をぴくりとも動かさない姿にグラハムは震撼した。
慎重かつ迅速に二人は廊下を進んだ。ギラギラとした悪趣味な壺やら絵画やらを通り過ぎ、本館の最奥へ足を進める。出会う兵士をレグルスが沈黙させ、先へ。しかし、全く気付かれずにいるのも無理な話。
ばたばたと慌ただしく変化する空気を裂いて、レグルスは
扉の向こうに耳をそばだてたが、音はない。しかし、虎穴であろうが入らなければ得るものもない。拳銃の重みを右手に、少しずつ扉を開ける。
ぱあん、と発砲音が響いた。
本能的に振った顔、その頬には銃弾による擦過痕が刻まれる。既に勘づかれていたか。顔を一瞬しかめ、レグルスはするりと部屋の中へ入り込んだ。
「き、共和国の
事前の資料にあった通りの男の姿が目の前にあった。硝煙を引くライフルを握りしめ、赤ら顔を一層上気させている。噂と違わず、腹と尻はご立派。
普段なら、そのまま引き金を引いていただろう。けれど、ひとつだけ気になった。
「あの女とは誰だ?」
答えろ。
銃口を男の脳天に押し付ける。
「ふ、ふん、狼藉者に教える義理はないわ!」
レグルスの唇が歪む。
「そうか」
ばきん、と音を立てて男の手首が見当違いの方向に捻じ曲がった。
「ひっ……! ぎぃ、ぎゃあああああッ! わ、わ、わしは、貴族だぞ!? 由緒正しい帝国貴族だぞ!? 許されると思うのか!? ま、マクシミリアンはどこだッ! なぜ駆けつけぬ!」
マクシミリアンはゲルデンシュバイク候に仕える筆頭の家門のことだ。のたうち回る男を見下ろしつつ、記憶を探り、冷淡に事実を思い出す。
「残念だが、マクシミリアン候は来ないぞ。倉庫で起きたボヤの火消しをしていることだろう。そして、この部屋の外の連中は今頃おねんねしていることだろうさ」
歯と歯をかち鳴らして涙を垂れ流す醜悪な男に、再度銃口を押し付ける。
「もう一度聞く。あの女とは誰だ?」
「……わ、分からない。く、く、黒いドレスを着ていた。あ、あとは顔を隠していた! わしに、わしを、付け狙う輩いると、言って、き、消えたんだ! 本当だ! 信じてくれ!」
随分と必死だな、と冷めた頭で考えた。けれど、もうこの男から得られるものはないだろう。無造作に引き金を引く。乾いた銃声と共にゲルデンシュバイク候は崩れ落ちた。脳天に開いたどす黒い穴から細く血が流れている。屋敷に侵入してから目標を仕留めるのに使った銃弾はたった一発だった。
「レグルスっ! 終わったかい!?」
身体のあちこちを血で汚したグラハムが静かになった部屋に転がり込んだ。動きを見るに、どの傷も浅い。レグルスは小さく息を吐いた。
「レグルス、君がこれをやったの……?」
グラハムが死体を見下ろして呆然と呟く。片腕が捻じ曲がり、恐怖に目を見開いたままぽっかりと口を開けた男の死骸。レグルスはグラハムの方を見ずに頷いた。
「君は! なんで……! こんな殺し方をしなくてもよかったじゃないか! こんな、苦しませるような殺し方を……」
浅葱色の綺麗な瞳がぐらぐらと揺れていた。直視できずに目を逸らし続けるレグルスに、グラハムは踏み込む。
「君は、変わってしまったんだね。一緒にバカをやってた頃の君はもう、いない」
言ってしまった後、深く傷ついた顔をしてグラハムは下を向いた。彼が冷静でないことは分かっていたのに、ひどく苦々しい味がした。レグルスは肩頬を吊り上げ、薄く笑う。
「……そんなもの、お前が見ていた幻想だろ」
そう吐き捨てた時、何かが壊れた音が聞こえたような気がした。けれど。
「──っ」
けれど、顔を上げてみれば、レグルスよりもずっと苦々しい顔をしていたのはグラハムで、泣き出しそうに唇を引き結んだのは彼の方だった。
自分は変わった、のだと思う。
どろりとした泥のような夜の中で生きるうちに。この手を汚す度に。
心の底から笑うことも喜びを感じることも己に禁じた。それだけのことをした。している。任務だと割り切れるほどの達観は持てなかった。
ふと、あの日の少女の言葉が蘇る。
──レグルスが怖がってるのは、人を傷つけることなんだね。
まさか。今だって殺した。目の前の人を傷つけた。
自嘲の笑みを刹那の間浮かべ、レグルスは踵を返す。数拍遅れてグラハムが後を追う気配があった。けれど、それは初めとは違う距離感で。離れた距離は、きっとレグルスが吐き捨てた言葉の刃渡りの長さと同じなのだろう。
「帰ろう、レグルス」
探るような躊躇いに乗った言葉にレグルスは小さく顎を引いた。
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