薄命の花に慟哭を

斑鳩睡蓮

no.404

ep.001 雨の檻、灰の街

 身を切るように凍てついた雨が降っていた。


 雨が石畳を叩く音が連なり、轟々と鳴っている。誰かの号哭のように、激しく太く絶え間なく。電灯の光は紗幕の奥に霞んで、黒い支柱に取り付けられた “クインス通り”と書かれた矢印は泣いていた。


 雨のとばりとざされたフライハイトの街は死んだよう。けれど、どこの窓にも明かりが差していた。一歩先も分からないくらいの雨の中では、頼りない蝋燭ろうそくの光と変わらないとはいえ。


 悪天候に出歩く人間はいないだろうと思われた中、ずぶ濡れになりながら、ひとりの男が足を引きずって歩いていた。男の纏う藍色の共和国の軍服は濡れそぼって色を黒く変じさせている。砂糖を焼いた後のような焦げ茶の髪が顔に張り付く。その隙間から覗いた瞳は褐色だった。


 白い息を吐く。


 冷えきっている身体で息だけが温かい。吐いた息で生まれた雲は、土砂降りの雨に引きちぎられて消えていく。


 宛はなく、どこへ行きたいのかもわからなかった。


 男の脇腹からは血が流れ出している。流れ出す血は雨に溶けて、体温を奪いながら命までもに魔手を伸ばす。身体が死んでいく感覚が手に取るように分かって自嘲した。


 ……思っていたよりもどうってことない。


 それなのに、どうしてまだ歩いているのだろう。氷雨の中になにもかも棄ててしまえばいいのに。今まで、両手ですくえないほどの命を奪ってきただろう?


 ふっ、と足から力が抜けた。男が崩れ落ちる音は掻き消される。耳元で排水溝を轟々と流れる水の音が聞こえる。無防備な身体を叩いて雨は降りしきる。感覚のない指先はもうわずかだって持ち上がらなかった。


 灰色に染まる街の片隅で、ひっそりと呼吸を止めようとしていた男の名前をレグルス・ベルガという。


「……もしもし? 大丈夫?」


 レグルスの顔にかかる雨だけが止んだ。代わりに傘の影が落ちる。ばらばらと鳴り響く傘が雨粒を弾く音。青いワンピースの裾を濡らし、赤毛を一束の三つ編みに結わえた娘はしゃがみ込んだ。


「起きて、こんなところで眠ると風邪を引いちゃうわ」


 微かに目を開けたレグルスには不鮮明な人影が見えるだけ。声も出せず、もう一度目を閉じようとした。


「ダメだってば! ほら、立って。せめて違うところで眠って。あたしの家はすぐそこだから」


 衰弱した怪我人を無理やり歩かせるとは横暴すぎる、とレグルスはぼんやりと思った。けれど、娘の口ぶりからして放っておいてくれなさそうだった。渋々、そして無理やりレンガの壁に手をついて重い身体を持ち上げる。ふら、とよろけた身体を娘が華奢な両手で引っ張った。桃色の傘が石畳に転がり落ちる。けれど、娘は傘には一切目もくれないで歩き出した。


「これであたしも濡れネズミね」


 なぜ、びしょ濡れなのに彼女は楽しそうに笑ったのだろう。




 次に目を覚ましたとき、レグルスは硬い寝台の上にいた。薄っぺらなマットレスは黄ばんではいたが、陽だまりの匂いが染み込んで芳しい。身体の上の毛布も同じ匂いがした。不思議な感覚だ。もう少し、この中でうずくまりたい気分になる。今まで一度だって眠っていたいとは思わなかったのに。


 ばたばたと部屋の外で音がする。巨大ネズミが二匹走り回っているような慌ただしい音だ。けれど、レグルスのいる狭い部屋の前にやってくる気配と共に騒々しい音がぴたりと止んだ。がちゃりとドアノブが音を立てる。


「……はあ、ナジェのヤツ落ち着きがないんだからもう」


 娘のボヤく声に、レグルスは思わず目を閉じて狸寝入りをする。深い理由は特になかった。娘の気配が近づいて、彼女が手を伸ばす。


「──っ!」


 毛布が宙を舞う。寝台横の水差しが割れた。レグルスの手は娘の右腕を掴み、肩へ回して関節を決める。寝台に娘を縫い止めた。白い喉に突きつけようとナイフを探した手が空を切る。代わりに、水差しの欠片、鋭い硝子の破片を掴んで華奢な首筋に添えた。それから、ぱさりと行き場のない音を立てて毛布が床に落ちる。鏡のような水たまりが床にできていた。


「っあ」


 赤毛の娘の喉が上下した。恐怖に見開かれたすみれ色の瞳に涙が滲む。けれど、彼女は涙をこぼすまいとまばたかなかった。


「……怪我、大丈夫?」


 掠れた涙声で娘が問う。無表情のレグルスはそこで初めて彼女の顔を見た。そばかすのある顔は決して美人ではないけれど、愛嬌がある。細っこい身体は何より、血と硝煙の匂いがしなかった。香るのは毛布と同じ陽だまりの匂いと石けんの。


 押さえた肩から震えが伝わってくる。怖いというのなら、なぜ悲鳴を上げない? なぜ逃げようとしない? なぜ──己の命を握り潰そうとしている男の心配をする?


「だいじょうぶ?」


 レグルスの胸中を知ってか知らずしてか、娘はか細い声で問うた。


 弾かれたように娘の腕を離す。手から硝子の欠片が落ちた。パリンと床の上で砕けて、硝子が跳ねる。ふらふらと後ずさりながら、額に手を当てた。目の前の少女が得体の知れない生き物のように思えた。


「お前は誰だ。なんで、俺を怖がらない? なんで俺を助け──ッ」


 傷の痛みに膝をつく。致命傷一歩手前の傷がそう簡単に黙ってくれるわけがない。シーツを破いて作ったであろう包帯が脇腹で血を滲ませていた。


「だからダメだって……! 大丈夫って、訊いたのに」


 娘が眉を逆ハの字にして、レグルスを引っ張る。だが、鍛え抜かれた男の身体はその程度では動かない。だというのに引っ張る手をゆるめないのだから、レグルスの方が折れた。痛みに顔をしかめながらゆっくりと寝台に腰をかける。ギィィ、と歯ぎしりみたいな音を上げて寝台が文句を言った。


「絶対安静なんだからね!」


 さっきまで涙目だったとは思えない。目尻の赤みを除けば。娘は一人と半分ほどの距離を開けてレグルスの隣に座る。先程レグルスがやろうとしたことを理解していないのか、と苛立ちがレグルスの中で渦を巻く。


「なんで俺を助けた?」


 睨視するも、娘はひるまなかった。


「路上で寝ていたからよ。それも傷だらけで。兵隊さんに見つかったら、えと、えっと……」


「拘留所か」


「うん、そこに連れてかれてしまうわ。だって、あなた逃げてるんでしょ?」


 ……一体どこから訂正を始めればいいのだろうか。


 赤毛の娘はものすごく確信に満ち溢れているのだが。


「逃げていたのはあながち間違ってない。だが、俺を追う人間はもういない。この手で殺したからな。その時に受けた傷が深かっただけだ。それに憲兵が俺を見つけたとしたら、所属部隊に帰されるだけだろう、俺は軍人だから」


 殺した、と平坦に言ったとき、娘の肩がびくりと震えた。怖がればいいと思ったけれど、彼女の返答は想像の斜め上をいく。


「……てことは、あの服はキチンとあなたのものだったのね。てっきり、兵隊さんから盗んでトンズラしたんだと」


「お前は一体どんな想像をしてたんだ」


 思わず口から溜息がもれた。付き合いきれない、と目を閉じる。


「ねえ、名前は?」


 それくらい教えてくれたっていいでしょ、と娘が呟く。レグルスはもう一度溜息をはいて、褐色の瞳を細めた。


「レグルス。レグルス・ベルガだ」


 ぼそりと言うと、娘が大きく息を吸う気配があった。探るように視線を向けると、娘は花が綻んだみたいにわらう。


「レグルス、レグルスね。あたしはマルガリッタ。マルガリッタ・ヴィンスよ。みんなはあたしをマルゴって呼ぶの。だから、あなたもあたしをマルゴって呼んで」


 朝露をのせた菫のように輝く瞳が眩しかった。自然とレグルスはマルゴの視線から目を逸らす。その輝きは直射日光と同じだ。見れば目を焼く。夜の中でしか生きられないレグルスと、日の中で生きるマルゴの世界は違う。決して踏み越えることのできない線がある。


「レグルス?」


 黙りこくったままのレグルスにマルゴは怪訝な顔をした。彼女は口を尖らせてレグルスの返事を待つ。裸足がゆらゆら揺れた。


「……俺が怖くないのか?」


 血の染み付いたこの両手。硝煙の匂いの消えない身体。軍属ではあるが、レグルスの専門は暗殺だった。眠りに恐怖を覚えるほどの死を呑んで、安らぎを失うほどに心を殺した。気を緩めることを忘れた身体では、流れる血を知らない年下の娘の命すらも容易く摘み取ってしまう。


「……怖くないって言ったら嘘になるわ。でも、レグルスはあたしよりもずっと何かを怖がってるような気がするの」


「俺が?」


「うん。それが何かはあたしには分からないけど」


 本当に命知らずな娘だ、と思う。《夜叉オグル》の名を持つ共和国きっての暗殺者に向かって、あなたは怖がっていると告げるなんて。


「……マルゴ」


 舌先に音を載せる。マルゴは菫色の瞳を丸くした。その勢いは詰め寄ってきそうなくらいだ。


「あたしの名前、呼んでくれたの!?」


 詰め寄られるとまた命を奪おうと身体が動いてしまう。身体を固くしたレグルスに反し、マルゴは動かなかった。マルゴはふわりと微笑む。


「あたし分かったよ。レグルスが怖がってるのは、人を傷つけることなんだね」


 声が出なくなった。硬直するレグルスを置いてマルゴが立ち上がる。彼女の分の重さが消えて、ほんの少しだけ寝台が持ち上がった。継ぎいだ跡のあるブラウスの袖が目の前を通り過ぎる。ちらと覗いたのは、青紫に染まった白い手首だった。


「……すまない」


 あぶくのように微かな声は弾けて消えた。

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