すっきりとした空。僕は筏の向かう先・・・

 すっきりとした空。僕はいかだの向かう先、東の空を見上げて開放感に浸っていた。

 振り返ってみると、緑の木々に覆われた国境の山並み。そこに切れ目のように入った一筋の渓谷。僕たちはここまで谷底を流れるフレクラント川を下ってきた。

 改めて前方に目をやると、筏の船団。それぞれの筏には大きな積み荷と船頭さんが一人ずつ。最後尾の筏には、僕と父とジランさんが同乗していた。

 フレクラント国を出発したのは今朝のこと。そして今は午後。船頭さんは、今日は水量が多いから流れが速いと言った。速さが嬉しい。速ければ速いほど操縦が楽しい。森林木工組合から臨時に駆り出された船頭さんの口振りはいかにも上機嫌だった。

 数日前、行きは筏と聞いた瞬間、僕は拍子抜けしてしまった。てっきり、大空を飛んで東の山々を越えるのだろうと思っていた。ところが父の説明。

 筏の材料は高級木材。フレクラント国は国内の森林を守るため、原則的に他国へは木材を輸出していない。しかし、今回は十年に一度の通商交渉。手土産の一つとして持参する。

 そんな事情では仕方が無い。それに確かに、川下りは川下りで貴重かつ爽快な経験だった。それにしても、まさかこんなに早く着いてしまうなんて。他国へ行くことがこんなに容易だったとは。

 そう思った時だった。ジランさんがのんびりとした口調で、初めての異国への旅、初めてのエスタスラヴァ王国の感想を尋ねてきた。

 不意のことに僕は驚いた。ジランさんとは初対面。今朝、筏の出立場で挨拶を交わして以降、僕とジランさんの間に特に会話は無かった。父よりもはるかに年長の、いかにも気の強そうな女性。やはり、ジランさんも僕のことを敬遠しているのだろうか。僕はここまでずっとそんな風に思い続けていた。

「フレクラント高原の外に出るのは初めてなんですけど、この景色には見覚えがあるような気がします」

「既視感ですか。良くある話です」とジランさんは頷いた。

「この先はずっと平野で、その向こうは海ですよね」

 その途端、父が制止してきた。

「もうすぐヴェストビークに着く。今は大人しくしていろ」

「それは分かっている」と僕は答えた。

 程なく川幅が広がり、川の北側に入り江が見えてきた。その奥には街。ヴェストビークの船着き場が迫ってきた。船団の前方三分の二は流れに乗ってさらに下流の王都ブロージュスへ、後方三分の一は流れを外れて船着き場へ。船団が二手に分かれ、父とジランさんが上陸の準備を始めた。

「さあ、行こう」

 父はそう声を発すると、筏から飛び上がった。次いでジランさん。僕も急いで背嚢はいのうを背負い、船着き場へ向かって宙を飛んだ。

 川岸には桟橋が並び、それに隣接する陸地はちょっとした広場になっていた。その隅には、荷物を受け取りに来たと思われる人たち。僕たちも広場の隅に着地し、荷揚げの作業を見守り続けた。

 船頭さんが筏に浮揚魔法を掛け、筏ごと広場に陸揚げする。次いで、筏と荷物に掛けられていた硬化魔法を解除する。そのようにして次々に筏が陸揚げされ、そこに街の人たちが整然と群がっていった。

 一見、装いにせよ言葉にせよ、街の人たちは僕たちフレクラント人と大差無いように思われた。しかし道中、父は僕に説明を続けていた。いわく、エスタスラヴァ人と僕たちフレクラント人とでは物の考え方が違う。それは社会制度の違いに起因していると。

 そんなことを思い返していると、すぐそばから「もし」と男性の声が聞こえてきた。見ると、整った身なりの男性。真夏だというのに少々暑苦しく見える服装。

「皆様はフレクラント国通商交渉団の方々でいらっしゃいますか」

 ジランさんが「いかにも」と答えると、男性は安堵したような表情を浮かべた。

「私はエスタスラヴァ王国、西の大公ヴェストビーク家で家令を務めておりますアルフ・トロンギャアンケと申します」

「私はリゼット・ジラン。フレクラント国副大統領、フレクラント国南地方中統領、通商交渉団の代表者」

 ジランさんの名乗りに、家令さんは背筋を伸ばした。

「ジラン閣下。お初にお目に掛かります。どうかお見知りおきを。そして……」

 家令さんの視線が父に向いた。

「私はクレール・エペトランシャ・サジスフォレ。フレクラント国西地方の副中統領、ルクファリエ村の統領です」

「サジスフォレ卿。お初にお目に掛かります。どうかお見知りおきを。そして、そちらのお嬢様は……」

 家令さんの視線が僕に向いた。僕は呆気にとられた。父とジランさんの顔にも困惑の表情が浮かんだ。

「ケイ・サジスフォレ。男です」

 僕の返答に、家令さんは慌てる気配を見せた。

「これは失礼しました。どうかお許しください」

 そんなやり取りをしている間にも荷物の受け渡し作業は順調に進み、早くも広場から人が去り始めていた。

「さて皆様方」と家令さんが声を掛けてきた。「お屋敷まで御案内いたします。すぐそこですので、このまま歩いて参りましょう」

 家令さんが丁寧な所作で方向を指し示すと、ジランさんは笑みを浮かべて鼻で笑った。予想に反して随分とあっさりした出迎え。こういうものなのだろうか。僕はそんな疑問を感じたが、それは黙っていた。

 船着き場を抜けると商店街。僕は初めての光景に目を見張った。この街の建物には石や煉瓦が多用されているようだった。さらにそれ以上に目を引くのは人の数。ここまで華やかに賑わう商店街など見たことがなかった。

「ケイ」

 父の声にハッとした。少し離れた所で父が振り返っていた。慌てて父たちに追い付くと、家令さんが話し掛けてきた。

「ヴェストビークの街はどうです。ここまで大きな街を見るのは初めてですか」

「はい」と僕は率直に認めた。

「それならば良い機会です。ぜひとも街のあり方というものを学んでいってください。ところで、肉屋を覗いておられたようですが、ケイ殿は肉が好物ですか」

「はい」と僕は一応肯定した。

「ケイ殿はおいくつです」

「十二歳です。もうすぐ十三歳になります」

「そうですか。育ち盛りですね。ヴェストビークには様々な燻製くんせい肉が揃っておりますし、どれもこれも美味しいですぞ。ぜひとも試してみてください」

「はい」と僕は愛想を返した。

 燻製肉は目新しくない。生肉の無い方が目新しい。学院で教えられた通り、確かにエスタスラヴァ人の魔法能力は低いのだろう。特に一般民は弱い自己治癒魔法程度しか使えないと言う。硬化魔法を使えれば、状態を固定して損傷や腐敗を防げるのに。

 良く見ると、ヴェストビークの街は規模こそ大きいものの、あちらこちらに牛車や馬車。その景色はどことなく泥臭い。僕たちなら大抵の物は浮揚魔法で飛ばしてしまうのに。

 商店街を貫く大通りを歩き続けてしばらくすると、立派な塀と大きな門が迫ってきた。ようやく、大公家のお屋敷に到着したようだった。

 門を抜けると、綺麗に整えられた庭園、その先には母屋らしき建屋。その大きさに僕は正真正銘驚いた。石作りの三階建て。しかも、二階と三階の窓の位置から考えて、各階の天井は信じられないほどに高いに違いない。

 正面玄関から中に入ってさらに驚いた。これが噂に聞く大貴族のお屋敷。屋内の装飾はどれもこれも精緻、いかにも高級。下手に触れて壊してはならない。そんな風に慎重に階段を上り、廊下を歩き続けると、先頭を行く家令さんが二階のとある部屋の前で立ち止まった。家令さんが扉を軽く叩くと、中から女性の声が聞こえてきた。

 部屋の奥、立派な机の向こう側に女性はいた。艶やかな黒髪、整った顔立ち。いかにも上等そうで機能的な服装。おそらくこの女性が大公様。この部屋は執務室なのだろう。

 家令さんが部屋を後にすると、大公様は椅子から腰を上げて満面の笑みを浮かべた。

「リゼット様。お久し振りでございます」

 その声に惹きつけられるように、ジランさんが前に進み出た。

「アイナも元気そうで。当主の座を引き継いだと聞いていましたが、立派になりましたね」

 僕は唖然とした。これまでとは全く異なり、ジランさんの声は明るく弾んでいた。

「はい。おかげさまでつつがなく過ごしております。それで、そちらの方々は」

 その瞬間だった。大公様の視線が僕に留まった。突然の凝視。僕はわずかに怯んだ。

「アイナ。どうしたのです」

 大公様は我に返ったようにジランさんに目を戻すと、「いえ。何でも」と答えた。

「今回は十年に一度の包括通商交渉。まずは正式に自己紹介をいたしましょう。私はエスタスラヴァ王国、西の大公ヴェストビーク家の当主、アイナ・ヴェストビークです」

 父とジランさんが会釈をした。それに倣って僕も頭を下げた。

「それでは私も」とジランさんが続いた。「私はリゼット・ジラン。フレクラント国の副大統領、フレクラント国南地方の中統領、今回の交渉団の代表者です」

 大公様の顔に笑みがこぼれた。次いで、大公様は「そちらは」と父に続きを促した。

「私はクレール・エペトランシャ・サジスフォレ。フレクラント国西地方の副中統領、ルクファリエ村の統領を務めております。そしてこれは私の息子、ケイです」

 僕が神妙に会釈をすると、大公様も笑顔で頷いた。

「あのう」と僕は切り出した。「飴ちゃん、舐めます?」

 大公様は一瞬、呆気にとられた表情をすると、「いえ」と首を振った。

「今は遠慮しておきます」

 大公様は父とジランさんに目を遣った。

「それでは皆様。早速、会議室の方へ。通商上の問題点の確認を始めましょう」

 そして、僕は独り一行から追い出された。奇妙な違和感。何かがおかしい。何かが間違っている。僕はそんな感覚にとらわれ続けていた。


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