バベルの塔の翁

どですかでん

バベルの塔の翁

 窓から眺める景色には大きなものが映っていて、ひとつがうっすらと白雪の積もっているのらしい富士山、もうひとつがいまだに建設中であるバベルの塔で、兎のキューはいっつも窓辺の小さく改良されたヒマワリの鉢植の隣に丸まってその景色を眺めていた。

 ほかの兎とは違って年がら年中バウンディングを試みているわけではないキューは、その黒ずんだ、しかし動物特有の茶色が混ざってもいる瞳から絶え間なくおよそこの半世紀ほどの間に変ってしまった都市に視線を投げかけている。

 確かにこの都市の異常な発展ぶりには目を見張ることが多い。各国が駐在している六本木界隈などは競争的にも政治的にも意味を持つ経済開発や文明輸入に拍車がかかり、近年は一層激化して、ここ目黒は三田を管理するアメリカ合州国がバベルの塔建設に着手したりロケット事業に手を染めたりしたのだって、さかのぼればそこに起因するのだ。

 ずいぶんと以前に赤色の郵便箱から取り出したトウキョウで一、二を争う新聞のトウキョウ・ポストを読んだときの記憶によれば、バベルの塔建設の理由はイエス・キリストが誕生してからまもなくで二千年に達するからで、まもなくと云ってもまだ十年ほどの余裕があるのにもかかわらず早目に仕上げてしまって、その技術力をひけらかしたり宣伝したりしたいアメリカ合州国政府のもくろみが一目にして見抜けたのだった。

 当然創世記由来のその塔を建設するにあたってはたくさんの反論や批判そしてデモが沸き起って負の象徴だとか政府の横暴だとか云われたものだったが、それらはほぼ無意味に等しかった。

 しかしロケット事業の方はといえば、どちらかと云うとアメリカ管理区域の人びとは好意的な様子。宇宙時代の幕開けを熱望する若い人たちの熱情が後押しとなっているふしがあって、事業は着々と進んでいる。

 そして自身はその若者たちに所属している一人だと思う。

 友人にそのことを明かすと非常に驚かれることのひとつにもなっているが、調布にあるNASA日本支部での設計の仕事はやりやすく、はかどっている。

 そして将来的にはイギリス管理区域にある種子島宇宙センターで大規模的にロケットを打上げる見込み。せっかくだから自身もそれに立ち会おうと考えている。もちろんずっと窓辺にすわってほとんど外に出ないキューも連れて行くのだ。

 兎のキューは父親譲りだが、キューのそのじっとしている習慣も父親の仕事と大いに関係があって、彼はアメリカ管理区域の元神田区すなわち現千代田区で小さな古本屋を構えており、日中机に向って「キング」「すばる」「文藝春秋」などの雑誌を読みふけってお客さんが来たのにも気づかないでいるのに影響されて、キューが景色を眺めふけり始めたのに違いなかった。

 そんな彼は発禁の書を所有している。

 それらはだいたい決って米英中ソによる四ヶ国合同管理に批判的な内容のものだが、もし神保町を巡回する警察隊にでも立入られて見つかれば、事前に発禁処分書籍一覧表は古本屋に限らず本を取扱っているところであれば必ず行き渡っているのだし、それにこの手の本は御上おかみがいい顔をしないことぐらい心得ているはずじゃないのかねと詰問されることは目に見えていた。

 古本屋を構える前すなわち復員したばかりのとき父は三十代で、叔父が経営している散髪屋で理容師として働き始めた。しかしなにしろ戦争が終っていくぶんも過ぎたか過ぎていないかという頃のことだから客入りは少く、ずいぶん苦労したそうだ。

 叔父の話ではアメリカ軍による占領し立ての頃に戦前から銀座に構えていたその店にひとりのアメリカ兵が散髪をしに来たという。

 扉を押して入ってきた背の高い白人に対して最初叔父は戸惑っていたものの、相手が手真似で髪を切ってくれとうながすので普段通りにカットしたのだが、後から判ったことでは、あれはアメリカの軍司令部による日本の民衆の情況じょうきょう調査だったようで、あのアメリカ兵は殺されることを覚悟の上で散髪店の椅子に腰を据えたらしく、というのは叔父がこの白人を敵国の鬼畜米英と認識し手に持ったはさみで抵抗を示したならば日本人はやはり野蛮な人種だということでそれ相応の占領対策を取るつもりだったそうなのだ。

 もちろん先ほども云った通り叔父はまったくそんなことは念頭になく、


「けふ正午に重大放送


國民必ず嚴肅に聽取せよ

十五日正午重大放送が行はれる、この放送は眞に未曾有の重大放送であり一億國民には嚴肅に必ず聽取せねばならない」


 と刷られた朝日の特報を眺めたときも大日本帝國は負けるのだなと前から薄々は勘づいていただけに、いわゆる玉音放送のよく聞き取れぬ声がラヂオから流れ出た時、まわりの人間が嗚咽おえつを漏らしてむせび泣くのを滑稽に感じていたというほどのきもたまの太い冷静な人だったからそれも当然のことだったろう。

 ――しかしそれだけの冷静さを保つことのできた叔父も、見るからに健康的な食生活を送っている雰囲気の肌の白さを感じさせる背の高い白人の現物を初めて見た時だけは、やはり驚きを隠せなかったらしいよ、と家族で卓袱台ちゃぶだいを囲みながら父が云っていたのを思い出す。

 ――あんなに肌の艶がいいのでは、そりゃあニッポンが負けたのは当然だったと感じざるを得ないね、とよく云ってたよ。

 その父がいよいよ足腰も悪くなって、継ぐ者もいないしこれから先の老後のこともあるから、さあ古本屋を畳もうかという時期に差しかかっていたとき、前準備として家族総出で店を整理することになった。もし目ぼしいものがあれば、売払うような物を除いては持って行ってもいいと云う。

 そこで小学生の頃から『吾輩ハ猫デアル』に親しんできたという長男は額縁に入っている夏目金之助の署名入りの書簡を持ち帰ったが、消印からは修善寺の大患以後に書かれたであろうその書簡は売ろうとして売れ残ってしまった物で、優美に整った達筆をよくよく読みこなせばこれが弔辞ちょうじだと判ってなかなか売れなかったのがうなづけるのだった。

 では自身はといえば、実のところ何を貰おうか考えたけれど特にこれといったものが思い浮かばなかった。そのため正直に何も思いつかないと述べたのだが、今さら水臭いことを云って……遠慮するな、とたしなめられて、よし! じゃあ、本当に迷いあぐねているならば、と云われて貰ったのが兎のキューだった。

 しかしキューが父の形見になってしまうとは露知らず、のちになって父を含めての家族全員が恐れていたことがどういうわけか起ってしまった。

 数日かけ、やっと店を片付け終ってシャッターを閉じようとした父は背後に回っていた警察隊にアッと云う間もない一瞬で腕を摑まれてしまったのだ。

 ――おまえが御上に対して楯突たてつく連中を陰で応援していたことは前々からわかっていたさ。だから長期間に渡って店をマークしていたが、長いあいだ難渋していただけあって今回やっとのことで逮捕にぎ着けることができたよ。大人しく御縄になりやがれ!

 ……自分はこの警官の言動からやっと父が発禁書を所有していただけでなく裏機関・闇ルートの中継地点になっていたのだと理解したのだった。

 漠然とその見た目から発禁の書だと思っていたものの中には裏機関から発行された右や左の思想でいっぱいの機関紙があって、古本屋はその販売や祕密ひみつ伝達、はたまた密会等に利用されていたのだ。

 そうすればおのずとキューの意味も判ってきた。

 父がキューを腕に抱えてのれんの奧から現れたあのとき、彼はこう云ったのだ。

 ――こいつはずっと一緒に生活してきた、いわば友達みたいなものだ。しかもサーカスから譲ってもらった、曲藝きょくげいをする母兎の子供。血統がいいのさ。その気になれば母親みたいに藝を仕込ませることだってできる。伝書鳩みたいなこともね。

 だけど、おれも老年だ。手放すのは惜しいが、これからも世話を続けていけるという確信もない。そこでだ、面倒を見てやってくれないか! そうすればおれも余計な心配をせずに済む……

 あのときは気付いていなかったが、今思い起こせばかなり意味深な言葉。

 ……伝書鳩!

 父はもしかするとキューに手紙の伝達の目的での訓練をしたのじゃないだろうか? 真っ白な手紙をたずさえて空を飛んでゆく鳩と違って、小柄な兎はもちろん様々な制約はあるけれど容易に繁みを越えてゆくし人道を避ければ目立つ心配もないから、近場に限っては有効な伝達手段だったろう。

 そして自分はさっそく実験的にキューに手紙を持たせてみることにしたのだ。無論、自身のこの推理が莫迦ばかげているとは頭のどこかで感じてはいたが、なんだか、父の一連の思考が目に見えるようでもあった。

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