1ー3
「あら、貴方って酷いのね」
目の前の鈍くさい芋女生徒は言う。長い前髪と厚い瓶底眼鏡の間から見える銅色は妙に目を惹いた。乱れた髪を直す事なく芋女生徒は笑みを浮かべていた。普通に笑っているはずなのに妖しさの含むその笑みは同い年にしては異様に映る。
「私、貴方が嫌いよ。私達を見ようとしない貴方が一等に嫌い。私達を愛せない貴方は本当に嫌」
妖しげな笑みを浮かべて芋女生徒が述べる言葉は随分と殺傷能力があり、とても初対面の人に向けるモノだとは思えなかった。初対面の異性に数言交わしただけで此程の言葉を貰えば次の瞬間には女性恐怖症となるだろう。しかも、明日の天気を告げるノリで言われたら逆にドツボにはまってしまうだろう。それに加え告げた表情である。嫌悪を露わにしているのならばまだ理解が出来る。怒った表情もだ。だが、芋女生徒が浮かべたのは笑みである。それだけで一縷の望みをかけて冗談なのでは無いかと思い込むのだろう。意味ない事をするモノだ、と、他者を見るかのような感情で思う。あの笑みに何の意図があるのか、考えるのは馬鹿らしい。そもそも、嫌悪の言葉と共に添えられた表情なのだ。それがあまつさえ妖しさを含み、柔らかさをふと感じるモノならば随分と質が悪い。
化野纏、恐らく普段の姿とあの妖しげな笑みのギャップで数多の異性の癖を葬って来たのだろう。
「でも、貴方は関係ないのでしょう? 私がこう言おうとも、何も傷は付かない。本当、嫌なお人。でも、まぁ、それは貴方も一緒ね」
やけに発色の良い唇を尖らせる。その仕草に何処か憶えがあった。何時だか赫の人に連れられて訪れた楼閣に居る女が浮かぶ。その女も拗ねた声と共に唇を尖らせて相手へとしなだれかかっていた。
「勿論だとも、僕だって、そういう貴殿等が一等に嫌いだ」
僕はしなだれかかる纏の体を押し返し言った。放課後の僕と纏以外居ない教室。他が居ないから言えた僕の言葉。茜差す西日。早く帰りたいと切に僕は願うのだった。
クラス長へと自己の意見を述べた後の授業後。本来ならば僕にとってこの時間というのは針に筵であるはずなのだが、僕は自分の所属するクラスに居なかった。今いるのは生物準備室。何故此処に居るようになったのかは少し前に遡る。
自己の意見を述べた時、僕というのは常に時間を注視していた。何分で授業が始まり、その間に何言言えて、間が空かなく追求が無い時間というのを考えた上であの発言をした。つまりは、最初から保身だらけであの強気な態度で僕はクラス長へと挑んだのである。何とも臆病で卑怯といえる手段だろう。全く以て情けない。クラス長と比べたら余りにもお粗末だと言える算段であっただろう。何せ、今現在困っているのだから。あと、数分で授業が終わる。授業が終わればクラス長からの追求が来るだろう。授業前のあの発言についての事が来るのだ。何ともそれを答えるのは面倒が過ぎる。もう既に何故あの時の僕はアレを流せなかったのだろうかと悔いが出始めているのだから何とも無計画の阿呆であると言えるだろう。授業開始時のチャイムを聞いた時の僕の安堵は計り知れない。あの儘、安堵に抱かれて授業を受けたかったのだがそうも出来なかった。目の端に映ったのである。此方に何か言いたがっているクラス長の姿が。その姿が目の端に映り、抱いて安堵は泡となって消えて行く。成程、これは問題の先送りに過ぎなかったのか、と、ひしひしと毒が授業中に体に染み始めたのである。そして完全に毒が回った体と脳で考えるのである。授業続かないかな、と。とはいえ時間は進む。それが理である。授業終了のチャイムがなって僕は少し絶望する。この儘、トイレへと走っても、今隣に座っているのはクラス長。恐らくクラス長が話しかける方がトイレへ向かうより早いだろう。詰んでいると絶望している中、名前を呼ばれる。
顔を上げて誰が呼んだのか見れば、世蛙教師である。教卓がある方の出入り口から世蛙教師が顔を出し僕を呼んでいた。僕の体は自然と動いていた。世蛙教師の方へ足が動く。この時、僕は転入してきてから一番に軽い足取りだっただろう。例え幾重に及ぶ視線に劈かれようとも僕の足取りは変わらない。世蛙教師の元へと付いた僕は何言か言われて教室を後にした。そして世蛙教師に連れられて来たのが生物準備室なのである。
「さて、と、只野経君。よくも、君は私の呼び出しをすっぽかしてくれたね」
赤色系統の色味を含む白とは違う、青白い肌。目を合わせるには余りにも気まずかった。此方へと向けられた言葉が咎める。その内容に心当りがあるから尚更にも気まずく、目を合わす事は出来なく、結局世蛙教師の腕に視線の焦点が当たる。青白い肌に目を合わせながら、此方はどう反応すれば良いモノかと考えあぐねる。生物準備室は終始静かであった。
「ま、確かに、本州から此方に越してきた君に対してあのような呼び出しをするのは不躾ではあったとは思うが、まさか、呼び出してから一週間すっぽかされる何て思いもしなかったよ」
声色に柔らかさと呆れが含まれていた。その声に此方は青白い肌から顔を上げる。目に映るのは苦く笑いながら此方を見詰める世蛙教師と小さな海だった。
小さなヴェールの様に世蛙教師の周りには海があった。幾重にも波が重なり、下に行くほど色合いが淡くなる。一番上の、世蛙教師の頭部にあたる部分の色合いは暗い藍色であった。僕は、とある事情で余り海に近寄る事は無い。正確に言うと余り近づけない。だから、海の色と言えば一つ覚えに青と答えるモノなのだが、あの藍色には憶えがあった。暗い、藍色。あの色は見た事がある。水底の色である。手の届かない、日など遠の先。暗く重い色。
蘇るのは甘い香りとシュワシュワのソーダ。それと、とあるモノの言葉。光があれば青白いと言える、その場では輝いて見える白い肌を纏うモノが此方を捕らえて微笑む。
「此で、怖くないだろう?」
聞こえ無い筈の音が聞こえ、続かない筈の息は続いていた。
唯、口を開ければシュッワシュワのソーダが流れ込み視界からは光が消える。けれど、目は確かに何かを見ていた。様々な情報が錯綜し、僕は其処で学んだ。意外にも水底は寒いのだと。
パンッ、と、手を叩く音がした。
「おーーい、只野経君? 大丈夫かい? 放心している様であったけれども」
その後に声がした。世蛙教師の声である。
嗚呼、やってしまった。それが最初に思った事だった。他者がいるのに過去の出来事が蘇って相手を置いてきぼりにしてしまう。此は、僕の悪癖なのであろう。どうも、異形関連のモノが見えた時に、目の前に居る人を優先せずに見えてはいるが触れられないモノの方を優先してしまう事が多い。しようが無いじゃ無いか。だって、人よりも其方の方が美しく面倒では無いのだから、何て、そんな言い訳をするほど僕は現実を投げ出して等いない。それでも無意識の悪癖は随分と僕自身を困らせるモノではあった。苦々しく、口から途切れ途切れの言葉が出る。
「す、すみ、ません」
また青白い肌へと視線が戻った。どうも、僕は世蛙教師と相性が悪いらしかった。
「只野経君。君は随分と大変な体質をしているみたいだね」
そう、言葉を皮切りにして世蛙教師は話し出す。その声色が此方を咎めるモノを含んで居なかったから目線が上がり世蛙教師の顔を見た。目が合って、世蛙教師はニヤリと笑うとヴェールの天辺に指を差して言った。
「見えているのだろ? これらが」
ヴェールの波が大きく揺れる。大きく揺れた波はうねり、緩やかに僕の足元から浸し始めたのだ。淡い色の碧から始まり、それらは勢いがまし気が付けば僕は水底に居た。
暗い藍の中、世蛙教師と相対している。
甘い匂いがする。息を吸えば、シュッワシュワのソーダが入って来る。噎せる事が無いのはそれが、此方の世界で起きている事では無く、彼方側の現象だから故なのだろう。ふと、足元を見る。僕の座っている椅子の下には並々と海が広がっている。対して世蛙教師の足元には光が差していた。木製の茶色い床。生物準備室の床だった。僕は改めて顔を上げて世蛙教師の顔より少し斜め上を見た。見上げた所はヴェールの天辺。目を凝らせばヴェールの天辺には半径十センチくらいの円があった。嗚呼、成程、あれが海の出所なのか。とぼんやりと思った。
世蛙教師はヴェールを纏っている。海を生成する彼方側だと考えられるヴェールを。
「見え、て、ます」
問われたので答える。世蛙教師は此方側の人である等最初の授業で解っていた事だった。けれど、僕はそれを見て見ぬ振りをした。正確に言えば面倒であった。今更此方側の人を見つけたからと言って嬉しいわけでも無い。僕は此方の言葉で言えば、ホウライさんである。此処には僕以外にも幾数にホウライさんがいる。目の前にいる世蛙教師だってその一人だ。世蛙教師も僕と同じ、ホウライさんである。
でも、違うのだ。
見えている景色がホウライさんで統一されているわけでは無い。僕は気付き易いらしく、同じ筈の夢見型の見る景色と違った景色を見ているらしい。其処で一つナニカが違う。
例えば、ホウライさん同士で見えた景色を話し合う場があると仮定する。其処で何が起きるのかと言えば相違である。口を開けば、間違った事を言う。場に間違った、少なくとも少数である事を言ってしまうのが此方なのである。
僕が過ごしてきた地域では夢見型は特異であった。それ故に、同じ夢見型と判定された人達は仲間意識が強かった。普段、見えていない、と、いう前提を強要されているだけに、見えている事が前提の人の輪というのは特別な場であったと言える。
だからなのか、見えていると前提している故に過剰な程の協調意識があの場には存在していた。
私達は同じ夢見型なのである。味わってきた苦しみも、見えているモノも全て解り合えるモノである。
そう、空気は雄弁に語る。
何て馬鹿らしい。
そう、思ってしまったのが僕の不徳と致す所であり、美点であるとも言える。
此処は、此方が過ごしてきた地域とは違う。帆江瀬ではホウライが身近であり、ホウライさんも少数では無い。けれども、僕には慣れ親しんだ空気があるように感じるのである。それに特段と言った不満があるわけではない。此方は余り興味が無い事なのである。
結局、同じホウライさんだとしても見えているモノが違えば、違ってくるモノだからである。
きっと、世蛙教師だって僕と違ったモノが見えているのだ。
「うん。矢張、君は本当に厄介な体質をしているみたいだね」
ヴェールの下で薄らと見える顔はニコリと笑っていた。世蛙教師の神が揺れる。此の海は静かに波立っていた。
「此から話す事は憶測でしかないし、君を傷つける様な事になってしまったら大変申し訳がない。けれども、この帆江瀬で暮していく上では重要な事であるから、幾つかの質問に答えて貰えないだろうか」
そう、言った世蛙教師は頭を下げた。それと同時に海が無くなり、ヴェールは収縮した。その無くなった海の還る場所を見ながら、此から問われる質問の内容を予想して苦く笑うのだった。その笑いがどう捉えられてたのかは解らない。
この後、世蛙教師は淡々と幾つかの質問を此方へと言うのだった。
「さて、不躾げではあるが、君はホウライさんであるね」
「はい」
「さて、私の上にあるのは何か答えて貰えるかな」
「海を模したヴェールでしょうか?」
「ん? 海だとは思わないの?」
「精巧に出来てはいるとは思いますが、教師、あれが海であるのならば、どれほど良かったでしょうか」
「質問がずれたね。すまない。さて最後だ。この学校にはホウライさん同士で集まる場が存在している。其処ではホウライに対する接し方や、ホウライさん同士での交流があるのだが、君は其処に参加を希望するのかな?」
「いえ」
「そうか、解った。一応、何時行われているかは連絡行くようにしておくから気が向いたらくると良い」
「お気遣い、ありがとうございます」
「此方に質問とかあるかな?」
遠くで授業開始のチャイムの音がする。其方に目を動かせば「大丈夫だよ」と世蛙教師は言う。なら良かったと僕は思う。授業が開始した教室に入り何故遅れたのかと説明する場と言うのは苦行の一つである。しかも、その際には必ずと言って良いほど教室内の注目を浴びる。それが更に苦痛となり、此方の口は言わなければ成らない言葉を言いづらくなるのである。口が回らない。言わなければ終わらない。相手の困り顔。注がれる視線。嗚呼、思い出しただけでも怖気が走る。でも、世蛙教師は大丈夫だと言っていた。だから、本当かどうかは解らないがそれを信じる事にする。
「一つ、しても良いでしょうか?」
僕は此の場を引き延ばす事を選択する。一つ、確認したい事があったからだ。
「一つとは言わずに幾つでも良いのだけれども、どうぞ」
世蛙教師が意外そうな顔をした後、柔らかな目で此方へと質問を促す。細められた目は柔らかく映るのだった。
「此方でのホウライさんの扱いはどのようなものなのでしょうか?」
世蛙教師の目を見据え、途中で噛むことを恐れながら言った事柄は、自分が思った以上にスラスラと口から出てくるモノだった。拍子よく世蛙教師の返答となる言葉が紡がれる訳は無い。少しの、他から見れば間とは言えない空白でさえも今の僕には恐ろしく長く感じる。僕の目は世蛙教師の目を見据えている。見据えているけれども、視覚で得ている情報以外の事に頭がいっているモノだから、映っているモノに対する情報処理が遅れるのである。
僕の質問から間が空いた。その間で僕は早くもらしくも無い後悔をし始めるのである。何故、僕と言う人間は的確な発言を出来ずに、斜め上の事を言ってしまうのであろう? まぁ、それが出来たとしたのならば、僕は今頃大衆の中の一部になっている。つまり、今以上に生き易い状況になっていただろう。今現在みたいに、自分自身で大衆の一部とは考えられずに外れたモノという自覚がある時点でどちらであったとしても大分重症だと言える。この思考は、望んで、特別である大衆から外れた一つの個だとは考えられないのだから随分と卑屈であると自らの事ながら思ってしまう。僕は特別な個では無く、大衆の一部に成り損ねたとんだ出来損ないの個である事を識っている。そんな出来損ないでも大衆に関わりながら暮らしていかねばならぬのが現実。だから、先程の質問は、僕の日常生活にとってはとても重要なモノとなるのだから、幾ら後悔しようともしようがないのである。
僕は脳裏で幾つかのパターンを想像する。此は、空白後の世蛙教師の反応のシミュレーションである。幾つか保険として想像しておけば、どんな事であったとしても一度想像というワンクッションを置いておけば大半の事は恐ろしく感じない。全ては想像通りの予定調和となるので僕はとりあえず考える限りの最も辛い反応を想像する。その際に一歩後ろの嫌な事がカムバックしてくるのだが、今はそれも距離を置く。一通りの想像をし終わった僕は此処でやっと、目の前で見据えている世蛙教師に意識がいく。
目の前に居たのは、柔らかい目の儘、少し呆れを含んだ表情をしている世蛙教師だった。
「お、やっと、帰ってか、只野経君。さて、少し間が空いてしまったが先程の質問の答えを言おうじゃ無いか。準備はよろしいかな?」
その一言で僕は死にたくなるのだから、本当、大衆の中で生きていくのに向いていない。顔には自然と苦い笑みが浮かんだ。兎にも角にも最悪の一択に限るのだった。
「ん? あぁ、気にしなくても良いよ。此方も随分と歯切れの悪い間を与えてしまった事だし。でもまぁ、会話をしている途中で違う事に考えを及ばすのは余り良い癖とは言い難いな。ま、自覚あるようだから、大丈夫かな?
「で、だ。此方でのホウライさんの扱いだっけ? 質問を質問で返すようだけれども、只野経君、本州ではホウライさんはどのように扱われていた?」
にんまりと微笑む世蛙教師の顔を見て、僕は此処で一つ察するのである。何を次に答えれば良いか等、決まり切っている事で、下手に解らない振りをするのは余りにも三流。苦い笑みを更に深くして言葉を紡ぐ。
「特異、でしたね。余り、良い目で見られている事は無かったと思います。周知されているような存在でも無かったので。あと、分断があったとは思います。夢見型と非夢見型の間に」
見据えている目の笑みが深くなる。世蛙教師の頬肉が上がり、柔やかに間を空けずに紡がれた言葉は、余り内容と合っていなかった。
「帆江瀬でも同じだよ、只野経君。ホウライさんと普通の人の間には分断があって、常にホウライさんは好奇の目に晒されている。でもまぁ、本州と違うのは、ホウライさんが見えているホウライが嘘では無くて日常的に存在しているという点だろうね」
「よく、非夢見型の人は受け入れますね。ホウライを」
「まぁ、さ。起こっては居るけど、所詮見えんじゃん。なら、それは無い事ともなるんだよ。あちらさんからすれば、土着的な変な習慣とでも、幾らでも捉える事が出来る。だから、大丈夫なんじゃね? そもそも、彼方は影響を受けにくいから」
「でも、見える人がいるとなれば、無い事もおかしくなるのでは?」
「ん。うん。だからさ、暗黙の了解があるのさ。ホウライ及び、ホウライさんの事は余り深く掘ってはならない。マナー違反になるからって」
「学校で定めていらっしゃるので?」
「んな訳。むしろ、教師側からすれば相互理解を深めて欲しいのが現実よ。見えなくても起こっている事には変わり無いからね。いざという時の対処が必要となるのならば、ホウライの事をある程度知らなければならない事が必須になってくるし。何よりも、見えている側であるホウライさんは同じ人である事に変わりは無い。なら、踏み込まないのが正解なのでは無く、棲み分けた上で知る必要はあるとは思うよ。本当に棲み分けたいのならね。それにさ、今はあくまで、影響を受けにくい現象しか起きていないけど、特異点並みの現象が起きたら、今の状況下で迎えれば、かなりのパニックよ。感受性の精度にもよるけどさぁ、気が狂ったとしても私は不思議に思わんね。で、こんな感じの回答なのだが、満足いただけかな? 只野経君」
解りきっていた事が改めて言葉になって目の前に並ぶと感慨深いモノがある、と、僕はまた悪癖を発動するのだった。けれども、今回は既に学んでいる。苦みでは無い笑みを浮かべて間を空けずに言う。
「ありがとうございます」
と。嗚呼、矢張教室で注がれていた目線と言うのは馴染みのモノと何ら変わりが無いのだと確定する事が出来た。それだけで先程の失態も帳消しになるのだ。薄らと察していた事が自分だけの思い違いでない事が確定出来る瞬間と言うのはどうにも気持ちが良い。独りよがりの被害妄想では無いのだと大義名分が出来たといっても良いのだから。此は。
「所でさ、何か言われの? 只野経君ってさ、多分空気察せられるでしょ。察せられた空気を覆す可能性のある事でも言われたん?」
世蛙教師との会話は続く。僕は特にそれが苦では無かったので素直に質問をした理由を話しだすのである。ふと、脳裏に浮かんだのはクラス長との一幕。浮かべていた笑みの一部が黒くなる気がした。
「いえ、特にと言った事では無いのですが、煙先生と近衛さんに少し励ましていただいた程度なのですが」
「嗚呼、あの二人ね。成程。確かに、あの二人の言葉を聞いた後に置かれた状況に疑問を持ってもおかしくは無いか。そうだね。確かに質問の一つはしたくもなるか。ん、さて、そろそろ授業に戻りなさいな。此方から言える事はこれ以上無いからさ」
僕は黒くなった笑みを隠し、柔やかな笑みを浮かべて頭を下げてから立ち上がる。
「ありがとうございました。失礼します」
片手では無く両手で扉を閉める。その際にも黙礼をして上げた目の端に映ったのは揺蕩う海を模したモノと吸盤を持つ悍ましい触手。それら全てを見ていない様に振る舞いながら此方は扉を完全に閉めて教室に戻るのだった。
「ヘタレ君、ヘタレ君。紹介しますね! 私の友人のマトイちゃんです!」
呼びされた後の休み時間。僕は変わらず隣のクラス長に対して怯えていたのだが、此方の予想とは違いクラス長が此方に話しかけてくる気配は無かった。代わりにグロが爛々と輝く目で此方に小走りで来たのだが、それはしようが無い事だろう。僕が望んだ学生生活はグロと関わった時点で崩れ落ちているのだから、グロが此方を棄てる時までの我慢なのである。これは。とはいえ、グロが此方に近付いてくる際に言っていた言葉が気になった。僕の聞き間違いでは無ければグロは友人という言葉を言っていたのでは無いのだろうか? あの、グロに友人? と、何とも言えない感情が湧き上がるのだが、それはひとまず置いておいて、僕は自分の席から立ち上がる事無くグロの方を向くのと同時に周囲を見渡した。それと同時に注がれている目線にも気を配るのだが、向けられる視線も何も無かった。周囲には、僕が知り得る知識では普通と言える休憩時間が広がっていた。誰かの発言の一言一言に集中している様な張り詰めた空気も、一人の人間によって支配されている空間も其処には無かった。唯、穏やかな僕が知り得る日常が広がっていた。各々の会話に聞き耳を立てる気も起きる筈も無く、僕は此方へと向かってきている非日常に目を向ける。ぶんぶんとちぎれる程に手を振って走ってくるグロとその後ろを三歩下がり慎ましく歩いてきている女生徒が居た。樺色の重苦しい前髪がかかる目元には瓶底眼鏡がかかっており、ふわりと乱雑に整えられているお下げの女生徒が慎ましくグロの後を付いてきていた。
「ヘタレ君、ヘタレ君! マトイちゃんです、これが、マトイちゃんです!」
グロは此方の席の前に付くとそう一気にまくし立てて言う。その際の音量が随分と間違っているモノだから、僕の頭にガンガンと響く。音の大きさだけに意識がいっているモノだから目の前に居るもう一人の存在を認識するのが遅れるのである。
「あらあらぁ、ナオったら、ヘタレ君とかに、私の事話した事があるの? じゃ無ければ、随分と話しが繋がらないわよ、その勢いだけの言葉は」
随分と手厳しい発言がグロへと飛んでいくのが目の前で起こった。樺色の髪を持つ女生徒はニコニコと口角を上げながら片手を方頬に当て軽く首を傾げながら、先程の言葉を言うのであった。瓶底眼鏡越しに微かに猩々緋の色が見えた。あの色は見覚えのある色であって、人の目で見たことが無い色だった。でも、それは僕が知らない事だけの事であって、人であったとしても、赫の人と同じ目の色は持てるのかも知れないと僕は独り心地で考えるのだった。と、また悪癖を発動していれば、目の前の会話は僕を置いて進んでいくのだ。耳に聞こえていた言葉の断片を何とか拾い集める。グロの気の抜けた様な、言葉面だけを追えば気の抜けた表情を浮かべている筈の言葉が先程の言葉の返答となって返る。
「あぁ、してませんでした! うっかり。ヘタレ君! 私、友人居るのですよ! マトイちゃんです! マトイちゃん! マトイちゃんも此が、ヘタレ君! です!」
僕はグロの表情を見る前に一つ強く思った。その名称で他人に紹介するのは辞めろ、と。とはいえ、紹介されたのだから幾ら人と距離を置いてきた僕とはいえ、一つ挨拶程度はする必要があるのだろう。苦い、何ともとれない笑みを浮かべて、口を開き一言。
「初めまして、何て酷い事おっしゃらないで」
初めまして、と、言おうとした言葉は樺色の髪の女生徒によって意味ないモノと変わる。言われた言葉の意味が解せずに固まっていれば、にんまりと樺色の髪の女生徒は笑いながら言葉を重ねる。
「お久しぶりですわぁ、最高で最低の貴方」
瓶底眼鏡から覗く猩々緋の目が孤を描く。やけに赤い唇が毒々しく映り、頬肉が上がり笑みを作り出す。軽く傾げられた首と、口元に手を添えて此方に向けて微笑みながら樺色の髪の女生徒はそう言った。その笑みの浮かべ方と、此方を最高で最低と称するモノに対する心当り等、一人しかいない。ジクジクと膝から下の両足が痛み出す。苦い笑みが崩れ、ぽかりと空いた口から溢れるのは、それでも確信の無い言葉だった。
「ぬ、」
「ごめんなさいねぇ、ナオ。私、垂と積もる話があるのよ。だから、悪いけど、お昼は一緒に食べられないわぁ。本当、ごめんね。今度埋め合わせするわ。さて、最低の貴方、少し顔貸してくださいましね」
そう樺色の髪の女生徒が言うが早いか、此方の袖を掴み引っ張るのである。此方は振り払う事も出来ずに連れられる儘に付いていくのだった。今の休み時間は丁度昼休みだった。だから周りは日常的な空気だったし、幾らグロが声を張り上げようとも気にとめる人は少なかったのだ。僕は片手で自分の昼食を持ち連れられるが儘教室を後にした。その際に注がれる視線に構う余裕は無かった。
とある場にて、僕と樺色の髪の女生徒は向き合っていた。袖を引かれ連れてこられた所が何処にあたるのかは転入してきたばかりの此方にはとんと検討がつかなかった。引かれた袖が離され、相対した瞬間に僕は衝動的に声を出していた。
「足を還せよ」
「無粋じゃありませんこと?」
それは相手も同じだったらしく言葉が重なっていた。互いに言いたい事が重なり不自然な間が出来上がる。その間に対して息を吐き出し、再度言葉を言う。
「いい加減、足を還せ。鵺」
「あら、本当無粋。纏と呼んでくださらないの? 最低な貴方」
僕は目の前に居るモノの正体を知っている。樺色の髪を持ち、猩々緋の目の色の容姿を持つ彼女は人では無かった。数歩後ろで出会ったモノ。その時のアレの姿は女生徒でもなければ、樺色の髪も持っていなかった。唯、印象的な猩々緋の目をギラつかせ此方から一方的に略奪行為をしたアレは、カラカラと嘲笑っていた。此方を嘲る様な嘲笑い方をしていたアレは奪うモノを奪ったら直ぐ様脱兎の如く此方の目の前から消え去っていった。その後逢う事は無く、行方知らずだった。だから、僕はあの時まで、アレの事等気にも留めて居なかったし、正直忘れかけてもいた。けれども、それは違った。あの、猩々緋の目を見て強く思ったのだ。
忘れるわけがない。恋という愚かな理由のみで僕の足を奪い、未だ尚返却していない怪異等一人に決まっている。鵺、僕は化野纏をそう認識している。見る人によって姿を変える猿の顔に狸の胴体、虎の手足を持ち、蛇の尾を持つ、伝承上のそれが化野纏の正体で在り、今現在縛られている姿である。
「貴方って何時もそう、顔を合わせば、足を還せ、還せって、ねぇ、教えてもらいたいものだわ。足が無かったらどうやって王子様の所まで歩いて行くのよ?」
纏は柔やかに笑いながらそう言った。手を口元に添えて、歯を見せる事の無い笑い方は様になって見える。笑いかけられて対して此方はと言えば、思わず苦くない笑いを浮かべてしまう。苦くが無いだけであり、浮かべたのは一般的に失笑と呼ばれるレベルのモノであるが。
「勝手過ぎないか。あくまでも被害者は此方なのだが」
そう、滑るが如く口から言葉を出せば、鼻で笑う声がした。落していた目線を上げれば見慣れた嘲笑う顔をした纏が目の前にいた。
「あら、嫌だわ。本当。貴方、人以外と話せる癖は治っていなかったのね。
「そして、変わらず、人以外とは仲良くやれているのね」
ぬるりと、確実にその言葉は此方の脆い所を刺し殺す。余りにも身に覚えがあるその意味は、此方を再起不能にさせる効力を持っていて、ふと、漠然と思ってしまうのである。嗚呼、結局何ら変わって等いないのだと。僕は、僕で、どうしようも無い儘で、例え、其処にグロが入り込んだとしてもそれが、僕を変える要因にはなりやしないのだと、そう、漠然と解してしまった。だから、浮かべる表情など、苦い、痛みを帯びた笑みでしか無く、それを見詰める纏の目が此方を嘲っていようが僕は何も感じることは無かった。唯、広がるのはどうしようも無い脱力感だった。
「本当に、どうしようも無いわ。貴方は。そうやって、痛みを帯びた苦い笑いで全てを済ましてしまうのだから、本当、嫌になってしまう。グロが可哀想で、本当、余りにも憐れで、可愛くて仕方が無いわ」
毒を含んだ様な妖艶な笑みを浮かべる纏は、変わらず此方を嘲笑していて、其処にグロが加わった所で此方に思う事は特に浮かびはしなかった。此方を刺し殺した言葉を丁寧に咀嚼する。此方を刺し殺した意味を持つ言葉が他に何を指しているのか考えだした所でふと、引っかかる言葉があった。
「纏」
そう、声に出して言えば、嘲る笑みを浮かべていた纏は露骨に表情を変えた。その、変わる様が余りにも見るのが怖かったので此方は爛々と輝く猩々緋の目へと視線を固定した。
「何かしら、最高の貴方?」
「さっきの、言葉の意味って」
「それにしたってさぁ、本当、びっくりしたよね」
此方の言葉と同時に全く違う第三者の声が聞こえてきた。声のする方へと顔を向ければ其処に居たのは見知らぬ二名の女生徒達。女生徒達の沿線上に此方は立っているのだが、女生徒等が此方を見ることは無かった。
「え、あ、只野経君の事?」
「そ、って言うかさぁ、グロちゃんもさ、毎回すっごい事ぶっ込んでくるじゃん」
「ねーー、今回は何だっけ? 虚だっけ? うけるよね。あんな、怪談を信じちゃってさ」
「ほんと、クラス長お疲れ様だよね、毎回さ、グロちゃんを宥める役割を引き受けているんだからさ」
「まじで、それな~~。グロちゃんも毎回よくやるよね。ホウライさんの事を聞くんだからさ」
「ね、マジで、スゴイわ。何でさ、聞けるんだろうね。ホウライさんは、ホウライさんなのにさ」
「敢えて切り込んでいく精神はマジで、賞賛値するわ」
「ね、っていうか、それだったら只野経君じゃね? あのクラス長に、言葉返せたんだからさ」
「確かに」
「クラス長正しいのに、よく言えるよね」
「何だっけ?」
「大した老婆心だっけ」
「うける何それ」
「マジでさ、ホウライさんの考える事解らんわ」
「ほんそれ」
「そういえば、さ」
黒い猫が其処に居た。数日前に見たあの奥行きのある黒ではなく、唯の黒色の猫。あの黒猫の体には煌めくモノは無く、数日前に見た虚猫と比べたらあの黒猫の方がはるかに「猫」という生物に近かった。女生徒達の会話が続くにつれてそれは体を大きくしていき、話題が変わる直前でそれは、顔を割って、女生徒二人を飲み込むのだった。その様はクリオネの捕食行動とよく似ていて、確実に猫で無い事は明らかだった。飲み込まれた女生徒二人は何ら変る事は無く会話を続け、此方とすれ違う。その際に女生徒等が此方を見る事は無かったし、すれ違った時に目が合ったのは、あの黒い猫だった。女生徒等の体からぬるりと出た黒い猫は此方を見据えて
「にゃぁ」
と、鳴いた。女生徒等の背が見えなく無くなった頃、あの、黒い猫はまた女生徒の体へと戻っていったのだった。完全に女生徒等の体が見えなくなってから一つ言葉を吐き出した。衝動的に溢れた言葉は、余りにも知性の無いモノだったが、此が今の僕の本心だった。
「クリオネの様な捕食をする猫なんて嫌だ」
「あら、気が合う。私も嫌だわ」
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