1ー2
「ヘタレ君」
女生徒が此方を呼ぶ。
「ヘタレ君、待って」
女生徒の無垢な漆黒の目が此方を捕らえる。
「ヘタレ君、一緒にやりましょう?」
女生徒は嬉しくも無い愛称で此方を誘う。
「ヘタレ君、もしかして無口ですか?」
女生徒は邪気の無い笑みを浮かべて此方を振り回す。
「ヘタレ君、また明日」
女生徒は確定的でない未来への約束を口にする。
「あ、あぁ、また」
女生徒と確定的でない未来への約束をした。
「ヘタレ君、おはよう」
女生徒が言う。
「どうしたんですか? ヘタレ君。変な顔をして」
女生徒の言葉に苦く笑う。相も変わらず苦笑いを解する事が無かった。
「空気を読む」という言葉がある。空気と聞いて大気中にあるO2を読むのかと素直に考えそうなのは女生徒だろうが、実際は違う。集団の中にある同調圧力を強要する際に使う言葉なのが「空気を読む」である。僕が暮している国は特にこの同調圧力の強要の仕方が特殊らしく回りくどく比喩を使い「空気を読む」と言う。酷ければ「空気を読めよ」と言うのだから生きていく際に必要な空気以外にも空気というのは重要な役割を果たしているのがこの国の特徴の一つである。人は集団で暮している。つくづく忌々しい事なのだが所詮人は人の中なのである。その人の中では当然の如くその場の空気というモノが存在している。その空気を意識しなくとも暮してはいけるが、先程の同調圧力が働くのである。その空気という不確かなモノの為にその中で暮す人は空気を読んで合わせる。顕著といえるのが学校の教室だろう。教室内の空気というのは時に絶対的なモノとなり、教室外は基本的に空気が流れていない空間とも言える。つまりは、教室というモノは宇宙船となり得、空気が無く外で生きていけない人は嫌でも教室内の空気を読み、結局同調圧力に屈するのである。基本的に僕が考えるに高校までに人と言うのは空気を読む事を自然と経験で学ぶのである。だから、一度嫌悪の空気を纏えば、対する相手というのは自然と察して距離を置くか、何故そうしたのか理由を問うのである。
女生徒は異質であった。空気が読めないと言わざる終えない行動を繰り出すのである。僕は一度嫌悪の空気を纏い、拒絶の言葉を音にして紡いだ。だのに、あの女生徒はそれらを全て無視し自己の言いたい事だけを述べて、自己がしたい行動を此方を巻き込んでするのである。空気が読めていない所の話では無い。まるで女生徒だけが違う空気で居るような具合なのである。そんな天衣無縫とも言える女生徒はクラス内でそう言ったキャラクターとして処理されていた。不思議な事なのだが、人と言うのは他人に対してラベル付けみたくキャラ付けするのである。男子生徒が言っていた疑似環境の譚と似ているが人は他人に対して分類分けしてどのような人か色眼鏡で見る傾向がある。それが顕著に出ていると言えるのがあの女生徒だろう。純粋無垢、天衣無縫、傍若無人、それらの言葉で彩られようが結局は「あのコだからしょうが無い」という便利な言葉で片付けられるのである。そうなってしまえば先程言っていた、教室で広がっている空気を読まなくとも免罪符が与えられたも同然の事となるのである。空気が読めなくとも許される。何て、楽な事なのだろうか。羨ましくて成り代わりたいモノだと考えてしまうモノ。
嫌悪を纏い拒絶の言葉を紡いでから僕は女生徒に付き纏われていた。男子生徒の方はと言えば学校案内が終わればあっさりと離れていったというのに女生徒は何かと付けて不名誉とも言える愛称で此方を呼び纏わり付くのである。周囲からの目線というのは暖かいモノ。それに悪意が含まれて居たのならば笑顔で中指を立てている所だが、それが一切無く純粋に女生徒に対しての慈しみが含まれた視線だから思わず親指を立てて下へとやる。まぁ、心の中でだが。
人に対して嫌悪の言葉を紡いだ事は僕は少ない。
当然の事ながら普通に生きていれば他者に対して嫌悪を抱く事はあるだろうが口に出す事は無い。更に加えて僕は人前で顕著に感情を出す事を嫌う。感情を顕著に晒す事は、自己を晒しているのと何ら変わらないのだと思ってしまう。
僕みたいな秘密主義の人からすれば自己を容易く晒す等自殺行為にならない。出来るなら、他者に映る此方は偽りであって欲しい。本当の僕等知っているのは一握りの人だけで良いのだ。
だから、感情を晒すのは嫌なのだ。
「只野経君!」
あの屋上の後、昼休みに入って直ぐの事である。そう、声が降り掛かってくる。その後、此方には女生徒の方を向くのも嫌になるほどのその他多数の視線が突き刺さった。恐る恐ると目を上げて見れば、女生徒が息を切らし紙袋を抱えて此方に近寄ってきていた。わぁ、最悪。と、声に出しても良いのでは? と良からぬ考えが浮かんだのだが直ぐに世間体が赦さないよと笑顔で言う自己が居た。
「お昼食べに行きましょ! お話したい事もあるのです!」
無垢な漆黒が此方を見詰める。此処できっぱりと断るのが此方の安寧に繋がるのだろうが、この場の空気で断るのは有り得ないのが定石。
此方の返答関係無しに女生徒は此方を引きずって行くのだった。
その後も、ずっと、ずっと、女生徒は此方へと駆け寄ってくるのである。
「只野経君」
その一言で始まり次には他愛のない会話が続く。その度に劈く様な視線がセットとしてくるのだから堪らない。あ、これは嫌でしかない。と、自然と思ってしまう。凡やりと女生徒を通してクラスの内情が透けて見えそうで尚更に嫌になる。
此処で一つ手を打たなければ手遅れになる。そう、思った僕は直感の儘に動き出すのだ。
「羽黒さん」
女生徒が話しかける前に此方から声をかける。シンと瞬く間に音がした様な気がした。此方を見詰める女生徒の目は丸くなっており、何かを紡ごうとしていた口は軽く開かれていた。
「悪いんだけど、折角話しかけてもらっても困るんだ。僕は、貴女の望んでいる事を応える事は出来ないよ。だから、僕と話していても面白く無いだろ? 本当に申し訳ないけど、僕に話しかけないでもらえないだろうか?」
シンシンと音がする。此方の視線は女生徒に固定している。だが、見なくても此方の身を劈く様に注がれている視線があるのは解った。それに視線を向ける事は無い。此方が見詰めるのは女生徒唯一人である。話しかけた時から丸くなっていた女生徒の目にまだ翳りは見えない。僕は、女生徒に対して拒絶をした。全く以て身勝手で此方の訳も話もせず女生徒を言い訳にして拒絶を多くの面前で行う。あぁ、行っておきながら何て酷いやつだろうと自己嫌悪が沸き上がる。だが、こうしか無かったという自己憐憫が湧き上がった嫌悪を宥め結果無かった事となる。此方は真顔の儘、女生徒を見据え、見詰めた。小さな口から何を紡がれるのか唯、待つ時間が広がっていた。
「只野経君? もしかして私がホウライの事を聞くのは良いのですか?」
矢張り予想とは全く違う反応が返ってきた。此方はよくも考えずに頷き言葉を紡ぐ。
「良いも悪いも、そんなの個人の勝手だろ。僕が規制する権利何てありやしないんだ。それがどうかした?」
その言葉を紡ぎ終えた頃、劈く様な視線が射貫く様に変わっていくのが解った。此方は内心冷や汗を流す。どうやら、この場の空気の流れを違える事を紡いでしまったらしい。あぁ、と嘆きながらも此方が向ける視線は変わらない。
丸くなっていた漆黒の目が弧を描く。ニンマリと笑う表情は今までに何度か見た事がある気がする。
「じゃあ! 大丈夫です! ヘタレ君が気にすることは無問題ですし! 私は! 気にしません!
「ですから、ヘタレ君。これからも尚よろしくお願いいたしますね!」
そう、不名誉な名称で呼ばれ、手が女生徒グロから差し伸べられる。ニンマリと笑うグロの表情があの碧の目のチェシャ猫とよく似通っている事に僕はここで気付く。あぁ、本当に兄妹だったのか、と、感慨を抱きながら、思い描き目標としていた学生生活が音を立てて崩れ落ちるのを感じた。思いもよらぬ事が起きるのは人生では良くある事であるが、どうやら僕は帆江瀬に越してきて本当についていないらしい。まさか、真性のモノに会うとは誰が思っただろうか。思わず、苦い笑みを浮かべてしまう。余りにも僕が憐れで仕方がない気がしたのだ。
グロに何が響いたのかは全く以て検討は付かない。僕は否定の言葉を口にした。大概の人はそれで察するのである。例え、質問をする許可をだした所で、その質問に答える気は無いと否定しているのだから無駄な事をしないのが普通の人であり、今まで僕が関わってきた人でもある。だが、世界は広い。それに当てはまらない人がいるのだから。第一、グロ曰く、此方の心配は問題無いと言う。違う、僕が気にするし、遠回しにお前と居たくねぇって言っているのだ。頼む、切実に空気を読んで欲しい、と祈った所でグロには届いて居ないのだろう。
「ヘタレ君って、そう言えば、たどたどしい言葉遣いをする時がありますよね? あれはなんなんですか?」
此方の虚しい祈りも届かず漆黒の目は此方の姿を映し出す。気軽に口にする言葉は余りにも鋭利だった。空気が読めないのに其処に何故気付くのだろうか? 人って不思議だね。と、悪癖である一人会話を口に出さずにいれば、きっとこの会話は流れていくだろう。そう、酷い事を考えてやり過ごすのも良いのだろう。けれども、一つ見逃せない事をグロの言葉の中から発見した。
「意味が、解りかねるのだが?」
たどたどしい言葉遣い、を、する、時。まるでそうしない時があるかの様な言い様である。僕という人は不出来な人である。人と会話するのだって一苦労であり、目を合わせながら楽しく談笑する等出来たらそれは赤飯が食卓に並ぶぐらいの快挙なのである。人は苦手な事を放置するタイプと放置するタイプに分かれる。見事に僕は後者にあたる。故に、人と会話するのを長らく避けてきた。ある時、気が付けば、僕は人との会話方法を忘れていた。何て、余りにも笑えやしない経験談である。だからこそ、グロの質問の意図は解りかねるのだ。
だって、僕は、今までまともに人と会話出来ていないのだから。
「え? うぬぅ。なら、大丈夫なんです」
グロの口から出た言葉は意味が解らないモノだった。漆黒の目が瞬き此方から視線を動かす。何となく、グロに気を使われた様な気がしたのが本当に気が悪い。屈辱的と言っても良い様な気がしてならないのだが、きっとそれも僕の思い違いであり、気のせいであろう。今までのグロの行動や言動を考えればそんな事が起きる事は無いのだろうだから。此処でふと気が付いた事があった。何時の間にかグロの事を見知った様な情を抱いて居る自分が居た事である。グロに僕は拒絶をした。でも、グロはそれを気にしなかった。グロは礼を尽くす言葉と共に此からも此方に関わるのだと宣言していた。僕は、此処で気付くのだ。グロという女生徒に此方の領域に侵入されている事を。侵入されているのならば、グロを知る必要性がある。
天衣無縫で情緒がグロテスクな此の女生徒が一体どのような考えを有し、何を起点として行動しているのか僕は知る必要がある。何故なら、グロは僕の領域に侵入したのだから。僕の理想である学校生活は崩された。次にとる行動は崩れた上での安寧を守る事である。
グロという女生徒を改めて認識する。漆黒の目は爛々と輝いていた。
「ヘタレ君、お花見行きませんか?」
グロが此方に侵入して数日。テストの結果が出そろいクラス内では緩んだ空気と此から訪れる春休みに対する期待の空気が蔓延していた。僕は、休みという空白期間を余り好んでいなかった。ぼんやりと何もしない自由の時間があると、浮かんで消えるモノがある。それが余りにも僕に優しく無いから、なるべく何かしらの行動に拘束されていた方が気が楽なのである。その点、学校というのはすごく思考を拘束されるのに適した場である。僕は学校が嫌いな訳では無い。学校の中にある人の輪が嫌いなのである。思考が自由になる。すると、浮かぶのは一歩後ろへの自責の念とたらればだった。何にも染まらない色の髪が揺れる。開かれる目は透き通っていた。情がまだ乗っていない目が此方を映す。それに見透かされた様に思えてならないのはきっと、思い過ぎた事だった。きっと、そうなのである。
「ヘタレ君ってば、聞いていらっしゃいますか? 花見ですよ。花見! 行きませんか?」
グロの再度の言葉で沈んでいた思考が浮上する。目に映るのは変わらず輝く漆黒の目だった。
「あ、グロ、悪い」
自然と言葉が反射的に溢れる。最近グロに対して反射で会話している様な気がしているのだが、考えて会話するのも何処か違う様な気がするので此で良いのだと勝手に結論付けている。
「花見の事ですよ! ヘタレ君! 桜麻寺で花見しましょ。自分が考える一番のご馳走を持ち寄って、センネンサクラの下でお花見しながら食べましょうよぉ」
グロが言葉を続ける。花見、センネンサクラ、色々なワードが飛び交う中此方の口から溢れるのは全く関係の無い言葉。
「仙年香の匂いでもするのかその櫻の樹は?」
ふと、赫の人が纏っていた香の匂いが鼻腔に蘇る。清涼感のある匂いは彼の人が着込む衣装を映えさせていた。
「センネンって香でもあるのですか? 残念ながら違いますよ。センネンサクラは、かつて、この山を住処としていた竜が暴れていたのですが、とある仙人がそれを治めて、竜は石となり、治めた仙人は櫻になったというお伽噺から仙念櫻と呼ばれているのですよ。丁度、学校の裏山の中腹に仙念櫻があって、山の頂上に石竜と呼ばれている大石があるのですよ」
濡れ羽の髪が傾き、疑問で曇っていた目が輝きを取り戻し口からは言葉がテンポ良く紡がれる。紡がれる言葉を聞きながら、目は教室内を見回していた。グロが此方に侵入して数日。注がれる視線は変わらず鋭さを持っていた。まるで、監視をしている様にも感じる視線の意図を此方は敢えて考えていない。
僕の理想は人の記憶に遺らずにひっそりと学校生活を終える事である。けれどもそれは僕が抱える秘密を守る所以の事であって、今、秘密が暴かれグロという爆発物が日常生活に組み込まれた状態なのである。ならば、目立たない事を気にするのはナンセンスであるし、記憶に遺った所で所詮だから? なのである。直接関わらなければ実害は無いし、グロとの輪の中に視線だけを投げ入れる軟弱モノに対して思う事等無い。はっきり言って、僕の人生に関係の無い有象無象の一つに過ぎなかった。その有象無象の中から強引に侵入してきたのがグロという女生徒であるのだが、そろそろグロの言葉に応えなければ何をするのか解らない。聞いていた内容を咀嚼して適当な言葉を口から出す。
「まだ、櫻は咲いていないだろう?」
「今すぐの話しでは無いですよ。そうですねぇ、丁度、春休みの頃には見頃になっていると思いますよ。ね? 楽しそうでしょう?」
解りきった当たり前の答えを返した所でグロの反応は変わらない。間髪入れずに出た言葉は変わらず此方を花見に誘うモノだった。
「良いよ。花見に行こうか」
僕は答える。断る理由も大して無い訳であるし、何よりもグロのこう言った誘いは断らない事を約束していた。花見はきっと、普通の友人間で行われる行動の一つなのだろう。だから、僕は断らない。此方に注がれる視線は変わらない。相も変わらず此方は異物であった。
グロは異物だった。それに気付いたのはつい数日前の事である。
グロが此方に侵入してから直ぐの事である。全てはクラス長の発言からだった。
「羽黒さん、ホウライさんの事は余り……」
その言葉は屋上でも聞いた事があるモノだった。グロはそれに何故? と、黒曜石の鋭さを持ち反撃していた。それがまた目の前で繰り返される。だが、此処で違うのは僕の関心の方向だった。僕の関心はグロへと傾いていた。侵入者であるグロが何者であるのか? という関心があったから。だからこそ、クラス長の発した言葉は僕には何処か異様に映るのだ。そして、周りに広がる空気もそうであった。僕は空気が読める人間である。そして、それに準ずる事を最適解だと考える人でもある。だが、僕は、空気に準じた結果の成れの果ても見た事がある。僕は、空気を読み準じる人を馬鹿だと思っている。
「さて、ヘタレ君。許可も下りた事ですし、早速聞きますが、虚はどのようなモノでした?」
グロはあの発言の後、爛々と目を輝かせ言葉を紡ぐ。僕は、あ、まだ、それを言うのね、と、思いながら、質問に対しては答えない。何故なら、質問の許可はだしたが答え無いと言った。
だから、見当違いの言葉を言う。
「虚って、グロは何処からその情報を知るんだ? 見えてないのに」
僕はよく考えない。グロに対して色々と考えるのは阿呆らしく思っているからだろうか。この会話、一言、一言に注目が集まっているというたいそう立派な思い違いを抱いた所で注がれている視線が此方の身を劈いているのは変わらない。
「あ、ヘタレ君。知らないのでしたっけ? この学校には七不思議がありましてね、その一つにあるのですよ。七、虚へと繋がる扉って」
「へぇ」
「あ、興味が薄い」
「七不思議を信じるの、ね」
「ふぇ、だって、ヘタレ君には見えていたのでしょ?」
「あ?」
「見えていたのならば、有るのでしょ。だから、信じますよ!」
漆黒の目は真っ直ぐと此方を見透す。小さな唇から紡がれる言葉は何時かの自分が聞いたら救われていたかも知れないモノだった。
でも、僕の口から出る言葉は天邪鬼のモノでしか無い。第一、救われたかも知れないのは数歩後ろの僕であって、今の僕では無い。なら、意味は無い。
「よく信じられるな、他人の見えた事なんて」
「うぬぅ、何故そこまでヘタレ君って、疑い深いのですか?」
「いや、グロの方が不思議なんだが?」
「え?」
「だって、目なんて幾らでも幻覚を映すだろう?」
「ふぇ、そうでしょうか?」
「そう、だよ。
声が震えた。何故?
「人は、見たい、モノ、だけを見るし、見えて、いる、はずのモノでさえ、認識次第で無かった事にする。だから、僕が見えていても。それを。証明出来なければ、見えてないも同然だろ。だから、幻覚だ。此は」
グロにとっては、見えない人にとっては。
口から音にならない言葉は僕の本当の音。音になった言葉だって幾分かは本当だ。声が震えていた理由が解った。僕は、僕の意見をグロに対して言ったのだ。グロに対しては初めての事であって、他者に対しては久方ぶりの事だった。嗚呼、と声にならない感嘆の声を上げる。僕は久しぶりに人と関わろうとしていたのだ。
「それでも、私は信じますよ。私が認識できていないだけの問題であって、科学が追い付いていないだけのモノであります。ヘタレ君の認識によって見えているのならば、見え続けているのならば、信頼に値するのです。だって、それだって一つの情報じゃ無いですか!」
グロならば、そう、言うのだろう。そう、確信無く思う。漆黒の目の瞳孔に何故か目が行く。丸い瞳孔は映る景色を反射している。漠然とその瞳孔が無機質に見えた。
グロの言葉から間が空いた。僕には返す言葉が直ぐに浮かばなかった。だから、ゆっくりと考える。間が空いた所で気まずくなるのは普通の人であるが、グロにそれがあるかと言われたら、あの、男子生徒の妹なのである。幾らでも間が空こうが、答えを待つのだから、気まずさ等ナンセンスだろう。僕とグロが相対する。漆黒の目と淀み黒みを帯びた藍の目が合わさる。何から答えるべきなのだろう? そう考えていた時だった。
「羽黒さん、ホウライさんの事は余り……」
天の声が割り込んできた。
天の声の方へと目線を向ければ柔らかな栗色の髪が揺れるクラス長がいた。クラス長の頭には変わらず海月型の笠があり、其処からは薄黄色の天蓋がかかっている。ふと、クラス長のそれに違和感が湧き上がる。澄んだ碧色の海月型の笠を頭に被っている人はこのクラスではクラス長以外では誰も居なく、其処から薄い黄色の天蓋を付けている人も居ない。もしかして、此はクラス長だけの特異な文化なのでは無いだろうか? と、見当違いの事を思い浮かべるがあながち間違ってはいないだろう。転入初日にクラス長が名乗った名前が出てくる。クラス長の名前は外つ国の言葉と此の国の言葉が混ざっていた。故に、此方では知りもしない文化によって身に付けているモノであって、他のクラスメイトはそれを承知した上で何も口に出さないのであろう。ならば、此方が思う事等一つである。それに準じるのみである。正直、何も実害の無い笠も天蓋もどうでも良かった。注視するのは今は其処で無いだろう。割り込んできた天の声事クラス長は何を言おうとしていたのか。僕はグロへと向けていた視線をクラス長へと移すのだった。
「羽黒さん、余りホウライさんにホウライの事を強要して聞いてはいけませんよ。只野経さんが困っていらしているではありませんか」
改めてクラス長が言う。此方二人が視線を向けるまで言葉を紡がなかった事に僕は何となく思う事があった。クラス長へと関心を向けたのを確かにしてから伝えたい事を言う。何とも巧妙な手口である。此の場において話しかけられて無視する等選択肢は無い。だから、普通に其方に視線が向かっていなくとも言葉を言いだせば自然と視線は集まるモノだろう。だが、逆に目線を態々集まるまで何も言わずに留まり待っていると言う行為は、受け取り手側にそれ程までに伝えたい事があるのだと自然に訴えている様に映る。絶妙にとられた間は周りに此から何を告げるのか考える間を与え、先に話しかけた内容を重複する内容はそれ程まで伝えたいのだと印象付ける。嗚呼、矢張クラス長はたいそう対人関係にかけている人だろう。僕はそう、感慨を抱くのだった。
「え? 何故ですか?」
明後日の方向へ感慨を抱いて居る僕に対しグロが抱いた思いは全く違ったモノだったらしい。何時だか屋上で見たあの黒曜石の様な目でクラス長を見据えている。その黒曜石は矢張鋭い。対してクラス長である。変わらず笑みを浮かべている。そう言えば、先程の言葉を言った時の笑みは少し苦みを含んでいた。そして今も含んでいる。嗚呼、此は困っているのだろうか? 彼のクラス長であったとしてもグロの対処は難しいモノなのか。成程、此は勉強になる。何てまたもや明後日の方向へ考えが及ぶ。クラス長の返答までのほんの間。僕は周囲の様子を覗った。目をあくまでもクラス長の方へと固定した儘、意識を周囲へとずらす。其処で、僕は一つ気付くのである。
此処には何処か張り詰めた空気が存在していた。
そう言えば、と、注がれる視線を意識してみれば遠巻きに見ている様なモノへと変わっていた。遠巻きに見て様子を覗っている。そんな視線はまるで安全地帯に身を置き、硝子越しに異星物を見ている、宇宙飛行士の様であった。とある映画のワンシーンが脳裏に過ぎる。実際に僕はその視線を見ている訳では無い。だが、此の場の空気は雄弁にその様を語っている。
「ホウライの事をホウライさんに聞くのはマナー違反ですよ。以前にも、申しあげましたが、ホウライは余りにも不明瞭なモノで此方の精神に与える影響が強いモノと言われています。それが、見えて、直に影響され易いホウライさんに説明を強要する等、ホウライさんの負担が大き過ぎます。
「羽黒さん、確かに貴女はすごく好奇心が強くいらっしゃる。興味を持ったモノに対して説明を求め解を得る行為は間違ってはいません。ですが、思い出してください。貴女が解を請う際には必ず相手が存在しています。その相手が貴女と同じ考えを必ずしも抱いて居る訳で無く、常に此方には図りがたい感情を抱いているのです。
「羽黒さん、貴女は、それを良く忘れていらっしゃる様に見受けられます。
「先程の只野経さんを見ていましたか? 貴女の言葉一つで苦い笑みを浮かべて固まっていらしたのですよ?
「好奇心が抑えられないのは解ります。ですが、もっと、目の前の人へ気を配ってください。貴女だけで此の場は回っている訳では無いのですから。
「何て、老婆心が過ぎますよね。ですが、許していただきたい。私には見過ごす等、出来なかったのです」
そう、言うのが最後にクラス長は笑みをいっそう深くして笑った。苦々しく、困った、と、言わんばかりの笑み。その笑みを見詰めれば見詰めるほど湧き上がるモノがある。知っている。此は、嘔吐だ。
「何故ですか?」
グロは言葉を繰り返す。その言葉で場の空気が動く。またかと言わんばかりの呆れを含んだ空気となり、繰り返し再生される面白くも無いバラエティのネタの如く処理されていく。注がれていた視線が薄れていく。漆黒の目は揺らがない。黒曜石は鋭く煌めいている。
けれども、矢張その鋭さはクラス長の前では無力なのである。
何ともそれが面白く無く。先程のクラス長の高説たる説教が気に食わなく。柄にも無い事が口から溢れ出てしまう。
「本当、大した老婆心ですね!」
目の端に映るのは後少しで授業を開始する針を持つ時計。言葉の次には劈く視線が注がれようとも、僕は笑みを浮かべた。何時もの苦い笑みなんて此処では浮かべない。此処で浮かべるのは一等に良い笑顔。
柔やかに、此という程のない笑みを浮かべて毒を吐け!
見詰めれば見詰めるほど湧き上がっていたモノ。それは嘔吐であり、毒となって吐き出された。口元を手で覆う何て仕草は今はいらない。僕は、勢いの儘失言をした人なんて演じない。正面切って意見を述べる。良く出来たクラス長へと僕は初めて意見を言った。この後の僕が後悔しようとも、今は良かった。
クラス長の言葉が紡がれる前に授業開始のチャイムが鳴る。
僕は最後まで笑みを浮かべていた。流石に手を振るのは止めておいた。
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