1-4

 あの逃げた後の事である。僕は逃げていた。逃げて、逃げて、行き着いた先が屋上だった。冬の寒さが若干残る中、僕は一人息を荒あげていた。屋上の床に座り込みフェンスに背をあずけ空をぼんやりと見詰める。自分がとった行動が不適切であった事等遠に解りきった事だった。けれども、あの状況において逃げる以外に僕は何が出来たのだろうか? 嫌、何も出来やしないのである。所詮、見苦しく逃げるのが良い所。つまり、今、僕と言うのは最善の策の故に逃げてきたのである。息を大きく吐き出す。この後にどうすれば良いのか等、とんと検討が付かない。いっそ事このまま全て終わってしまえば帳尻が合うのにと僕は考えるのだった。


だって、秘密が、秘密で無くなってしまったのだから。


「人の目というのは映している景色を見させている訳では無い事は有名な話だよな」

そう、一人破滅願望を抱いて逃避していると、屋上の扉が開きあの男子生徒達が入ってきた。此方と距離をとると先程の言葉をおもむろに言い出したのである。此方の様子を窺う様に見てくるのが、ホウライについて聞いてきた男子生徒。此方の事を気にもせずに次の言葉を続けようとするのは、あの男子生徒である。此方はどう、反応すれば良いのか解らずに首を傾げて苦く笑う。あの状況の後、僕が、会話に応える精神を持っている等見当違いな事思っているなよと、思いながら、先程の発言の意図が解らない体を装って苦く笑って見せる。唯、よく解らない行動をした阿呆だと思って貰えれば勝手に会話は終わっていくだろうし、呆れて貰えば此方からすれば大万歳だ。苦く笑って、目を泳がせて、手持ち無沙汰になった手を後ろに回し腰の辺りでちょこまかと動かす。

「まぁ、手っ取り早く言ってしまえば、景色なんて此処で処理されたモノが見えているだけに過ぎない。だから、目に映った、受け取った、景色の何割が見えている何か何て、解りもしない事だと言えるよなぁ」

男子生徒は続けて言葉を重ねる。言葉の途中で自らの脳を指指して二三回ノックしていた。此方の事等気にしない強引とも言えるその様を見て僕は表情を変える事は無い。苦く笑って、目を泳がせて、興味なさげに手をちょこまかと動かしている。会話の対象にもならないほどまだ混乱していると映れば此方の勝利。現に片方の男子生徒は此方を労る様な視線を向けている。その様子を見ながら、もう片方の男子生徒を見た。あの男子生徒の黒縁眼鏡から覗いている碧眼は此方の姿を歪める事無く映している。泳がせている目の端に気味悪く笑う僕がいた。死ねば良いのに。

「二人居て机の上の林檎を映している。果たしてその二人の目には同じ景色が見えているのだろうか? 答えはどうなる? 妥当に考えれば同じ景色が見えていて、共有していると考えるだろう。何故なら机の林檎を二人は見ているからである。二人は林檎を知っているから、机の上にあるのは林檎だと見る。

では、前提条件を変えよう。二人の内、一人は林檎というモノを初めて見たとする。そうとなれば二人が見ている景色は同じになってくるのだろうか?」

あの男子生徒は其処で言葉を区切ると此方を見てニコリと微笑むのである。僕はフェンスに寄りかかった姿勢を正す事なく話しを聞いていた。体育座りとなり顔を下に向けて絶え間なく動かしている指へと視線を向ける。話しが続く様であったから、敢えて視線を二人から逸らしていたのだが、あの男子生徒の言葉が、疑問で区切られたから上を向けば、あの男子生徒が此方を見下しながら微笑んでいた。その微笑みは先のチェシャ猫を思い出す。ぞわぁっと軽い憎悪がわき上がり、苦く笑っている此方の表情に皹が入る。それも瞬き、彼方の笑みが深くなったのも瞬き。男子生徒が口を開き始めたのを見てまた下を向く。

「林檎を知っている方をA、林檎を知らない方をBとする。その二人は机の上にある一つの赤い林檎を映し此方で処理し見る。

 Aから見てみれば机の上にあるのは何処にも溢れている赤い林檎でありそれ以外になり得ない。では、林檎を知らないBにはどう見えているのか。

 Bから見てみれば、机の上にあるのは赤い球体である。正確に言うならば、球体では無いが、限りなく円に近いので球体と見るだろう。何か細い円柱状のモノが上へとついているがアレは赤い球体である。

 人と言うのはモノを見る時に手持ちのカードによる形によって認識する。モノの名称もまたしかりだろう。知らなければそれ以上のモノは得られなく其処で止まる。Aは林檎だと認識した上で更に発展して他の事へと思考を繋げていくだろう。対してBは、赤い球体と認識し、興味を持ち何であるのか考え出すか、赤い球体と処理し放置するだろう。

 こうなった時にこの二人というのは同じ景色を見ているのだと言えるのだろうか。共有しているのだろうか? 疑問に思わないか?」

あの男子生徒の言葉が更に加わり積み重なって僕の前に壁が造られていく。男子生徒と此方を区切る壁。区切られて欲しい壁。僕は苦く笑っている筈の口元が引きつる。この壁は唯の言語という記号が積み重なって出来たモノである。見えもしない壁をなぞるように僕は男子生徒が言った言葉を一つ一つ積み重ねる。

「まぁ、所詮この譚は、見えている景色は個人の教養・処理具合で変わり、本当に同じ景色を見ているか等確かめようの無い事だと結論付けられる。機械は嘘を付かないと言って景色を映した所で、その景色を映すのは此方の目であり、処理するのは此方である」

男子生徒は重ねていた譚の結論を述べ始め、其処で区切るのである。一拍置いて口を開き言う。

「だから、誰もが同じ景色を見ている等、ある意味あり得る訳では無い」

男子生徒は譚の結論をあっさりと言った。抑揚を付ける事も無く唯の会話の一部として男子生徒は言う。僕はその結論を拾い上げ積み重ねてきた壁へと付け加える。そうすれば、壁が出来上がる。突然出来た譚の壁。僕には男子生徒の会話の意図も解らないし、解るつもりも無い。だが、見える世界が曖昧だと言おうとも、それが同じだと錯覚しているのが普通であり、悪い事では無いはずだ。だって、僕等は個なのだから、見える景色まで規制する必要等無いのだから。だから、何だと言うのだ。嘘では無いけれども、それを言って何になるのだと言うのだろうか? 僕はそれが解らない。積み重ねた壁の意図は理解出来る事無く唯、其処にあるだけのモノとなっていた。

「さて、前置きが長くなったな。

 そう、更に続けて言う男子生徒の顔はチェシャ猫を彷彿とさせた。にんまりと笑うチェシャ猫。その顔を見て自ら積み重ねて造った壁が悍ましいモノに見え始めたのである。男子生徒の口から言葉が紡ぎ出されるのが余りにも怖く感じた。訳も解らず、男子生徒の口を見上げ動くのに注視する。もう片方の男子生徒の事は無くなっていた。今は唯、あの男子生徒が次何を言い出すのか怖かった。閉じられた口が開かない事を此程望む事は無い。けれども、こんな望み何てしょうも無くて、呆気なく口は開かれ言葉が紡がれる。

「つまりだ、人の見ているモノに確実性が必ずある訳では無い譚であり、人と言うのは意図的に自らの見るモノを選択し、持ち合わせている知識によっては変容させる事が可能である譚でもある」

 壁を造り言葉を積み上げる事に必死になっていた僕の顔の向きは男子生徒の言葉が積み上がっていくほどに壁は高さが増し、何時しか下を向いていた顔は上向きとなっていた。上向きとなり、目にはチェシャ猫のように細められ笑っている碧眼が見えるのである。

「人と言うのは大変便利な生き物であるから、見たくないと思った事や、不都合な事は敢えて見落としていく。それは、自己防衛とも言えるし、無意識下にやっている事なのだから、おかしな事では無い。とはいえ、これはあくまで無意識下の譚である。中には違う場合があるだろう」

徐ろに手を広げて見せた男子生徒の口は止まる事なく言葉を紡ぎ出していく。

「所で何だが、疑似環境という言葉は御存じだろうか? 疑似という言葉を用いているのだから、限りなく対象物に近いモノだと考えられる。では、此処でおける環境というモノは何にあたるのだろうか。まぁ、此処までの流れで解るだろうか、此処でおける環境というのは見えている景色の事である。

 再度言うのだが、人は目を通して景色を映している。映された景色というのは直ぐさまミエルという動作に繋がるのではなく、一度処理される。処理されたモノが見えているモノとなっているのは、同意していただけるだろうか? まぁ、同意している体で譚を続けるが。

 疑似環境とは何だろうかと疑問に思うかも知れない。また或いは知っているのかも知れない。貴殿がどのくらいの知識を有しているか等、今更確認するのも馬鹿らしいから疑似環境についての説明も兼ねて話していく。

 見えたモノを処理する際に人は映ったモノを認識して見る。先程の林檎の譚を覚えているな。知っている形を当てはめてモノを見る。視界に限った譚では無いが知っている知識の上で人は物事を判断する。判断したモノによって造られていった環境の事を疑似環境と呼ぶ。まぁ解り易く言ってしまえば場合によっての眼鏡越しに見ていると考えて貰えば解り易いだろう。

 人と言うのはそうして出来た疑似環境を通してモノを見ていると先程の譚で解るだろう。まぁ、だから疑似環境というのはリアルだけでは無くてフィクションを含むとも言えるだろうな。個人的視点と思考によって成り立っているのだから。

 フィクションを含むと聞いて納得出来ないだろう。例えをあげるとしよう。とある地域でおこっている戦争について譚を全く違う地域に住むAという少女が新聞によって知ったとする。その時に何万という軍隊をAは明確に思い浮かべる事が出来るだろうか? 否、出来ないだろう。Aの頭には漠然と戦い合っている主将クラスの人物が一対一で浮かんでいるだろう、まぁ、言ってしまえば、所謂中世の戦闘風景が広がっている。では、何故こうなるのかと言えば、中世の戦い方法はぼんやりとイメージとして知っていたが、今現代の戦い方法等知っていないからこうしたある意味違うイメージがおこっているのであり、Aが持っているだけの知識で造られる疑似環境というのはこういう作用を起こしそれがフィクションとなる。あくまでも、Aが浮かべた、もしくは見たモノは疑似環境故のモノである。

 つまりは、リアルとの誤差が生まれ出す事に繋がっていく。この譚を広げていくのも気分が良いんだが、今回聞きたいのは違う」

男子生徒は言葉に間を空けると、広げていた手を下ろし、チェシャ猫のように笑う顔を変え、全てを見透かしているような碧眼で此方の目を見据えるのである。

「長々と話していて詰まらないだろうが、此処でやっと本打ちだ」

見透かすような碧眼は楽しそうにその言葉を紡ぎ言う。本打ちという嫌な言葉を積み重ね、今までの譚で新しい第二の壁を造っていた僕は苦い笑いを深くする。聞きたくも無い。解放されたい。今すぐまた逃げ出せば楽になる。そう、思うが、そのカードはもう使えない。此方はフェンスに追い詰められた様に座り込んでいるし、対して男子生徒達は此方を囲む様に立っている。この二人を振り払ってまた逃げる事等難しい事だし、完全に此の場の空気の主はあの男子生徒である。此の場の空気を破ってまで逃げる事等、僕には出来ない。嫌、僕が許せない。一度乗ってしまった空気なのである。ならば嘲笑されようが何しようが、事切れるまで乗るのが僕の矜持である。

「まぁ、今までのどうしようのない譚なんぞ此を言う上の重みにしか過ぎん。とどのつまりは、人と言うのは見たくないモノを見なく、自分が造った疑似環境を通して世界を見ている存在に過ぎないと言えるだろう。

 さて、貴殿には保健室で一つ疑問を問い掛けたな。態々の長譚に付き合って貰って更に此方の疑問に答えて貰う等、大変悪いのだが、お付き合いいただけるだろう。

 再度、言葉を換えて聞くとしよう」

其処で男子生徒は紡いでいた言葉を区切るのである。鋭利な輝きを持った碧眼は此方の目を捕らえて放す事は無い。あぁ、本当、僕は馬鹿だ。無駄な矜持など放って逃げれば良かったと思ったのは続いて紡がれる言葉を前にしての事だった。

「何故、貴殿はそうした狭めた疑似環境に甘んじている? 貴殿は見えもするし、知る事も出来るだろう。だが、敢えてそうしたモノを排除している風に見える。それは何故だ? 俺はそれが、解らない」


 その言葉は此までの譚の種明かしでもあった。僕は、苦い笑いを唯々深くする。表情が浮かべられなくとも、貼り付けたように唯浮かべる。だって、今何もかも投げ出して無くしてしまえばきっと、それは、取り返しの付かない事になるのだから。此の場に居るのはあの男子生徒だけでは無く、もう一人居る。もう片方の男子生徒だけだったのなら、如何様にも誤魔化せた。多少の矜持を投げ捨ててどうしようも無い道化を演じられた。でも、もう一人居るのである。僕はあの全てを見透かす碧眼前にして道化を演じる自信等無いのである。もし、役を演じるのならば、阿呆を演じるのならば何処までも、何処までも、四肢がもげようとも、演じ続けなければならないのだから。どうしようも無くなった空気の中、ひりつく頬の筋肉を維持して、同じ表情をする。苦い笑いを浮かべ続ける。それは、もう、仮面の様でもあった。

 此方を見透かす碧眼は鋭利な輝きを保ったまま僕を見通す。チェシャ猫のように笑っていた表情は鳴りを潜め、今は唯、真面だった。淡い期待を抱いてまた、長々と話し出すのを待つ。三〇秒、口に出さず数えた。だが、あの男子生徒は真面のままだった。此処で改めて理解するのである。向き合っている男子生徒は平然と此方が口を開くのを待っているその事を。数える事を辞めてしまえば、ドロリとした停滞する間が広がるのである。互いに止まったように向き合った儘止まっている。今更ながら、僕は目の前に積み上げた壁に対して辟易していた。少し前に悍ましく見え始めていた。けれどもそれも瞬きの事。また譚が始まるのだから、また積み上げてみれば、また壁が出来て、囲まれる。自分が造りだした壁は、壁では無かった。僕が質問から逃げられないようにする為の檻。そうにしか、見えなかった。

 あぁ、確かに、煙先生と呼ばれている男子生徒は先生と呼ばれるのに相応しいだろう。見事な手腕で此方を追い詰めて、逃げられないように囲んで込んでいる。態々、あんな重複する内容を話していたのは全て最後の質問の為に過ぎないのだろう。一つの質問をする為に、態々あの譚を持ち出し、誠意を尽くす。全く。一生徒とる行動では無いだろうに。あの此方を見透かしている碧眼はきっと此方の行動も解っていたのだろう。じゃなければ、僕は何故、区別する為に積み上げた壁に囲まれているのだろう。何故、その壁が檻となっているのだろう。壁だったモノはもう無い。僕が積み上げたモノは僕を追い詰める立派な檻となっていた。


 真面で此方を見詰める先生の意図は相も変わらず僕には解らない。けれども、僕はもう逃げられない。逃げ道を塞がれているのである。保健室での質問は再度また繰りかえされる。今度は逃げ道を完全に塞いだ場が出来上がった。最早、秘密で無くなった秘密は意味は無い。けど、この男子生徒は此方の口から語る事にこだわっているのである。完全に抱えている秘密を白日の下へと曝すつもりなのだろう。此方は迂闊に検討外れな言葉も紡げやしない。だからと言って、先生へ告解する何て嘔吐が出る。四方塞がり。どうする? そう思った時である。


「先生、何で、そんな追い詰める様な事言う? 只野経君何も言えなくなっているだろ」

あの男子生徒と此方で成立していた場の空気が片方の男子生徒によって水が差される。息を吸う。自然と止まっていた息が水を差された事によって再開される。吸った空気を吐き出す。あぁ、此で何とかなると勝手に希望を見いだし、水を差してくれたもう片方の男子生徒の顔を拝めるように見詰めた。

「煙先生、只野経君はまだホウライに慣れていないと思う。だから、いきなりそんな事を聞いても可哀想だろ? 内地から来たって事はホウライなんて珍しかっただろうし、ホウライさんすら、解っていなかったんだよ。だから、先生があんなたいそうな事を前置きして聞いたってまだ、何も解ってないんだよ。見慣れないモノを見て、驚いて、まだ、落ち着いて居ないんだから」

その拝むような視線も直ぐに嫌悪へと変っていった。安易に見いだした希望も水泡に帰し先程のどうしようも無い空気と打って変わって違うモノが場を支配し始める。僕には嫌いな事がある。それは、他人に可哀想と同情される事と、もう一つ。

「大丈夫だからね! 只野経君。この学校にはホウライさんが君以外にも居るから。ホウライとの適切な付き合い方も教えて貰える。だから、今日見たモノは恐がらなくても良いし、直ぐに慣れて、適切な距離をとれるようになる。ホウライさんは只野経君だけじゃ、ないんだ!」

見当違いな事を言われる事である。だが、此の発言によって一縷の希望を見いだす。その見いだした希望に縋るように考えを巡らせる。此処で、何を言って、どう振る舞えば見当違いが本当になるのか。僕は、苦く笑った儘、考え、黙り込む。結果、此の場の空気は次の発言者が居なくなりどうしようも無くなっていた。


 あの男子生徒が造った空気とは違うが、またどうしようも無い空気が此の場に広がる。先程の逃げてきた時の焦燥は遠に落ち着き、今はどう返せば此の場から解放されるのか考えた。男子生徒達からは、僕口から紡がれる言葉が望まれている。ひりつく頬肉を維持しながら苦い笑みを浮かべる。


 さぁ、どうする? どうやって切り込む。


「僕は、君がそうであるのならば、何も言わないさ。当然の事ながら君の人生は君だけのモノであり、僕が関わる余地等ありやしない。君には僕はいないし、君は君しかいない。

 けれども、一つだけ注文付けても良いだろうか? 演じるのならば、フツカヨイ的になら無いで欲しいんだ。何処までも、コメディアンでいて欲しい。僕は君に対してそう願うよ」

 脳裏に蘇る言葉は唯一の友人が願い込めたモノ。それが蘇るのだから、よっぽど追い詰められているのだろう。何処か客観的に見る僕がいる。僕という人は余りにできた人では無いから、他人の言葉に縋りついてそれを譲れないモノとする。自分の言葉なんて遠に朽ち果て、信条なんてありやしない。どうしようも無い僕という存在があるだけであり、それが余りにもお粗末であるから、演じて本心というモノを隠しているのである。僕の人生において他人は必要無いのである。けれども、やはり僕というのはどうしようも無いから友人の言葉を言い訳にする。縋りつく、自分の信条で生きようとしない。何処までも他人任せで、何処までも、僕は、僕に興味が無い。

 どうするも、何も、無い。僕は僕が始めた事を真っ当するだけなのである。だから、だから、苦く笑う顔を崩し、口を開き言葉を紡ぐ。

「無理なんです」

否定の言葉から紡ぎだし、崩した顔を再度苦い笑みへと変える。立ち上がり、視界のピントを男子生徒からずらし言葉を続ける。

「僕は貴方達みたいに成れない。僕が出来るのは見えなかった事にして普通の人の振りする事なんです。

「貴方達を見ていて思う。

「僕は、中途半端なんです」

目を合わせず流れ出る言葉を淀みなく紡ぎだす。言い終えた後に苦く笑う顔を一度手で覆う。覆っていた手をどかした表情は何も変らない苦いモノ。あぁ、苦肉の策にしか過ぎない。質問の意図が解ってない振りも、誠実な回答も、どちらも出来やしなくて、自分がとっている無様な姿を敢えて曝す。ねぇ、可哀想でしょう? 僕は貴方達とは違うから、貴方達みたいに上手くやり過ごす事なんて出来ないのです。一度言葉にだしてしまえば、次から次へと言葉は溢れ出てくるのである。こんな苦く笑う顔だって、どんな表情すれば良いのか、もう、解らないから。苦々しいまでの表情を嘲笑ってくれ。


 チュシャ猫が笑う。

「俺みたいに成る必要は無かろうよ」

にんまりと、チェシャ猫のように笑っている男子生徒からは、此方が望んでいたような反応を向けてはくれなかった。楽しそうに、かといって真面の側面は失っていなくて、器用なまでに男子生徒は相反する二つを両立していた。

「とはいえ、貴殿は知る権利を持っている。持っている上で、知る必要がある」

男子生徒は真面に戻り言う。紡いだ言葉は弾んでいた。地を這う低さであっても、確かに弾んでいるのである。

「虚猫に、虚へと繋がる扉、それだけでなくこの世には名上し難く重なった結果の産物が余りにも多い。それが全員に平等に見えていれば問題は少なかっただろうが、そうも、いかない。見えるのが圧倒的少数となれば貴殿のいう言葉もまぁ解るよ。迫害を受けるのは此方だ。

「とはいえ、何時までもそうやって誤魔化し続けて自分の造りだした箱庭に居るわけにいかなかろうよ。貴殿はもっと世界を知ってから判断を下すべきだ。

「それと、少数が理解されないと考えているようだが、此処で一つ世界が広い事を教えてあげよう。

「此方が見る世界を純粋に知りたがる多数は存在しているモノだ。そして、貴殿と同じ少数に属するモノは今目の前にいる。

「案外、貴殿だけ、と、言う訳では無いんだ」

弾んで紡がれた言葉は思っていた以上にまともなモノだった。真面な顔と相まって此方の口から思わず出た言葉は男子生徒の言葉を誤解したと解った上でのモノ。

「それは、同情? それとも、僕を導いてくれているの?」

袖の余る手を口へと当ててチェシャ猫が笑う。喉の奥で嘲笑いながら男子生徒は言葉を続けた。

「何を言っているんだ。愉快で仕方が無いから構うに決まっているだろうが」

と。

知っているわ。馬鹿野郎。

 この言葉が喉から出なかったのは幸いと言った所だろう。本当と建前を組み合わせて言った此方の言葉は相手方に一方は正しく、もう一方は歪んで伝わったらしい。その証拠と言わんばかりに暖かい目が片方から注がれている。

「ホウライさんの集まり今度の水曜にあるんだけど一緒に行こうか」

そう言われて苦く笑い応える。その笑みの意味を相手は良い様に解釈するのだから、人間関係というのは面倒である。

「あ、そういや、名前言っていなかったよね。僕は、近衛竜寿。ホウライ関係で困った事があったら、何でも言って欲しい。微弱ながら力になるから」

近衛さんが手を差し出す。その手を握らない選択肢は此方には無くて、差し出された手を恐る恐る握る。握手をしたのは余りにも久方ぶりで、そもそも、友人以外の手に触れたのは何時だったのかと記憶を馳せる程である。握手をした時、視界に映ったのは瑠璃色に輝く鱗を纏うモノだった。その瑠璃色に輝く鱗を纏うモノは此方を警戒する様に一度ぐるりと近衛さんの腕を回った。そして虹色に輝く目が此方の目を捕らえる。目が合う。思わず、息を止める。近衛さんの腕を回った瑠璃色に輝く鱗を纏う肢体が動き此方の腕へと蜷局を巻くように巻き付き始めていた。虹色の目とあった儘、得体の知れないモノが此方の腕へと巻き付いていく。あぁ、と声に成らない感嘆を上げる。近衛さんや、あの男子生徒であったのならこの腕に巻き付く此に触り退ける事が出来ただろう。けれども、僕にはソレが出来ない。見詰め合う目を逸らす事も、巻き付く此を退ける事も、僕には出来ないのである。

「どした? 只野経君?」

近衛さんが心配する様に声をかけてくる。今流れた時間は僅かだったのだろう。ゆるりと近衛さんが此方の手を離す。此方も離すタイミングを合わせて握っていた手を開く。握手が終わる。此方の腕に巻き付いていた瑠璃色の輝く鱗を纏うモノも近衛さんの手と一緒に離れていった。虹色の目から解放され、近衛さんへと視線を移す事が出来た。此方を窺う様な視線を向けている。それもそうだろう。握手をした時に、此方はあらぬ方向を見詰めていたのだから。

「何か腕にあった?」

純粋にそう聞いてくる近衛さんに対して苦く笑って誤魔化す様に首を振る。何も無いのだと伝わるように体で示しながら、思う事は一つである。違うじゃ無いか、と。解りきった事を駄々っ子の様に思ってしまう。

「何も」

此方の口から出たのは思ってもいない言葉。すみません、と続けて口から出そうと思った所で、

「そっか、良かった」

と近衛さんが言う。

「只野経君、何か、僕よりも見えてそうだもん。だから、何か見えたんかと思った」

間を空けずに出た言葉は鋭いモノで思わず此方は浮かべている苦い笑みを深くした。

秘密は暴かれれば無くなる。それが道理だ。だが、僕の中には新たな秘密がまた出来たのである。今度こそは、この新しい秘密を守り通して見せると心で誓うのである。けれども、思ってしまうのである。暴かれて、秘密と無くなった僕の秘密は、きっと、此方が描くモノと暴く側では違って見えているのでは無いだろうかと。とはいえ、ひとまず、息を吐き出す。全く以てとんだ所に越してきたモノだと実感する。少数が多数になるような所だとは夢にも思わなかった。とりあえず、早くなれて順応しなければと前向きに考え出す。長く、大切にしていたモノが無くなった今、ぽっかりと空いた穴にまた新しく埋めるモノがはまった気がした。 

ふと、苦い匂いが鼻腔を抜けた。匂いをした方を見れば、あの男子生徒が煙草と思われるモノを口に咥え、先から煙をあげていた。その様を見て、彼の男子生徒の愛称を思い出す。だから、煙と付くのかと溶けた頭で納得するのだった。


 帆江瀬町では此まで僕の非日常だったモノが日常の一部として存在していた。よって、僕の抱える秘密は意味の無いモノとなるはずだった。けれども、人には秘密が絶えない。


 今までは日常の中で非日常という秘密を抱えていた。だが、此処帆江瀬では、日常の中で日常という秘密を抱える事となったのである。


 譚を続けようと思う。僕事只野経垂に起こった出来事の譚はまだ続く。

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