1-3

三限目の授業の事だった。この日の三限目は生物である。生物教師が教室に入ってくる際に潮の香りがした。それと同時に甘い匂いと涼やかなモノが肌を撫でる。生物教師が教壇に着いて授業が始まる。授業内容はテスト返却だった。生物教師が教室に入ってくる際に感じた甘い匂いと涼やかなモノは変らずあり、見れば教壇を中心として波が起こっていた。その波は僕の所まで来ると胸元を撫でるのである。甘い、シュワァっとする匂い。その匂いが消える際で潮の匂いがして、また波が押し寄せる。何度も、押し寄せる波は気が付けば胸元を越えていた。首を越えて、椅子に座っている体は海水の中で沈んでいた。コポコポと口から気泡は上がる事は無かった。上がるはずも無い気泡を見るように少し斜め上を向く。口を軽く開ければ質量の無い、実体の無いモノが入り込んでくる。甘い、シュワっと跳ねる炭酸水。ソーダ水に近い味のする実態の無いモノは最後にやはり潮の味がする。海水で満たされた教室で気泡は薄暗く、寒かった。教壇で素知らぬ顔をしてテストを返却している生物教師は海だと思われるモノを纏っていた。

海水だと思われるモノに浸りながら此方はテストを受け取りに席を立つ。肌を撫でる感覚は水そのものであるのに息苦しさは無い。周りを見れば化学と同じ光景が広がっている。誰もが、この造られた海の中で溺れる事無く無神経に息を吸っている。対して僕と言うのは表には出しはしないが息を吸うのだって気を使う。実態が無くたって僕自身は水底にいる感覚が確かにあって息を吸うごとに実態の無いモノが体に入り込む。すると、体は錯覚を起こしてむせてしまう。そう成ってしまえば教室内で浮いてしまうのは確かである。僕は周りから送られる無遠慮で際限ない視線が大変恐ろしく感じるたいそう繊細な人間である。だから、目立つリスクがある水底でテストを受け取る等出来ればしたくない事なのだ。視界は薄く碧色で基調されている。それは普段見ることの無い教室の光景を演出してとても幻想的ではあるが、この光景が引き金で脳裏に蘇る記憶はまぁ良い思い出では無い。

幼い頃から僕の見る世界にはミエル人、ミエナイ人がいた。場合によっては、カンジル人とカンジラレナイ人ともなっていた。僕という人は産まれ持ってそれらの感覚が鋭いらしい。だから、僕は物心が付く前から何も無い所に何かを見いだし、音が聞こえない所で何かを聞き、何も感じ取れない所で何かを感じ取る。所謂大衆から見てみれば頭のイカれた人間だった。当然幼い頃は他人と自分の感覚の区分などついていないのだから、当然の如く他人に対して同じようなモノで話を進めるのである。そして、気が付けば僕の周りには人がいなくなり、輪から拒絶されていたのである。

「嘘つき」

仲が良かった隣の家の子から言われた。

「気狂い」

 歳の離れた遠い親戚の兄さんから言われた。

「気色悪い奴」

 小学校一年の時の担任教師が吐き棄てるように言っていた。

 僕は確かにもう一つの世界を好んでいる。けど、その世界に触れる度に思い出してしまうのは今まで受けてきた言葉だった。受け取った言葉は苦しくて、その度に僕は音にならない声で嘘じゃ無い、気狂いでも無い、気色悪く無い、だって、全て本当に見えて感じ取っている事だったのだ、と反論していた。でも反論した所で結局は証明する手立てが無い。気が付けば、僕が当たり前だと思っている世界は他者からは詭弁だった。

だから、僕は拒絶される前に他を拒絶する事にしたのだ。証明しようの無いモノを説明する等意味は持たないのだから。


故に、僕には人に余り話したくない秘密があるのだ。


海水で満たされ水底となった教室。此方の目には魚みたいに平然と息をして存在しているクラスメイトが映る。その中で一体何人が教壇にいる生物教師が纏う海によって教室が水底に成っているのだと気付いているのだろうか? 僕はそう考えながら生物教師からテスト用紙を受け取った。

 だが実際の所で教室が海水に満たされようが水底になろうが大した事で無く何も無い。それを態々人に知らす必要も無く、唯、素知らぬ顔で授業を受ける。何故、生物教師が海を纏っているか気にはなりはするがどうでも良い事であり、僕には関係無い。時々生物教師の影から滲み出るように出てくる触手だって気にはしない方が良い事なのだろう。授業開始から粛々と海水が注がれ水底となった教室の状況は、所詮無かった事にすれば良い事であり、それによって視覚・感覚的に溺れている事等ナンセンスに過ぎないと、虚勢を張っている。ミエタ、カンジタ、けれども僕がその世界に質量をもって干渉する事等無い。あくまでも一方的に与えられている事にしか過ぎない。もし、干渉が出来ているのなら僕はどうなっていたのだろう。教鞭を執る生物教師の書く模範解答を唯テスト用紙へと書き写す。授業開始してから十分経とうとしていた。その時間以内であの生物教師の纏う海は教室を水底へと変えた。

唯、書き写すのも面倒になった此方はつい気にはしなくて良い影へと視線が言ってしまうのである。人というのは「見てはいけないよ」と注意されれば尚更に見たくなるどうしようも無い野次馬的な性分を誰もが持っている。類に稀無く僕もその口だった。隠されれば見たくなるし、危険信号が鳴っても背徳感で進んでしまう。危険管理能力等遠の昔に逝去している。手を止めてずぅっと見詰めていた影に一つの変化を見つける。


瞬きの間、ナニカと目が合ったのだ。


 その瞬間、棺の中で眠っていた危機管理能力が直ぐ様目を醒まし赤信号を脳内で騒々しく鳴らすのである。視線をずらそうとした所で既に遅く、生物教師の影で蠢いているモノから触手がぬるりと此方へと這い寄ってくるのである。目が合ったナニカが再度見えた。その時、確かにヒュッと僕の喉が絞まる音がした。


「世蛙教師、寒いです」

一つの声がした。その声に対して生物教師が困ったように「私に言われてもなぁ、暖房はもう、つかないぞ」と言った。その中で一つ変化が起きた。先程まで教室を満たしていた海水が引いていき、男子生徒と生物教師の会話が終わる頃には、甘い匂いも潮の匂いも何もかも無くなっていた。教壇を中心として何かに吸い込まれるようにして海水が消えて行った。そして何よりも、あの蠢いて這い寄っていた触手も無かった様に消えていった。ふと、春の陽射しが視界にと入り暖かさが遅れて来る。目に映っている風景に光が入るのだ。冷えた体に陽が当り自然と止まっていた息を安堵と共に吐き出す。さざめいている教室内の状況に嫌悪する気持ちが沸き起こる。何故こうなっているのか理解出来、それが余りにも嫌であった。此は八つ当たりでもある。先程自業自得の事態になっていた此方の身を知りもしないで盛り上がる他人に対して思ってしまうのである。あぁ、苛つく。嫌悪の感情は留めなく溢れその感情がストレートに表情へと出てしまう。目元に皺がよっているのに気付き、取り繕うように元の表情へと戻そうとした所で、クラス長に小声で話しかけられた。

「生物の授業になると毎回、煙先生が言うんですよ。寒いって。もう、慣れてしまって伝統芸になりつつありますね。最近じゃ」

そう言いながら笑うクラス長は僕にとってたいそう苛つくモノだった。人から見える表情で「あぁ、成程」と理解出来たような、出来ていないような表情で曖昧な言葉を言う。唯、今漠然と浮かんでいる感情はクラス長達に対する嫉みだった。

見えていなくて何て幸せな。何て、無神経な。貴女が言う、あの「先生」の、言葉を何も正しく理解していなくて、だのに楽しそうに脳天的に笑えるその様は滑稽だ。あぁ、何て、羨ましい。僕も、そうして阿呆みたいにあの「先生」の行動を見て笑って見たいモノだ。それにしても本当にクラス長は出来た人なのだろう。偶然見えた此方の表情を察して間違った解説をしてくれる等。本当、嫌になるほど出来た人だ。教室内を見てみれば笑っているのは何もクラス長だけでは無い。ほとんどの生徒があの「先生」が起こした行動をみて微笑んだりしているのである。本当、本当にまぁ、何と、まぁ、クラス長を含めた生徒は、本当に。なぁ、僕はそんな無神経な君等が嫌いだ。けれども、一等に嫌いなのはあの「先生」に助けられて安堵してしまった僕だ。

そう、どうしようも無い感情に身を焦がしていればさざめいていた空気は何時の間にか消え普通の授業へと戻っていく。此方はまた板書をとる作業へと戻る。今度はよそ見をせず真面目に。相も変わらず海を纏う生物教師は先程まで海水を注いでいた事など無かった様に素知らぬ顔で授業を続けていた。

ふと、気になった事があった。あの男子生徒の発言をした時のクラス内の反応の事なのである。生物教師が纏う海に満たされていたのに気付いていた生徒が他に居たのならば、あの発言時にあの様な空気は起こらなかった筈なのである。男子生徒の行動を奇異として見ている様な空気。一種の伝統芸となるのならば、他の見える生徒がこの事を指摘したって良いのでは無いだろうか? と一人考える。が、余り深く考えるのは阿呆らしかった。一連の流れで解った事は、あの海を纏う生物教師の背後に蠢くモノは見てはいけないモノだった事と、あの男子生徒はクラス内の中心に居ると言う事だった。あぁ、全く嫌な人だ。と、行き場の無い呪詛を投げるのだった。


 三限の終わりの事だった。

「只野経君は、後で生物準備室に来て下さい」

世蛙教師の一言は先程のあの男子生徒とは違ったさざめきが沸き立つのである。上手く言葉には出来ないのだが今起きている此は一種の羨望に近い。それが此方へと注がれている。あぁ、と嘆きたくなる内面を抑えながら僕は涼やかな容姿をした世蛙教師に対して首を傾げて見詰めるのだった。

素知らぬ顔をしていた生物教師がふと此方の方へと視線を移した。その時僕は初めて生物教師の顔を見た。その前までは纏っている海と影で蠢くモノのせいで顔がよく見えていなく、また、僕自身が生物教師の容姿に対しては一切の興味がなかった為に授業終わりでやっと生物教師の顔が解ったのである。白衣姿の生物教師の髪は肩まであり艶がある黒髪は丁寧にケアされている事が察せられる。知的に見える顔立ちをしており、黒目黒髪が相まって漫画で出てくる理系女子を彷彿させられた。唯一つ他の女教師と比べて目を惹くところがあるとするならば白く透き通る肌だろう。生物教師の肌の白さはよく賞賛の際に用いられる真珠と比べた際に更に透明に見えた。その白く透き通る色は薄い碧に近く、海の中に居る鮫の白肌を思い出す。鮫、と、いう言葉が僕の中で出てくるのと同時にまた過去の事が再生される。その際に匂うはずの無いシュワシュワとした甘いソーダの匂いが鼻腔の奥でする。奥歯を少し強く噛みしめながら生物教師をぼんやりと眺めていた。鮫の後に思い出した事だったが、生物教師の名字は世蛙と言うらしい。先程は鮫の白肌の様だと思ったが、名字に引き摺られてか蛙の白肌にも見えてくるのである。そんな事を考えていれば世蛙教師が終わりを告げる言葉を言っていた。ぼんやりと見詰めていた世蛙教師と一度目が合う。互いに直ぐに逸らしたのだが、その後に世蛙教師は口を開き言った。その一言は教室内でさざめきを起こし、此方に視線が注がれる事態となった。何も解らない此方は首を傾げて苦く笑う。あの一言が何を指し、何を意味するのか解らないが全く以て良くない事であるという事は直感的に理解出来る。内心で大きく舌打ちをする。どうも、転入してから上手くいかない事ばかりである。


その言葉の本当の意味を知らない僕というのはその後に注がれた視線の意味も解らずに唯、全てに対して嫌悪していた。今になって思えば、あの世蛙教師が纏う海は僕の様な人に対する検査だったのだと気付く。夢見型である僕に対しての。


「只野経君はさぁ、ホウライが見えんねやね」

 生物授業後の移動教室の時である。大変気に食わないのだが今日一日此方を案内する事となったあの男子生徒と共に教室を出ようとする際に加わった男子生徒がそう此方に言った。「ホウライ」と言われて此方は訳が解らずに首を傾げる。ホウライ、蓬莱、何故、今此処で外つ国にある桃源郷の名をその男子生徒が言ったのか全く解らなかった。そう、思考する頭の何処かで何か引っかかる。それを無視して、実際に誰からも解るように首を傾げて見せればその男子生徒は困ったような表情をした。

「あれ? 違た。な、煙先生。どうやっけ?」

「あ?」

「ホウライってさ」

「貴殿はホウライが方言だと言う事を存じているだろうか?」

その困った表情の儘、半歩前を歩くあの男子生徒へとその男子生徒は話しかける。その後に続く会話は此方の耳に聞こえているモノだが、内容までは興味は無かった。VGMとして聞くラジオの様に聞き流す。今は休憩時間だけとあって廊下は人通りが多かった。様々な人が此方に無関心で隣を通り過ぎて行く。当たり前の事に感慨を抱きながら先程まで感じていた視線を思い出す。一体あの言葉が何を指していたか等とんと検討はつかないのだが、こうした当たり前の事に感慨を抱けるのだから余程精神的にきていたのだと一人思う。全く、此方が抱いている理想の学校生活から離れているのは何の因果なのだろうかと、考えながら、目の前にある教室の扉を開けようと取っ手に手をかける。建て付けが悪いのかその扉は中々開く事が無かった。

其処で一度、違和感を抱く。転入先であるこの校舎はどちらかと言えば真新しい造りをしていた。だから、こうした建て付けの悪い扉があるのが違和感だった。だが、直ぐにその違和感も消え去ってしまう。そういった時もあるよねと思いながら、扉を開けようとする腕に力を込める。少し空いた隙間から出てくる空気を此方は吸い込む。

また、其処で一度、違和感を抱く。今度は手を止める程の違和感だった。次の授業は数学だと聞いている。何故か、今日は先生の都合により化学室で授業をやるのだと、重ねて朝にクラス長から聞いている。だから、扉の先からする匂いは化学室特有のホルマリン漬けといったモノの筈なのだが、実際にするのは嗅ぎ慣れた匂いだった。形容し難く、良い匂いでもあり、悪い匂いともいえる此の匂い。此方が持ち合わせる語彙力で最も近い言葉で表現するならば、土臭い匂いが扉の先からした。扉の取っ手にかけていた手が震える。下を向いていた目線を上へと上げ周囲を見渡す。

其処で一度、違和感を抱く。先程まで聞こえていた喧騒が聞こえ無くなっている事に今初めて気付くのである。当たり前過ぎて、此方の癖が働き周りの喧騒から距離を置いていた。それに加えて扉の建て付けの悪さに意識がいっていたのもある。

其処で最後、違和感を抱く。半歩先を歩く男子生徒が二名いなかった。此処で僕は半歩先を歩く二名の男子生徒を消し去っている事に気付くのである。

 此処で初めて扉の先を見据える事とする。上げた視線で周囲を見ても其処は変らぬ校舎であった。だから、この訳の解らぬ現象の答えは恐らく扉の先にあるのだろう。僕は斜め前を見ていた視線を動かし、扉の先へと向けた。少し空いた扉の先を覗き込もうとした所で、腰のベルトが掴まれ後ろへと引かれた。


「おい、辞めろ」

地を這う声がした。前を向いていた視線が引かれた方へと向く。その視線の先に居たのはあの男子生徒だった。

「何、を?」

と、聞けばあの男子生徒は大きく息を吐き出し言う。

「虚を軽率に覗くのを辞めろと言ったんだ。貴殿は星の裏側に行きたいのか?」

大きく吐き出した行動とは違いチェシャ猫の笑みを浮かべていた。だが、そのチェシャ猫は余りにも詰まらなそうであった。

「虚?」


「いける? 只野経君」

もう一人居た筈のその男子生徒に話しかけられて喧騒が戻ってきた。けれども、先程とは一つ違う。無関心であった筈が、無くなっていたのである。多くの視線が此方へと注がれる。それは、生物授業最後と同じだった。

「え?」

何が、何と解らずに曲げている手が震える。先程と違った恐怖から来る震えである。

「ごっついなぁ、只野経君。其処までホウライが見えるんは珍しいで。僕も見えるけど、ホウライと繋がる扉や初めて見たわ」

此方を心配していたその男子生徒が言う。その言葉を聞いて、一つ思い出す事があった。「ホウライ」は外つ国の桃源郷である蓬莱という意味の他にもう一つ意味を持っている事である。地方の方言として「ホウライ」はカミヨや異形の総称としての意味合いを持っていた筈である。


 ヒュっと喉が絞まる。解らなかった言葉の意味が此処で一度解り今までの疑問の答えが繋がるのである。注がれている視線が途端に此方の身を劈き始め出す。心配そうに覗くその男子生徒の顔なんて見られたモノでは無い。増して、あの男子生徒の顔等以ての他である。開けた口から言葉は出ない。見苦しく口はパクパクと動き、息をする魚の様だった。


「ホウライへと繋がる扉が現れたって本当ですか! まだ、あります? あ、もしかして、貴方が扉を発見したホウライさんですか?」

 此方が何か言うのを待つ空気が突然現れた一人の女生徒の言葉によって壊される。行き場が無く右往左往していた視線を捕らえたのは、漆黒に煌めく目を持った背の低い女生徒だった。今の僕にはこの女生徒が言った意味が解る。

「あ」

やっと音になった言葉は悲鳴だった。一音、僕は悲鳴となる「あ」を声に出すとその場から逃げたのだ。よく知りもしない廊下を走り、注がれる視線を振り切って、唯、ひたすらに逃げ出したのである。後ろからする声も全てシャットアウトして、僕は走った。早鐘の様に打つ心の臓を抱え、足が止まるまで走って逃げた。あの場に居たくない。それだけだった。


 帆江瀬町役場での出来事である。

「はい、えぇ、ヤマオロシの件ですね、それに関しては向かって左手に見えます異形特務科の方へ相談していただければ大丈夫かと思います。はい。では、お願いいたします」

町役場の職員の人がそう言いながら一人の男性へと応対していた。男性は一度頭を下げると案内された異形特務科の方へと向かって行った。その背をぼんやりと見ながら此方は驚く感情を抱えながら天井から垂れ下がっている異形特務科と書かれた看板を見詰めていた。異形特務科は名の通り、異形に対する業務を取り組む公務員が所属する科である。特務が着くのは一般的公務員と比べた時に特殊な仕事内容による為だと一度友人から聞いた事がある。国が異形に対応する際に動くのが此の科であり、どの地域にも配置されているはずの科であるが、帆江瀬の様に他の科と同じく表の方に出ているのは初めて見る光景だった。僕が前住んでいた地域では異形特務科の場所を把握している役場の職員は数名であった。その内の何名かは勤続年数二〇年越えている人だった。僕は、何故か異形に関するトラブルに巻き込まれる事が多く、前の地域でも此の科が役場の何処にあるのか知っていた。そして、他の同年代の人と比べればかなり利用していた筈である。この時に漠然と思った事があった。

あぁ、帆江瀬では異形が日常にあるのだと。特務科の場所を伝えている看板を見詰めながらそう思ったのだ。


 一限目と二限目の休憩時間の事である。

「あ、カイユウギョだ。山から迷い込んで来たのかな?」

白の肌地に赤の鱗を纏う一匹の魚が廊下の中で泳いでいた。一人、男子生徒がその魚を指指し隣にいる生徒に向かって言っていた。

「あ? 八瀬見える? 俺、わかんないだが?」

「ギリ、見える。っていうか、僕は見えるけど、竜寿ほど見えないから解らんのだけど」

「ま? そうだっけ? で、具体的にどこら辺に居る?」

「今は、えっと……」

「すごい顔になっているぞ、八瀬」

「ああん? お前が何処って聞いていたんだろうが。あ、今転入生君の横、通った」

隣に何か通り過ぎて行く。空気が水の様に揺れた感覚だった。此方はあの魚が過ぎて行った方向を振り返らず歩いた。あの魚が過ぎた後に小走りの男子生徒が隣を走って行った。その男子生徒は最初にあの魚を指指していた生徒だった。教室に入る頃、ふと廊下が騒ぎ立っていた。その騒ぎになっている方を向く前に聞こえてきた言葉を聞いて歩く足が速まる。

「よしっ、捕まえた! あ、八瀬、窓開けて、カイユウギョ放すから」

「流石、竜寿だわ。よく捕まえられんな。僕、見るのにやっとなのに」

「大した事じゃぁねぇよ。唯、見える範囲が広いだけだって」

「お二人さん、何かすごい事しているのは伝わってくるんだが、授業開始まで、後、数分よ。早う、捕まえたモノ放して貰って」

「はい、はい、オカン」

「誰がオカンじゃ、全く。それにしてもマジで何か持っているんだな。竜寿って。俺には空のジャスチャーしている事しか解らんが」

「持ってるって。めっちゃ暴れているんだからな。あ、あぁ、よし、放せた。今度は迷い込んで来るなよ」

「いや、何となく暴れているのは解るんだけど、え、お前ちゃんと握っていただろ。え?」

「そういやさ、………………・」

その後どのような会話が続いたのかは知らない。此方は教室に入るなり小走りに近い状態で席へと向かったのである。ドッドッドと脈が上がった気がする。席へと駆け込む際に見えた目の端にあの魚を確かに握っている男子生徒がいた。その様を見て、血がさぁっと下へと下がっていくのが解った。男子生徒が、あの、魚、を、確かに、握っていた。その光景が唯再生される。上がった気がする脈と血が引いた感覚は暫く続きそうだった。


 三限目の授業の事である。海が引いていく中、あの男子生徒の所へと名上し難いモノがするりと近付いていた。その名上し難いモノが男子生徒の頬へと触れそうになった時、男子生徒の手が名上し難いモノを弾いたのである。余りにも軽く、弾いた。弾かれた名上し難いモノは軌道をずらしながら生物教師の影へと戻っていった。あの男子生徒が、名上し難いモノを弾く。弾かれて軌道がずれた名上し難いモノ。僕の中で一つ疑問となっていたモノが確信へと変る。ギリギリと手を握りしめる。黒のフィンガーグローブの下の指先が軋む痛みが身を焼くがそんな事はどうでも良かった。

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