1-2
「大丈夫でしたか?」
消毒液の匂いが強くする部屋に入り椅子に座り次第直ぐに出た言葉だった。廊下を歩いている途中でふと、黒い猫に乗っかられていた男子生徒を思い出す。黒い猫が去った後、此方の関心は一切猫の方に向かっていた為、あの生徒がどうなっていたのか等検討もつかない。安蘇教師の言葉によって此方は保健室へと連れてこられているが、保健室行くべき相手はあの件の男子生徒だったのでは無いのかと思ったのだ。此方の前を歩いていた紫煙の匂いが強い男子生徒は保健室に入ると此方に振り返り指をさして今座っている椅子へと座るよう促し、此方がその椅子へ座り、先程の言葉がポロリと溢れ落ちた。その間男子生徒はというと部屋の奥へ行っていたようであったが、此方の言葉の後、一つの椅子を抱えて此方に戻ってきた。椅子を掴んでいる手は変らず袖が余っておりめくる様子は見受けられなかった。
「ん? あ? あぁ、八瀬の事か。って、名前で確認しても貴殿は解らないか。推測だが、アレだろ虚猫に最初乗っかられていた男子生徒の事だろ?」
椅子を置きながら返ってきた言葉に此方は頷く。此方が一つ頷いて顔が上がってきた時に椅子へと座った男子生徒と目が合った。黒縁眼鏡から覗く碧の目。その目がチェシャ猫の様に笑みを描く。
「なら、大丈夫だ。あの後直ぐに安蘇教師によって然るべき機関に連れていかれた」
その笑みはほんの瞬き。次に紡がれた言葉は何も入ってこなかった。その一瞬の笑みを見て頭から血が下がっていく感覚に陥る。先程の男子生徒の言葉に此方は頷いてしまった。「頷いて」しまったのだ。「あぁ」音にならない声を上げる。此方の脳は処理落ち目前。
「ん? 何か疑問があったか?」
碧の目が此方の目を見詰める。その見詰められている碧の目をみて直感する。
これは、不味い、と。
硝子玉のように透き通る碧眼には此方が映る事が容易に想像する事が出来た。その、映る姿が、外の姿だけでは無い気がしてならないのである。ふと、最近知り得た知識が脳裏で再生される。人の目の色において「アオ」という色は存在しないらしい。グレーのアオ色寄がアオ色に見えていたとしてもそれを精密に色分けしてしまえばグレーという違う色であり、人の目における染色において純粋なアオという色は存在しない。この男子生徒の碧眼というのは、硝子玉のようであり、元となる緑やグレーといった色が解らなかった。それは部屋における光の加減の問題なのかも知れない。だが、僕は光の加減では無いだろうと直感的に解るのである。あの、人が持つ事が出来やしない、「碧色」の眼は危険だ、と。
「さっきの騒動でいたあの黒モップ猫はな、虚猫と言ってな、まぁ、俺は糞猫と呼んでいるが。黒モップのような見た目をしていて、猫と呼ばれているがアレは単に形が似ているだけで、実態は全く違った生物とは言い難いモノでな。本日教室に出たのはそれだ。あれは触れると、金縛りのように触れた相手の行動を奪う性質をもっていてな。その上、厄介なのは名の通り虚の猫であるから、動かなくなった相手を虚に引き込む。本当、歩く厄災と俺は、個人的に思うのだが。あぁ、そう言えば貴殿は感覚が鋭いようであるが、糞猫を見たのは初めてか?」
男子生徒は先程の言葉の答えが此方から返ってこない事を気にはせずに次の話を始めた。その話は知っている情報と知らない情報が織り混ざっており、尚且つ疑問に投げかけられた事に素直に答えるのは僕が守りたい領域に反する事だった。此方は男子生徒に対して首を傾げる。話の意図が解らないと言うかのように苦い笑いをついでに浮かべてみせる。此方の浮かべている表情とポーズを見た男子生徒は笑った。その笑みは先程瞬きに浮かべていた笑みと同じだった。
「貴殿は、ホウライさんなのだろう。だから、異形が見えている。だのに、今見えていないふりをしたように見受けられる。そうするのに至るようになった理由は大変興味深いのだが、それにしても、俺には貴殿の行動の意味が解らない」
チェシャ猫の様な笑みを浮かべて男子生徒は言葉を重ねる。
「だって、貴殿はホウライさんだろう?」
最後に積み上げられた言葉が指す意味が僕は正しくは解らない。けれども、男子生徒が言おうとしている言葉の意図は解ったのだ。この男子生徒が僕へと紡いだ言葉は確かに僕が隠し通したいモノを暴き白日の下に曝してしまうモノであると直感した。そう思い当たれば下がっていた血が湧き上がっていく気がした。見詰め合っている碧の目が浮かべる笑みに強い嫌悪を憶えた。
此方の事など構いもしない。言いたい事だけを述べる。やりたいように行動する。まるでそれは天衣無縫。あぁ、嫌なタイプだ。何よりも、空気が読めていない様に見えて、何よりも、空気が読めて、敢えて最悪な行動をとる。此方が、人が、嫌がる行動をとって反応を伺い笑う。あの、碧眼だって危険所の話では無いだろう。ニコリと笑って見せた碧眼は此方の全てを見通している。見透かしている。その上で、チェシャ猫のように笑っている。あの男子生徒は此方が狼狽えて失言するのを待っている。待ち望んでいる、目、それを向けている。此処で此方の反応次第で、一つ、墓穴を掘ろうが掘らなかろうが、どちらにしたって、今此の場の出来上がった空気は挽回の仕様が無い。此方が何かを語るのを待っている、或いは先程の言葉に対する返答を待っているのだろう。どちらにしてもソレは僕の秘密に抵触する事だから気軽に話せる訳では無いのだ。痛いほどの、無言の間。シンシンと音がする。その音が此方の耳を劈く。教室では全くの無関心だったじゃぁ無いか。多少、男子生徒は此方に視線を向けて僕の前に来たけれども、それだって大した事じゃない。そもそもその向けた視線の先にはあの糞猫がいた。つまり、此の男子生徒は僕自身を見ていたのでは無い。その時の此方の視線の先はあの黒い猫だった。偶然目の端に此の男子生徒が映った。それだけが僕と此の男子生徒の此までの接点だった。全くの赤の他人。話すのだって普通なら戸惑う。初対面が苦手な僕からすればどうしようも無い程に嫌悪する場である。本来ならば成立等しないだろう。誰しもこんな強引と言えるほどの会話を強制する場を創り出せないのだから。
だのに、この場では、チェシャ猫のように笑うこの男子生徒が全てを引っ繰り返した。唯、一つ、あの「糞猫」という共通点だけで此の場を創りあげて見せたのである。此処で僕が狼狽えて、無駄に口を動かして、それも音にならない、そんな無残な姿をすれば、この中から解放される? 無駄に決まっているだろう。あの、此方を見透かす碧眼は此方の返答を待ち望んでいるし、馬鹿の振りをして言われた言葉の意味が解らないムーブをかますには無理があった。それは先程試したばかりなのだ。意味無く流された。それに既に此の場で出来上がっている空気に水を差す。あぁそれは、何よりも僕が苦手としている事なのだ。出来上がった空気を壊す。残念ながら僕は空気を読めてしまい準じる事が出来る人であるから、そのような無礼な事なんて出来やしないのだ。だからといって僕が抱えている秘密を此処で告解する訳だっていかない。幾ら此処で異形が日常の中に組み込まれているモノだとしても此は言えないのだ。目の前に座っている男子生徒はさも当然の様に異形を語る。その語り方は以下にも異形が見える事等少数では無いと示唆する様でもあった。だから、貴殿の行動の訳を教えてくれと空耳で聞こえてくる様でもあった。
改めて、気が付けば、場が出来上がっていた。部屋は静まりかえって、僕の目の前に立つチェシャ猫のように笑う、この、男子生徒がこの場の主になっていた。
空気から再度確かめる。この場の空気は唯、僕の発言を待っている。それは、場の主である男子生徒が望んでいるからであるからだ。
あぁ、全く。僕は一人心の中で舌打ちする。何が、同性の方が良いんだ。そう、クラス長の気遣いに悪態をつく。思う事は止まらず溢れ出てきた。クラス長が言う、その良いという同性は僕に最大限の爆弾を落して笑っている。愉快処じゃ無い。一つ息を吐き出す。変らず碧の目とは見詰め合った儘だった。僕は一つ確信した。今解る、僕は君等が嫌いだ。
あの男子生徒の爆弾発言から数分後。場は変らずシンシンと音を鳴らしている。誰も音を発する事は無く此方が唯気まずく罪悪感に苛まれるだけだった。男子生徒のチェシャ猫の様な笑みは変らく、惰性で逸らす事をしない碧の目から僕の姿を覗き見る。苦く、何とも情けない笑みを浮かべた気色の悪い顔が見えた。苦い笑みを浮かべている黒に近い藍色の目は淀んでいるように見えた。あ、死ねば良いのに。碧の目から見える自分の姿に呪詛を送る。先程の男子生徒の発言に僕は答える気が一切無く、だからと言って男子生徒がそれを察した所で許してくれる訳でも無く、此の保健室という場はどうしようも無くなっていた。どうしようも無い空気が流れ、その主は変える気が無い。解決策を考えるのもまぁ阿呆らしく思えた僕は成るようになる儘任せる事にした。男子生徒が痺れを切らすか、此方が折れるのか、我慢比べとなる。此方は向けていた視線を見詰める事から見据えるに変えた。折れる気は一切無いのだが、保険くらいはかけといても良いだろう。そう、思ったのだ。
このどうしようも無い空気をどうにかしたのは矢張人格者だった。
「先生、只野経君は落ち着きましたか?」
扉の開く音がして少し間が空いてそして、聞いた事のある重みがある声がした。その声で見据えていた視線を此方から動かし声の方向へと向く。其処に居たのは透き通る水色の海月型の笠に薄黄色の天蓋、笠から覗く栗色の髪、柔やかに微笑みを湛える顔は見慣れたモノとなりつつあるクラス長だった。控えめに立っている様に見えるが立ち姿は背が伸びていて威風堂々としたモノ。人格者そのものの気遣いなのか、何故か此の場にクラス長は来たのだ。大きく息を吐き出す音がした。此方が吐き出したのでは無い。その音は先程まで見据えていた方から聞こえたモノだった。
「あぁ、随分と落ち着いた。何だ、クラス長殿授業に戻れと言いに来たのか?」
低く地を這う音が随分と嫌みたらしく言葉を紡いだ。再度視線を後ろへと戻すのは何故か抵抗があった。だが、一つ僕には解ることがある。おそらくだが、あの男子生徒はチェシャ猫の様な笑みを浮かべていないのだろう。クラス長の表情は水色の笠と薄黄色の天蓋から覗いていた。その下から覗き見るモノだから、随分と不確かに覗くあの柔やかな笑みを此方は見ていた。一度その笑みが崩れた様に見えた。それは、あの男子生徒の大きく息を吐き出す音がした時である。崩れた、と表現しても笑みを歪ませたのでも綻ばしたのでもない。唯、浮かべていたモノが柔やかでは無くなった様に感じた。瞼が閉じる様な瞬きの事であるから確かな事は解らない。けれども、その瞬間。僕は確かに息を飲んだのだ。
「まぁ、そんな所です。何ていっても煙先生ですからね。授業をサボるのも、お手の物ですもの。ね、先生。まだ、転入してきたばかりの方に良くない事を教えているのでは? と思いまして、老婆心ながら来てしまいました。ご迷惑でしたか? 先生」
不確かに覗き見える柔やかな笑みは深くなっていた。その浮かべている笑みに他意は無いように見える。クラス長は此方の後ろへと立ちあの男子生徒を見据えて先程の言葉を言ったのである。此方はクラス長から再びあの男子生徒の方へと視線を動かした。クラス長が見据える視線をなぞり、全てを見透かすような碧の目の方を見る。クラス長の視線の先に居たのは小柄な体躯だが、全く小さく見えず、けれども此方を見上げている利発そうな男子生徒だった。
眼鏡の上辺りで揃えられた黒の前髪に、袖の余った上着それが改めて見た男子生徒の容姿。先程まで此方が見ていたのは男子生徒の特徴的である黒縁眼鏡から覗いている碧眼。そればかりに目がいき全体の姿やどのような容姿をしているか等見ていなかった。何となく、視線の距離感で背が小さい事は察していたが、改めて見るほど袖の余る上着は異様だった。萌え袖という概念を通り過ぎて純粋にサイズが合っていないと思える。それを纏い目の前に向かい合って座っている男子生徒の姿に違和感は無かった。似合っていると思えた。
クラス長の言葉を聞いた男子生徒は口元を袖が余っている手で隠す。
「いや、全く。有り難い限りだよ。流石、クラス長殿でいらっしゃる」
一拍という間を空けてクラス長と同じような柔やかな笑みを浮かべて男子生徒は返答となる言葉を言った。袖で覆われているが音となった言葉は通るモノ。男子生徒の声色というのは元々通るモノなのだと僕は考えた。そう、くだらない事を考えている間にもクラス長と男子生徒の会話は進んで行く。此方はそれに聞き耳を立てながら流していた。
「そうでしたか? 良かったです」
「今の授業は化学だったか?」
「そうですよ。丁度テスト返しの時間になりますね」
「あぁ、そうなるか」
「はい、きっと安蘇教師も首を長くしてお待ちしていらっしゃいますよ」
「うわぁ、それは、それは」
「全く、煙先生ったら。あ、そう言えば先生。自己紹介しましたか?」
「ん? あぁ、いやまだだ」
「え、もう、嫌だ。煙先生ったら。名も言わないで何を話していらしたんですか? 全く」
「色々だよ。お嬢さん。で、結局俺が案内するので良いのだろ?」
「はい、それが良いかと。本日の様な事もありますし、ホウライさんの事も説明出来る先生の方が適切かと思われます」
「それも、そうか」
「はい、煙先生お願いいたしますね」
「只野経君」
半分僕の思考は沈んでいた。此方を挟んでテンポ良く進んで行く会話にも一応聞き耳を立てていたが、内容まで理解しているのは半分。もう、半分は沈み違う事を考えていた。その沈んでいた思考をクラス長の声で引き揚げられる。自然と下を向いていた視線が浮き上がり、視界に映るのは黒縁眼鏡から覗くあの碧眼。目が合わさった所で低く這う音が言葉となる。
「イワン・リー・アンデルセンと、言う。煙先生と呼ばれているが、好きに呼んでくれ。ま、これからもよろしくな」
紡がれた言葉が示すのはあの男子生徒の名。其処で僕はあの男子生徒の名を知らなかったのだと気付くのだった。
保健室から教室に戻った時には一限目の授業が始まり時計は二〇分経過している事を示していた。教室内は特有の空気の活気が有り、誰もが手に持っているA4の紙を目にしては一喜一憂していた。それもそのはずなのである。今教室無いで行われているのは期末テストの返却。教壇でニコリと柔和な笑みを浮かべている化学教師でありこの教室の担任教師でもある安蘇教師は生徒の姿があい余りさながら執行人の様でもあった。そんな風に教室に入り一度立ち止まり見回して僕は感想を抱いた。クラス長とあの男子生徒は此方よりも先に教室へと入っていた。クラス長は安蘇教師の方へと、あの男子生徒はその後ろを歩いて居たが教壇前の席に着くと男子生徒はその席へと座った。其処があの男子生徒の席なのだと僕は知る。よく生徒の間では一番座りたくない教師から注目される席。その席にあの男子生徒は座っていた。それが、意図的なモノであるのか偶然であるのかは転入してきた此方には図り知らない事である。そんな事を考えている中此方は自分の席へと着く。椅子を引きするりと座る。その間に幾つかの視線が向けられていたが気にはならなくなった。唯、教壇にて安蘇教師と話しているクラス長が目の端に引っかかっていた。安蘇教師へと向けられていたクラス長の視線が動き此方の目と一度合う。その僅かの間に浮かんだ柔らかな笑みを水色の笠と薄黄色の天蓋から覗き見る。ほんの瞬き、でも、合ってしまった。その一瞬の事でさえ綺麗な対応をしてのけるクラス長は本当に出来た人なのだろう。僕の顔には自然と笑みが浮かんでいた。クラス長とは違う、むしろ反対と言える苦い笑み。その苦い笑みを見た人は少ない。それもそうなのである。此方は直ぐに自然とでた苦い笑いを収めたのだから。だが、その少数の中に安蘇教師はめざとく入っていた。安蘇教師は手に持っているテストの回答用紙へ視線を移し、生徒の名を呼ぶのを再開する。僕は椅子の背へともたれかかり息を大きく吐き出す。その時に音を立てない事に気を使いながら吐き出した後襲ってきた疲労にまた息を吐き出すのだった。
自分の席に着き教室内での空気を見渡す。そして気付くのは全く以て平凡と言える空気が流れている事である。先程の黒い猫による騒動が嘘と言えるような空気が其処には確かに流れていた。今、流れている空気とすれば返却されるテストに対する一喜一憂。何とも普通の学生がする行動そのもの。だが、その数十分前には虚へと人を誘う黒い猫がこの教室に居たのである。けれども、それを引き摺る人等この教室には居なく誰もがテストに対して関心が向かっている。つまり、今流れている空気はこの教室でおける日常そのものなのだろう。そう、僕が考えるのは自然の事と言える。だからこそ僕が抱えるのは何とも形容し難い違和感なのである。何度も思ってしまう事がある。それは異形に対する事だ。今までの此方が居た場では異形は非日常の象徴だった。つまり、先程の様な事があればその日の学校というのは早退となり場合によっては数日休みとなるような事態だった。だが、今越してきた場というのは異形が日常に組み込まれており、その異形による現象というのに此の場にいる人というのは慣れた対応を取っているのである。其処に生じる違和感というのは明らかな差だといえるだろう。何故、帆江瀬という場に異形が日常と言える存在しているのか? そして其処で暮す人が何故それを平然と受け入れられるのか? 今までの場と照らし合わせば当然の如く生じる違和感であり、差だと言えるだろう。だが、僕自身がそれを疑問に思う事はあれが解明したいとは考え無いのである。僕には、もう一つの世界が見えており存在している。それが変る事は無い。だから、見えているもう一つの世界に何も無ければ良いのである。そう考えるのだ。だから、例え僕の様に見える人が他に居たとしても僕が抱える秘密は変らないのである。
「只野経」
安蘇教師からそう名前が呼ばれる。一人、机に座り頭を下げて表情が窺えないような状態を造りだし、先程の出来事について考えていた。思考の底へと沈んでいた意識は教師の言葉で浮上する。僕という人間は集中すると自然と周りの音を何割かカットするという性質を持っている。だから、教師の一言で浮上した意識と共に音も元に戻っていく。ミュート状態に近づいていた音は大きくなり、耳に入るのはテストの出来について言合っている生徒の声だった。席を立ち上がって教壇にいる安蘇教師の所へと向かって歩く。テストという産物があるおかげで周りからの視線はほぼ無いモノだった。此方は転入生であるから、名簿は当然の如く後ろへと振り分けられる。僕のテストが返却される時は、他の人の手にはテスト結果が行き渡っているという状態。テスト結果以上に僕が気になる存在であるわけがないと自負しているので、意気揚々と視線を上げて教室の中心である教壇へと歩いていく。此方を見た安蘇教師は柔らかな空気を纏っていた。
「少し、待っていな」
暖かい声でそう言った化学教師は持っている紙束の中から此方の回答用紙を探している。その様子を見て、相も変わらずそこら辺が抜けているのだと思い頬がほんのりと緩んだ。僕がこの高校へと編入する切欠となったのは、今目の前で回答用紙を探している整理整頓が恐ろしく出来ない安蘇教師である。この教師がいなかったなら僕はこの高校へと編入する事は無かっただろう。この安蘇教師に会っていなければ今頃本州の高校へと編入していただろう。あの男子生徒との先程の事の後である僕からすれば其方の方がよかったと思える事なのだが。安蘇教師の困っていた目に光が入る。
「あった。あった。ほら、只野経、結果だ。範囲合わせ大変だったのによく頑張ったな」
慈悲の目で見詰められながら、回答用紙と問題用紙が手渡される。回答用紙に付いている数字は、七三。まずまずといった所の出来だった。相も変わらずこの安蘇教師が生徒へと向ける視線は温かいモノである。此処で敢えて間を空けて小さく、だけれど確かに届く声で安蘇教師の目を見て言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます」
自然に出た言葉だった。安蘇教師の前であるならば言葉少なになる事等気にもならない事である。安蘇教師は初対面では無いし何よりも、安蘇教師は此方が言葉少なに対応した所で態度が変る事は無く、しいて言うなら慈悲の目で此方を見詰めてくる、そんな奇特な人なのだ。同学年の生徒であるのならば、その慈悲の目は心地良いモノである、けれども自分から歳が離れている人から送られる慈悲の目ほど居心地が悪いモノは無い。なけなしの、無くしたくて堪らない自尊心が泣き始めるのである。その自尊心はみっともなくむせび泣いて僕へと訴える。だから、言葉を惜しげ無く出す。その出し言葉が適切であった時の安堵が無駄であろうとも僕は感じてしまうのである。よかった、と。
此方の返答を聞くとくしゃりと安蘇教師は笑うのである。それをぼんやりと見届けて居れば安蘇教師は思い出した様に言った。
「そう言えば朝の黒モップ猫は驚いただろ? たまに、出るんだよあぁいったのが。ま、慣れてしまえばどうって事は無いし、クラス内にいるホウライさんの指示に従えば大概大丈夫だから、それ程心配する様な事じゃ無いぞ」
柔らかな笑みを浮かべて安蘇教師から出てきた言葉は先程の事に対するファローみたいなモノだった。僕は反射的に苦い笑みを浮かべていた。そして軽く首を傾げて見せれば安蘇教師の浮かべている笑みが若干変った様に見えた。柔らかなモノから苦いモノへ。けど、それを見たのはほんの僅かの事。此方はテスト用紙を片手に踵を返して自分の席へ戻り始めていた。
「ヘイヨーー、どうだったぁ」
地を這う低い声が歩き出した此方の足を止める。どうも何も無い。強いて言うならば、話しかけて貰いたくない。けど、安蘇教師の前であの男子生徒の呼びかけを無視するのは余りにも悪い。安蘇教師の前では僕は善く見られていたいという欲がある。何なら、「先生の前では、良い子でいたい」と言うのが本音である。生徒との関係は切れたままでも、歪んだ儘でもやっていける。だが、教師との関係を歪ましてしまえば待っているのは地獄である。教室という密室空間における絶対権力者は教師であり、生徒では無い。スクールカーストがあるのは知っているのだが、適用される範囲に居た試しが無い。これはあくまでも僕が恵まれていただけなのかも知れないが、生徒と関わる事を拒否し続けた結果である。とどのつまりは何処に重点を置くのかだけなのである。こうして僕は人との関わりを最小限にして生きてきた。だから、こうしてあの男子生徒に気にかけられて生徒の輪の中に入るのがどれ程苦痛な事なのかは察して貰いたい。ギィギィと音が出そうな勢いで首を其方へと向ける。向けた先にいるあの男子生徒はたいそう楽しげに此方に微笑みかけていた。
「だ、」
そう、口を開いて当たり障りの無い言葉を口にしようとした。周りは此方に気にも止めていない事を確認してから。だけど、教壇にいる安蘇教師の声が先に言葉を紡ぐ。
「ほらほら、お前等、解説するから、席戻れ」
その一言で生徒がそれぞれ席へと動き始め出していた。僕はあの男子生徒の方へと軽く黙礼をした。顔を上げた時に目に映るのは軽く苦く笑っている安蘇教師の顔で、あの男子生徒の顔では無い。踵を返す。
「煙先生、もしかして只野経いびった?」
「いびっていないが。挨拶して質問した程度だが……・
安蘇教師とあの男子生徒が話しているのが薄く聞こえた。あの男子生徒が自己紹介の時に言っていた愛称が安蘇教師にも呼ばれている事が少し、悍ましかった。明らかな強者。教師とも仲が良くて、良くも悪くも生徒の注目を集められる。嫌だ、嫌だ。あぁ、嫌なモノだ。何故、僕に関わろうとしてくるのだろう? 僕を認識するのだろう? 辞めろ、煩わしい。関わるなよ。ほっとけよ。関係無いだろ。消えてくれよ。
様々なぐちゃぐちゃとなった感情に支配されながら表に出すのは何も無い感情。顔を上げる事なんて無い。頭を下げたまま、早足で席へと戻り座る。
「大丈夫ですか? 只野経君」
隣から声がした。顔を上げてみればクラス長が労るような目で此方を見ている。
辞めろ。辞めてくれ。辞めて、頼むから、もう、本当、ねぇ、何をしたって言うんだ。苛めないでくれよ。ねぇ、もう、お願いだから、善い子でいるから。
だから、
その目で見るのは辞めてくれ。僕を惨めにしないでくれよ。
なぁ。
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