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 僕には人に余り話したくない秘密がある。


 僕には見える世界がもう一つ存在する。世間一般的に現実と呼ばれる世界と、理不尽で恐ろしくそれでいて何処までも美しい世界、カミヨが見えた。僕はまだカミヨに到達した事は無いけれども、カミヨの現象が形を持ち生命体となった異形というモノなら幾度も見た事があり関わってきた。異形は現象であり、世界でもある。それが、誰しもに見える事かと言えばそうでも無く、僕みたいな見える世界が二つもある人というのは少数だった。だからと言って、僕が暮す国がその存在を認知していない訳でも無く、僕みたいな特殊な性質を持つ人を「夢見型」と分類付けている。異形の存在を認識できる、所謂二つの世界を重ねて見える人を「夢見人」と呼ぶ。此は政府が定めた事であるが、少数の為知る人は少ない。だから、見えていない人がいても仕様が無いのである。昨日のハタハタも異形であるし、あのハタハタの飛来はカミヨの現象であるだろうし、それが此方側にも重なって雷が鳴ったのだろうと僕は勝手に推測をする。詳しい事は知らんけど。昨日みたいに重なって起こる現象は数多にあって、それが見えないばかりに怪異現象と言われて、それが見えたばかりに此方は奇異なる目の対象とされる。まぁ、慣れたモノと成ったけど。とはいえ、奇異なる目を無効化出来る程僕は強い人では無かったし、それが原因で人から距離を置くことになったのは僕が至らないせいである。僕は見えるもう一つの世界の事を好ましく思っているし、異形の事も気に入っている。越してきた帆江瀬という町は異様で滅多に見かける事の無い異形を当たり前の日常のように見かける。越してくる前の異形は非日常の象徴だった。だから、見かけた時の感動は言葉にし難い。だが、帆江瀬での異形は日常に組み込まれていた。それが嫌であるかと言えばそうでは無い。むしろ気に入っている。気に入っているからこそ、僕は夢見人である事が他者に知られるのを嫌悪する。奇異なる目で見られるのだって嫌だし、異形と僕の間に他の誰かが含まれるのだって嫌だ。つまりは、見えている世界を僕は共有する気が無いのだ。だって、此は僕の秘密であるから。


 だから、僕の見る世界に他人はいなくてもよかった。


 こんばんは、天気予報をお伝えします。今日は、春の訪れを感じる一日となりましたね。では、明日の天気を見ていきましょう。明日は一日中晴れる見込みです。また、所々で黒モップ猫の目撃情報が報告されています。黒モップ猫を見かけたら気をつけて下さい。最後に天気のポイントです。黒モップ猫に注意。見かけましたらお近くの異形対策科までご連絡下さい。以上、お天気をお伝えしました。


 深夜のローカルラジオ。流れている内容は目新しいモノばかりだった。流れている内容が全て解る訳では無いが恐らく異形関連である事は最後の異形特務科という言葉で察しられた。ベッドに入りながら黒モップ猫というありふれたワードに首を傾げる。僕が知っている唯の猫では無い事は確かであるが、猫の形をとった異形となると多く浮かんで来るから、どれを指しているか等とんと検討がつかなかった。僕はその猫に注意とは何ぞやと疑問を浮かべる。一体猫に対して何を注意すれば良いと言うのだろうか? まぁ、今日の飛来していた鱩の事もある。此方側と重なって現象として起きる事もあるのだろう。その現象がラジオの天気予報で注意報として流れる程特異なモノなのだろう、と、勝手に結論付けてから布団を引っ張り肩へとかける。肩を覆う掛け布団を確認してから手を伸ばしラジオを止める。今日の怪異現象モノの内容は全てを見透かす碧眼についてだった。「え、何ソレ怖」思っていた言葉が口から出る。ラジオを消した後の静かな自室に音が立ち、直ぐに消える。目を閉じて溜息を吐き出す。明日は転入初日。余り歓迎した日では無かった。僕と言う人は繊細であるからきっと緊張で寝られやしないの。と、しおらしく布団の中で体をくねらした所でそれも朧気となっていく。今日の学校見学が余りにも体に響く。新しい事は、と黒の中で考えだした所で記憶が途切れる。次に目を開けた時には何とも言えない絶望感を抱え、登校準備をし出す。僕は、転入初日が一番嫌いだ。


陰鬱な感情のまま学校に向かう途中の事である。

黒い猫がいた。正確に言うならばモップのような毛で体が覆われた黒猫。ふさふさ風に揺れている黒毛を纏う猫は今道路の中心で悠々と毛繕いしていた。それを見て思い出すのは昨晩の黒モップ猫。あぁ、居るのだと感慨を抱いていれば、音が聞こえ目を向ければ、少し遠くの向こうから車が来ている。あの距離であったならば毛繕いしている猫が見えるだろう。だが、車が減速する気配は無い。猫が逃げると思っているのか、車は法定速度で走ってきていた。黒い猫は毛繕いを続けている。他の人が猫をどかすかも知れないと、周りを見た所で此方の周囲を歩いている人は誰一人として道路にと視線は向けていないのである。不自然に止まっている此方が一人道路を向いている。黒い猫に車が近づく、運転手は速度を緩める気が無いらしい。

「轢かれるぞ、糞猫」

そう、黒い猫の居る方を向いて意味も無く呟く。此方が出した声は小さかった。所謂独り言のようなモノ。この程度の声ならば誰も気にはしないだろう。黒猫の方を見ていれば微かに耳が動きダッと走って向こう岸へと消えて行った。その際の車のタイヤと黒猫との距離はほんのわずか。見事に黒猫は迫ってきていた車を回避したのである。この一種の感動的な場面を前にして拍手を送る人はいない。むしろ先程と変らず周囲の人は歩いたままである。その周囲の反応を見て、矢張と僕は考えるのである。あぁ、彼方側であったかと。

別に、此処まで現代人は薄情になったのか、世間で活気となっている動物愛護は嘘であったのか、と、今流行りであるSNSで今の一連の動画が拡散されればそう訴えられそうなモノであるが、それも土台無理な話だった。そもそも、見えていればの話である。黒い猫が走った先には人がいた。黒い猫も人もどちらも譲らず結果黒い猫が人の合間を縫って走り抜けて行った。器用に抜けた黒い猫に対して歩いている人は最後まで足元を見る事は無かった。つまり、そう、いう、事なのである。あの黒い猫は此方側のモノでは無いし、此方側の人は稀で無ければあの猫を拝む事は無い。つまり、あの黒モップ猫は異形なのである。道路へと顔を向けて止めていた足を再度動かす。猫の行方を追って見ていたが、端から見れば立ち止まっている自分と言うのは対岸の女生徒の姿を凝視している気色が悪い男子生徒と映っているだろう。同じ高校の制服を着ている人は周囲に沢山いる。けれど、誰一人として異形であるあの黒モップ猫を認識していない。此処で一つ厄介な印象を持たれるとたまらない。動きだした体を前へと向けて目的の場所である帆江瀬高校へと向かう。歩きながらも一つ、気になる事があった。それは異形である黒モップ猫の事では無い。先程の女生徒が身に付けているモノの事。此方は足元しか見ていないがヒラヒラと黄色い布のようなモノが見えた。黄色い薄布の天蓋を頭にでも付けているのだろうかと考えながら此方は下を向きながら歩き続けた。


 帆江瀬高校に転入して初日。僕が抱える秘密を他人に共有しない為、僕はとある目標を掲げていた。人との交流を必要最低限にして不必要な馴れ合い極力断ち切った学生生活を送る事。それが、僕が掲げる目標である。まぁ、この目標達成の為に方に力を入れる事は無い。   

生来人付き合いが苦手である此方の行動を見れば大概の人は交流を持とうとするのを諦めるモノなのである。僕は初対面の人がたいそう苦手であり、話す時には必ずと言って良いほど言葉に詰まり、目が不自然に四方八方に回ってしまい、結果、此を見た大概の人は察してくれる。向かい合って話す時に挙動不審であったり、目が合わなかったり、所々言葉少なく話していれば相手が勝手に解釈しそれ相応の対応をしてくれる。高校にまでになれば察せられない人は少ないものだし、もしそうした人が居るのならば直接言えば良いのである。たどたどしい拒否する言葉を言えばそれで終了。此方はなるべくして一人となる。此は、自然の道理であるし僕自身が此に不満を持った事等一度も無い。むしろ、此方の秘密も守れる結果と成るので、逆に合理的では無いだろうか、と、考える。「合理的」と表現するのは間違っている気がするが、今はどうでも良い。唯、一つ困るのは此のどうしよう無い僕の姿を見て「格好付けた孤高を目指している人」と他に勘違いされる事がある。それは違う。あくまで僕はクラスには一人いるどうしようもない程にコミュニケーション能力が欠如している人でしか過ぎない。何にせよ、あからさまな拒絶をしてまでこの面倒な僕と交流を持とうとする人は阿呆でしか無く、中々に存在しない事は明白だった。

だから、転入当初というのはたいそう楽観的に考えていた。何の因果か僕の両親は転勤が多い人だった。幼い頃に何度かの引っ越しを経験していた。其処で培った技術というのは微弱なものであったが、この歳までくれば転入における対応等手慣れたものとなっていた。修練し終えた兵士でもあるとも個人的には考えていた。何時もの通りクラスでは浮かずに誰の記憶にも残らずひっそりと学生生活を終える。加えて秘密も守る。それが今の僕が夢見ている学生生活だった。

と、楽観的に幾ら考えた所で結局僕は、転入初日が一番嫌いだ。どう足掻いても転入生と言うのは目立つ存在である。無造作に浴びせられる様々な視線というのは此方を攻撃する。例えそれが悪意の元でのモノで無くとも受け取る僕からすれば唯々恐怖対象となるのである。向けられる視線の区別をせずに気にしていない体を繕い鈍感に過ごす。心の中で向けられる視線に怯える自分を落ち着かせる為に唱えるのは「誰もお前に興味等持ってはいない」という言葉。転入初日でおきる行事のクライマックスである朝のHR後。一限目の始まる前の休み時間。此処で積極的に隣の席等に話しかけに行く方が良い事は解っている。解っているのだが、敢えて僕はその労力を此処で惜しむ。この学校は指定鞄がなかった為、僕は前々から使っていた黒のリュックサックを使っている。そのリュックサックから本を取り出して読み出す。読書というポーズをとってしまえば、其処に敢えて話しかけてくる人は格段と減る。目を教室の端から端まで本から上げて動かす。周囲を見て此方に向けられている視線を気にする。ポーズを取りながら、話しかけてくる人は居ないのか確かめる動作である。此は。確かめた結果、両手に様々な視線が刺さる。文庫本を持つ左手は黒のフィンガーグローブで覆われている。膝の上に載せている右手も黒のフィンガーグローブで覆われている。爪を保護する為に付けているモノなのだが、これが、たいそう他から見れば目立つ。両手の黒のフィンガーグローブを付けている様は高校生男子とするならば異様である事は百も承知している。目立つのは吐くほどに嫌いである。両手に好奇の目が寄せられているのも嫌である。けれども、この黒のフィンガーグローブを付けているのは他と約束した事だから。大切とも言えるが、限りなくそうは言いたくない、人?、との、約束で僕はこの目立つ黒のフィンガーグローブを付けている。上質な皮で出来ている事が何となく解るこのグローブは滑り止めの機能もあるようで片手で持っている文庫本が滑り落ちる事は無い。教室の端の席で黒のフィンガーグローブを両手に身に付け黒のカバーがついた文庫本で読書というポーズをとっている此方というのは近寄り難く、他には異様とも映っているのだろうか? 異様で良いのである。この程度で目立つ事など時間の経過と共に風化していくだろうし、直ぐに気にはならなくなる。人の脳は優秀だから、クラスメイトは何もしないどうしようもない僕を直ぐ様背景と認識してくれるだろう。そう、手に向けられる視線に処理をする。此方の視線は手元へと戻っていた。文庫本を開いて数頁目でクラス長から話かけられた。

偶然隣の席に座っているクラス長である生徒は優秀であった。朝のHR時に皆の前で自己紹介を終え、偶然早く終わった時にクラス長は初対面である此方に対して柔やかに微笑みながら軽い説明をしてくれた。その時の僕というのは今までの癖で視線が合わないよう自然と目を動かしていた。人付合いが苦手な僕は人の目を見るのが極端に恐ろしく感じる。だから、四方八方と目が自然に動くのである。動く此方の目を時折気遣うように話すタイミングを伺うクラス長の姿勢は対人関係の対応として上級クラスである事が容易に窺えた。クラス長の言葉・行動は眩し過ぎて此方が目眩を起こしそうになるというのが初対面での正直な感想だった。品性誠実という言葉を体現したようなクラス長は挙動不審である此方を気遣う。その姿勢は他の生徒と同じように平等である事は暫く見ていれば解る事なのである。クラス長と初遭遇後、先程の遭遇に対する思考を整理する。僕からすれば、自分なんぞ絶対関わり辛いだろうに、と、一人卑屈な思考になりながら件のクラス長へと思いを馳せる。「僕だったら、こんな奴、嫌だね」と内心呟く。此方の挙動不審ともとれる振る舞いを見ても関わる態度はミリとも変らないクラス長の姿勢というのは賞賛に値するものである。余りにもその出来た姿勢に心の中でスタンディングオベーションしながらも、何処かで僕が勝手に苦しみ始め出すのである。綺麗に出来ているモノを見ると照らされた僕の醜い部分が嫌様にも解ってしまい、人付合いがままならない僕があぶり出されるのである。だから、クラス長を見ると眩しくそれで目眩を僕は起こし、僕が勝手に一方的な苦手意識を持つのである。幾らその姿勢に一方で歓声を送ろうとももう一方では苦手故の拒否反応が出る。故に、正直に言えば僕はこういう出来た人が嫌いだ。

クラス長は女生徒だった。利発そうな女の人。よく見もしないでそう勝手にラベル付けする。透き通る水色の海月型の笠に薄黄色の天蓋、クラス長が身に付けているモノだった。薄黄色の揺れる縦状の布製の天蓋を見ながら、今朝黒い猫と後一歩でぶつかっていただろう人物がクラス長だった事に気付く。透き通る薄水色の笠から覗く栗色の髪。その髪が揺れるのを見ながらクラス長の説明を聞いていた。話す口調は静かなもので、同じ年数を歩んできた人とは思えなかった。思わず、罪の告白をしたくなるような、此方の深淵を掘り起こす、そんな声をクラス長はしていた。それが、クラス長の人徳故かは全く興味が無かった。初遭遇の時に話していた内容は学校案内について。昨日安蘇教師と校舎を見て回ったが、それを知らないのかそれとも編入生に対するマニュアル行動なのかクラス長は此方に学校案内をしたがる。その時話していた内容の最後に言っていた事は、副クラス長が此方と同性であるから、その副クラス長と回った方が此方の気が楽だろうという気遣いの言葉だった。それから、少し間が空いて今に至っている。

話しかけてきたクラス長は少し申し訳なさそうだった。此方の様子を伺うかのような声だのに、その実は有無を言わさない。話しかけられた際に体がびくりと動いてしまった事に対しては申し訳なさを憶えるモノだったが、ソレに対しての申し訳なさだったとするならば、随分とクラス長の態度と言うのは癪に触るモノとして映ってしまう。

「少し大丈夫でしょうか?」

と言う声に対して、否、と答える意味は無かった。読もうとしていた文庫本等ポーズの一貫に過ぎない。けして中身が面白くて読んでいるのでは無く、惰性で読んでいるもの。此方は少し間を空けてから答えた。

「ん」

それ以上に言葉がスラスラ出る事は無く、言葉少なく反応するのは何時もの事。顔を見る事のない目線はゆらゆらと揺れる天蓋を見て、また違う所を見る。止まる事の無い、不自然な程の態度の中で周囲の様子を見わたす。それ程までに注目が集まっていない事を確かめながらも目の端に止まったのはとある生徒だった。その生徒から一度視線をクラス長へと戻す。此方を驚かした事に対して軽い謝罪するクラス長の声は優しく気遣っているのが解る声だった。その謝罪する声は此方の癪に触るモノだったが、同時に此方の事を人付合いが苦手そうに見える事を裏付けるモノであって、僕はそれを聞く事で心底それを向けた相手に対する嫌悪を抱き安心する。安堵の息を心の中で吐き出しながら先程のとある生徒を見詰めるのだった。


 黒いモップ猫がいた。


 教室の中心の方に座る生徒の上に確かに黒いモップ猫がいた。それは朝見た彼方側の猫と同じ容姿をしており、朝の猫である事は明白だった。その黒い猫に乗っかられている生徒は朝であるのにも関わらず机に突っ伏して寝ている。起きる様子が無い。余程昨晩徹夜をしていたのだろう、と見当違いな考えは乗っかっている猫を見て起きる事は無かった。あの黒モップ猫は恐らく触れたモノに対して何か作用する働きがあるのだと、一人突っ伏している生徒を見ながら予測を自然と立てる。何とも、朝からご苦労な事だな、と思いながら心の中で合掌する。異形によって起きる予測不可能の事態は厄介である。周りに見える人が居るとは限らないから、理解を得にくいし、何よりも、説明がしにくい。黒モップ猫からすれば唯、モノに乗っているだけだろうが、乗っかられた相手からすれば災難に過ぎない。大きく口を開けて鳴いている黒モップ猫が目に映る。何て糞猫。お前の自由極まり無い行動のせいで一人犠牲になっているのだと言うのに、それを気にせず、尚且つ此方を馬鹿にしたように鳴いている様に見えもする。だから、糞猫。本当に猫なのかは知りもしない事だし、そもそも、あの糞猫は異形である。人と言うのは手持ちのカードでしかモノをみる事が出来ない。糞猫を見た時に、形が限りなく似ていたのは猫とモップであったから、黒モップ猫と呼ばれているのだろう。でも、やる行動は害でしか無い上に解った上でそういった行動をとっているように見えるから僕は糞猫と呼ぼう、と、内心考える。あの、黒モップ猫は時折此方を見て鳴くのである。周波数が合わないのか生憎その鳴き声は聞こえない。鳴いている間の糞猫の顔と言うのはたいそう此方を馬鹿にしているように見える。黒モップ猫の何処に目が付いているのかは解らないがポカリと空いた口の揺れ具合とそれに合わせて挑発的に揺れている尻尾。丁度今も此方の方を向いて鳴いている。聞こえもしない音を鳴きながら此方を馬鹿にしているように糞猫は尻尾を揺らす。せめて、突っ伏している生徒の上から立ち去れば良いモノをと思いながら見続ける。正直余り見続ける事などよくは無いと解っているのだが、気になるモノである。朝の様にきっと糞猫は勝手に何処かに行くだろうから、此方が出来る事等は無い。野次馬的な立場で見続けている、と、言うのは余りにも乗っかられている生徒に酷い。なので、クラス長の方を見れば此方では無い方に興味がいっているようだった。何を見ているのか視線を追おうとするが、それも一瞬の事。此方へと視線を戻し口角を上げながら朗らかに先程の続きの言葉を言おうとする。音になる直前に他所で目立つ音がした。結果此方がその言葉を聞く事は無かった。


「黒モップ猫が出た。各自、此処から離れろ」

件の生徒の方でそう、声が張り上げられた。その、張り上げられた言葉の内容に此方は一度思考停止し、大きく見開いた目で此方は件の生徒の方へと視線を向ける。件の生徒の背は黒く侵食されていた。あぁ、其処まで侵食するタイプの異形だったのか? と思考停止する脳でぼんやりと思っていれば、其処へ、一つの手が伸びる。その、伸びた手を見た事で尚更に思考の復旧が遅れ、自然と視線は伸びた手から方へと動いていた。辿った先に居たのは袖が余った制服を身に纏う男子生徒だった。その男子生徒は糞猫に向かって手を伸ばし追い払う様な仕草をしながら言葉を紡ぐ。


「うるさい」

その一言が黒い猫に通じたのかは解らない。けれども、件の男子生徒の背に乗っていた黒い猫はぬるりと動き背から降りた。

「猫が動いた。窓側へと向かっている。教師が来るまでホウライさん以外は廊下へと出ていろ。アレは俺が引き受ける」

重ねられた言葉に対して此方以外で息を飲む音がした。僕は此処で周囲という存在を思い出した。思考停止した切欠となった出来事で手一杯だったせいで此処が教室で僕以外の他者が多くいる事を自然と消して考えていた。教室の空気を窺えば何時の間にかピンとした糸が張られた様子に成っていた。男子生徒の言葉によって徐ろに動き出す生徒、険しい顔をして残る生徒、動かずに顔だけを強ばらす生徒。その中で此方の席の前に立っていた筈のクラス長は廊下へと動き出していた。クラス長が教室の扉の外の廊下に立つと口を開き言う。

「此方です。此方にいらしてください。落ち着いて下さい。煙先生、黒モップ猫は先生の前に居るのですね?」

その言葉は男子生徒へと対する確認だった。男子生徒一度クラス長の方へと目を向けると頷く。直ぐに視線は戻りクラス長の言う黒モップ猫の方へと向けられている。男子生徒が立っている場所は件の生徒の席から後ろ二席へとずれた所。その周辺の生徒は居なかった。男子生徒の一言目の時、目の端に動く生徒が何名か見えていた。早々に移動していたのだろう。

「煙先生、安蘇教師呼んでくる!」

違う声が入りその後に廊下を駆けていく音が響く。男子生徒が一言目を発した時から、教室は喧騒で溢れた。その音から此方は少し距離を取る。耳には様々な音が聞こえていた。焦る声、それを宥める声、その中で一際目立つのが男子生徒とクラス長の声だった。僕は、混乱していた。ぐわんぐわんと世話しなく動く頭を働かせながらどう動くべきか考える。前の日常では異形は非日常の象徴だった。だから、僕みたく夢見人も少なく認識できるのは僕ぐらいだった。だが、此処帆江瀬では違うらしい。僕と同じく夢見型と分類されると思われる人は普通に僕意外にも居るようであって、異形の居る日常があって、その対処が確立されていると思われる。少なくとも、今起こっている事はそうだと思えた。それが、此処での日常の一コマとなる。朝の様な異形が居た所で気にしない、と、言う事は此処では起きないらしい。以前、僕自身の見える世界について両親から説明を受けた事がある。その時に帆江瀬のような場もある事は聞いていた事を思い出す。だから、知らなかった訳でも無く、今起きている事が解らないとはならない。けれども、実際に見るとなれば全く違った衝撃が身を襲い、動きを封じるモノなのである。僕は混乱の余り、思考を沈めていた。沈んだ中に聞こえる喧騒は距離を取った以上に聞こえ辛く、且つ、見える景色は制限される。だから、浮上した際に流れ込む情報量の多さで遅れを取らざる終えなくなる。

「只野経君!」

 その一声で思考が浮上する。目に映っていた机の景色から切り替わり教室の内側が映る。此方を引き戻した声はクラス長が発したモノだと推測する。廊下に繋がる扉の片方からクラス長が焦ったように此方を覗いていた。そのクラス長の視線の先を辿ると此方が座っている席の一歩隣が映る。其処には黒くモップのような尻尾を揺らし、此方を馬鹿にするかのように煽っていそうな鳴き声を上げているであろう糞猫がいた。糞猫の一歩後ろ見上げれば居るのは先程他の生徒を先導していた男子生徒。急激に音量が上がった喧騒に此方の耳は劈かれ、もう一度周りの景色を見わたした所で僕は悟る。これは、不味い。と。

 今此方が置かれている状況は一言で言えば目立っていた。教室内にいる糞猫に対して各自は定められている行動をしている中、此方は取り残されている。何とも一人だけ外れた行動をしていた。此が他にどう映るか等、考える事も無い。僕が思い描く学生生活からかけ離れていく足音が聞こえそうな幻聴を憶えそうだった。一つ救いがあるとするのならば今日が転入初日である事。何も、把握出来ておらず、何も見えていない、人、と他に映っていればまだ此方の此からの生活に救いがあると言える。

 けれども、それが叶わない事は僕自身が一番に解っている事だった。手を伸ばせば届く距離。椅子に座った此方は首だけを糞猫の方へと向けている。此方の目に映るのは黒く、ごわごわとした体毛。その奥にあるのは底が見えない黒いモノ。血が通っている肉体では無いと直感的に思う。人を煽っている様見え鳴き声を上げる口は空いていて、其処が本当に口なのか確証も無い。けれども、尻尾を揺らし、ポカリと空いている姿を見て此方は手持ちのカードから猫が鳴いていると決定付けるのである。糞猫の口の中を覗かないのは防衛本能からだろう。だが、此方は身を乗り出して見てしまうのである。糞猫の口の奥、奥行きのある黒色のモノを見据える。其処にはきらりと煌めくモノが瞬き映る。思わず、その煌めきに対して手を伸ばしてしまう。脳裏の何処かでこの行動が不味いと思っていても、目の前に広がる此方の姿を反射する事の無い異質な黒に魅入っていた。

また、喧騒が遠のいて行く。此の騒動が始まってから僕はずっと何処か隔てた所にいた。偶然自分の席となった窓側一番後ろの席から教室中心で起きている事を枠外から観覧している気で見ている。それが例え此方に注目が集まり其処が枠外で無くなったとしても変らない。僕は、目の前に居る異質な黒を纏う猫に魅入っている。異形と僕が成立して、その間には誰も居ない。此処で一つ発見した事がある。僕は抱えている秘密を守る事以上に、目の前に居る異形に魅入られている。あぁ、僕は異形と学生生活を天秤にかけたら当然の如く傾くのは異形の方だった。あれほどまでに、どう、見られるのか気を使った所で徒労にしか過ぎない。今、僕は異質な黒を纏う糞猫に魅入られている。


伸ばした手が、その黒を掴む事も、触れる事も、あり得ない。あの、奥に見いだした煌めきに辿り着く事も、一生あり得ない。けれども、手は伸びる。沈めた思考の中、求めたのは異質な黒の奥だった。


黒、と、此方、の間に割り込むモノがあった。噎せ返る様な紫煙の匂いがした。


 異質な黒と此方の間に袖の余るブレザーが入り込む。視界に広がるのは厚手の生地の黒みの藍色だった。奥行きなどありやしない。平坦な、影が重なって暗くなる視界の中、紫煙の匂いが鼻腔を過ぎる。伸ばした手が誰かに掴まれた。其処から、体温がして、沈めていた思考が浮上する。喧騒が戻り、様々な音が存在を訴え始める。

「黒モップ猫確保確認」

「此方、安蘇。無事黒モップ猫を確保いたしました。生徒に被害はありません」

「はい、はい、お前等、此で大丈夫になったから各自席に戻りなさい。あぁ、それと、煙先生、只野経を保健室に連れていってくれないか。少し、驚いたようだから」

「解りました。安蘇教師」

視界に藍色と影以外の色が映る。割り込んでいたモノがどかされたのである。先程と変らず聞こえるモノ、見えるモノ、気分はずっと枠外の観覧席だった。ふと映ったのはあの糞猫が居た場であった。糞猫は居なくなっており、周りを見わたして見れば廊下からまばらに人が入ってきている。目の端にクラス長と目があった気がした。しただけだった。だから、安堵した笑みを浮かべて近付いてきているのはきっと違う人に向けているモノだ。袖を引かれた。見上げて、目が合ったのは黒縁眼鏡から覗く碧の目だった。

「保健室、行くぞ」

地を這うような低い声で袖を掴んだまま、黒縁眼鏡をかけた男子生徒は歩き出す。此方は引かれる袖の儘立ち上がり男子生徒の後へと続く。黒縁をかけた男子生徒は、あの騒動の時に最初に黒い猫に対し声を上げた人だった。教室を出た所でふわりと目の前を歩く男子生徒から強く噎せるような苦い紫煙の匂いが漂う。その匂いでこの男子生徒が先程、糞猫と此方の間に割り込んできた生徒だと気付く。まだ、春の冷たさが残る廊下を歩く。脳裏に蘇るのは昨日図書室の紫煙の匂いだった。

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