第7話 おれの七日目

 眩しさに目を開いて伸びをした。

 夕べはあのまま、このベンチで眠ってしまったようだ。

 眩しいのは水面に朝日が当たっているせいか。


「こんなところで眠っちまっても、体のどこも痛みやしねぇか」


 こいつは楽でいい。

 寒さも暑さも、特に気にならないのなら、このままこの世でフラフラしててもいいのかもしれない。

 しばらく海を眺め、和恵の家を探しに出ようと立ちあがった。


「え……おい、なんだよ、おまえ。こんなところにいやがったのか?」


 隣のベンチに腰をおろして海を眺めている横顔は、和恵だ。

 ずいぶん、ばあさんになっちまったけれど、紛れもなく、おれの最初の女房だ。

 おれと暮らしていたころは、地味な女だったけれど、黒のニットとパンツにベレー帽をかぶり、やけに洒落た格好だ。


「ずいぶんと小ぎれいになっちまったな……久しぶりで驚いちまったぜ?」


 和恵の座るベンチに近づきながら、そう声をかけた。

 聞こえやしないのに。


――ったく……ロクでもない事故を起こしちゃって……なによ? 飲酒運転? バッカじゃないの?


「……は? なんなんだよ? おれのことか?」


――当り前じゃないのよ。昔からロクデナシだと思っていたけど、ここまでとはね。


 和恵は大きなため息をついて、まったく馬鹿にもほどがある、という。


「なんだよ? おれのこと……まさか、見えてるのか?」


 はぁーっと、またため息を漏らした和恵は、まだ海に目を向けたままだ。


――見えてるわけないじゃあないの。見えてたまるか、って話しよ。顔も見たくないんだからね。


「だ……だっておまえ、おれと話してるじゃあねぇか!」


 和恵はポケットの中からのど飴を出して、口に頬り込んだ。


――早く別れておいて正解だったわ。一緒に暮らしていてこんなことになったら、知美ともみ巧斗たくとにまで迷惑をかけることになったんだから。


「ああ、そうだ! 知美と巧斗、ヤツらはどうした? まだ一緒に暮らしてるのか?」


――まぁ、これでもう、うっかりでも顔を合わせることがなくなって、清々したわ。


「おい! なんだその言い草は! おれだってな、別に事故を起こそうだなんて――」


――ってね。もしもここにいたら、あのクソ野郎……どうせ言い訳ばかりしてるんでしょうよ。あんた、もしもそこら辺をウロウロしてるんだったら、とっととあの世でもどこでも、いっちまいな。


「和恵、てめえ――!」


――おかあさん!


 フェリー乗り場のほうから、ベビーカーを押した女が近づいてくる。

 和恵を「おかあさん」と呼ぶっていうことは、知美か?


「知美か! やっぱり結婚していやがったのか! どれ……孫の顔でもみてやろうか」


――近づくんじゃないわよ!


 一歩、足を踏み出した瞬間、和恵が押し殺したような声でつぶやいた。

 やっぱりこいつ、おれのことがみえているんじゃあねえか?


――知美、わざわざ来てくれたの? すぐに帰るのに。


――だって、ここまで車通りも多いんだし、心配になるでしょ。


――悪いわね。それじゃあ、帰ろうか。


 和恵はベンチから腰をあげると、なぜか杖をついて「あいたたた……」なんて言いながら立ちあがった。

 いくら歳だといっても、まだ五十五歳だ、杖は早いんじゃあねぇのか?


――痛む?


――まあね。あの馬鹿男のおかげで、昔っからロクなことがありやしない。


「おまえの足が悪いのは、おれのせいじゃあないだろうが!」


――子ども用のパイプ椅子でなぐられたんだっけ?


――そうよ。太ももに当たってさあ……ここ何年も痛まなかったのに、急に痛みだしたと思ったら、あのニュースじゃない?


――ホント、ロクな父親じゃあなかったね。


「パイプ椅子で殴った? おれが?」


 和恵と暮らしていたころ、おれたちは良く喧嘩をした。

 というか、一方的におれが怒っていたのかもしれない。

 確かに、叩いたことも蹴ったこともあったし、テーブルをひっくり返したこともあった。


 つまみが気に入らなくて、酒をぶっかけたこともあったし、部屋が片付いていなくて、転がったおもちゃを外へ投げ出してやったこともあった。

 仕事だからといって、総菜を買ってきたときには捨ててやったこともある。


 麻雀やスロットで負けて給料を全部つぎ込んだことも、一度や二度じゃあない。

 生活費がないとうるさく言うのが煩わしくて、家から閉め出してやったこともあった。

 けど、そんなこと、おれに限ったことじゃあないだろ?

 おれを怒らせた和恵おまえが悪いんじゃあねぇか。


――今でいう、DVってヤツよね。昔はそんな言葉もなかったけど……。


――別れてホントに良かったじゃん。


 そんな会話をしながら、二人は遠ざかっていく。

 呆然とそれを見送っていると、後ろから悲鳴が聞こえてきた。

 公園内にいたヤツらが、次々に走っておれたちを追い越していった。


 振り返ると、刃物を振り回した男が近づいてくる。

 通り魔か!

 そいつが走り出し、その先にいるのは、和恵と知美だ。


 おれは咄嗟に、近くにいた若い男にとり憑くと、刃物の男の前に立ちふさがった。

 刃物で腕を刺され、倒れ込んだところに、数人の男たちが飛びついて、刃物の男を取り押さえた。

 他人の体だからか、おれはまったく痛みを感じないけれど、腕に刃物が刺さったままだ。


「和恵、知美、どうだ? おれがおまえたちを助けてやったんだぞ?」


 得意げに二人に目を向けると、知美は大きな悲鳴をあげ、和恵は杖をついてよろけながらも、急ぎ足でこっちへ向かってくる。


――巧斗!


「なんだって?」


 おれは体から離れ、腕を刺されて倒れた男の顔を見た。

 それは、おれによく似た顔だ。


――巧斗! 巧斗! しっかりしなさい!


 救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 誰かが通報したんだろう。

 おれは倒れたままの、息子の顔を見おろしていた。


「知らなかったんだ。巧斗だなんて、思いもしなかった……怪我させようなんて……いや、和恵と知美を助けただけだろう? おれのせいじゃねぇよ……」


 グラリと目眩がして、おれの目の前は真っ暗になった。

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