井手口 隆久

第1話 わたしの一日目

井手口 隆久いでぐち たかひさ 41歳 男 仕分け工場派遣社員】


――ああ……なんだ……。

――わたしは死んでしまったのか。


 卵型のソファーで横になったまま、わたしは呆然と天井を見つめていた。

 手にしたチケットを眺める。


 〇〇〇〇年 〇月 ×日 二十時十九分 ~

 〇〇〇〇年 〇月 □日 二十時十九分 迄


 ああ、そうか。

 残業を終えて、仕事場の倉庫から社宅に帰る途中だったんだな。

 事故のことはまったく思いだせないけれど、この時間が最後の時間なら、きっとそういうことだ。


 さっきの放送で、自由に旅を、といっていたけれど……。

 わたしには特に行きたい場所もなければ、会いたい人もいない。

 結婚もしていないから、妻子はいないし、両親も子どものころに亡くなっている。

 これという趣味もないから、見たいものも特にない。


「清々しいほどに空っぽだな……」


 わたしが亡くなったと、どこかに連絡が行くんだろうか?


「せいぜい、会社くらいか……」


 確か、緊急連絡先を提出してあったけれど、記載したのは母方の祖母で、その祖母も二年前に亡くなっている。

 親戚がいるにはいるけれど、両親が亡くなったあと、しばらくたらい回しにされ、どこへ行っても厄介者扱いだった。


 祖母の家に落ち着くまでの数年間は、実に惨めな生活だった。

 幸い、親戚の子どもたちはみな、良くしてくれたけれど……。


 そんな人たちが、わたしが死んだからといって、わざわざきてくれるだろうか?

 きたとしても、厄介ごとを背負わせてくれて、などと思われそうな気がする。


「葬式なんてやってもらえるとも思えないな……墓にくらいは、入れてくれるんだろうか?」


 それとも、誰も名乗り出てくれることもなく、無縁仏として扱われるんだろうか。

 それはそれで、構わないと思っている。


 チケットを上着のポケットにしまって、ふと顔を上げると、真っ白い壁に銀色のレバーがついている。

 あそこがドアなんだろうけれど、出ていったところで行く当てもないと思うと、立ちあがる気にもならない。


「あ……」


 そういえば、チケットを使わないときは映像をみれるとかなんとか、言っていた気がする。

 テレビでもラジオでも、なにかあれば……といっても、七日間は長い。


「まあ、仕方ないか……コンシェルジュに申し出ろといっても、どこにいるんだろう?」


 どこから光が差し込んでいるのか、銀のレバーが光って見えた。

 とりあえず、そこから出てみるしかないのか。

 わたしはレバーを握ってドアを開いた。


「井手口さま、お出かけになりますか?」


 ドアの横に立っていたのは、白髪で真っ白なスーツをまとった若い男だ。


「あ……いえ、出かけたい場所も特にないので……」


「そうですか。私はコンシェルジュのと申します」


「あ、はあ……」


 丁寧な口調で、うやうやしく頭をさげるサキカワに戸惑いを覚えた。

 自分とは、育ちも教養もなにもかもが違って見える。


「あ、あの……ですね、えっと……チケットを使わない場合は映像が見られるとか……」


「はい。映像をご覧になられますか?」


「その、映像ってどんなものがあるんですか? テレビとか映画なんかがあれば……」


「いいえ。ご覧いただけるのは、井手口さまご自身の、これまでの記録のみでございます」


「わたしの記録?」


 サキカワの説明では、見られるのは自分が産まれたときから、亡くなるまでの記憶の記録だという。

 それを聞いて、私はとても迷った。

 自分の過去をみたところで、気分が落ち込むだけのような気がする。


「映像をみられるかたは、意外といらっしゃるんですよ」


「そうなんですか?」


 人は案外、たくさんのことを忘れながら生きているという。

 悪いことや嫌なことはもとより、楽しかったことや嬉しかったことも含まれるそうだ。


「必ずご満足いただけるとは言い難いですが……映像をみてから思い出の場所へ出かけられるかたも多いようです」


「へえ……」


 そういわれると、確かに忘れていることはたくさんあると思う。

 思い出して、行ってみたい場所ができるのはありがたいかもしれない。

 それでも、わたしは少しばかり迷った。


 どちらかというと、思い出したくないことのほうが、多い気がするからだ。

 死んでまで、嫌なことを思い出す必要があるんだろうか?


「井手口さま、今すぐに決められなくても構わないのですよ。必要であれば、お呼びいただければ……」


「いえ、することもないですし……みます。せっかくなので」


「さようでございますか。それでは、ご利用についての説明をさせていただきます」


 サキカワさんは、映像は部屋のあの卵型ソファーに座っていればみられるといった。

 もう一回見たい場面に戻ることも、見たくないシーンを飛ばすことも可能だそうだ。


 テレビなどのように、リモコンはない。

 全部、思うだけでいいらしい。

 今一つ、ピンとこないけれど、サキカワさんは優しげにほほ笑んだままでいった。


「先へ進むほどに、だんだんと操作に慣れてきますので、ご安心ください」


 不明な点があれば、すぐにサキカワさんを呼べばいいという。

 手もとで操作できないのが不安ではあるけれど、まずは見てみないことには。


「それでは、これから準備をいたしますので、部屋のソファーでくつろいでお待ちください」


「わかりました」


 わたしは部屋へ戻り、卵型のソファーに腰をおろした。

 数分待つと、突然、部屋が真っ暗になる。


「あれ……? 停電? それとも映画館みたいなやつかな?」


 誰に言うともなしにつぶやく。

 妙に窮屈な感覚に襲われた瞬間、この感覚に覚えがあると気づいた。


 赤ん坊の泣き声が響き、ざわざわといろいろな声が混じって聞こえた。

 わたしが産まれた瞬間だ。

 こんなところから始まるのか――。

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