13話 7月26日 残念な可能性 七瀬凛

 わたしの発言で驚きの表情をした八神さんと目が合った。


 ごめんね八神さん。


 心の中で謝るものの、先ほど言った可能性の一つというのは嘘だった。正確には可能性の一つではあるのだが、ほぼ確定していると思っている。


 おそらく楠さんもエミリアさんも嘘はついていない。実際にふたりとも八神さんと婚約をしていたということは事実だろう。したがって、嘘をついているのは八神さんということになる。


「七瀬さん。俺の記憶がないのは嘘じゃないよ。本当に記憶喪失なんだ」


 そう訴える八神さんの顔には戸惑いのいろが浮かんでいる。


「違うんです。記憶喪失だってことは疑っていません」


 わたしは八神さんの目を見据えていった。

 

「じゃあ何を……」


 さらに戸惑う八神さんにわたしは告げた。


「記憶喪失になる前に、楠さんとエミリアさん。ふたりに対して噓をついているんです」


「ふたりに……?」


 わけが分らないという顔をして、八神さんがふたりの女性を見やる。


 楠さんとエミリアさんはおそらく気づいていると思う。婚約者がふたりいたという時点で——。

 だけどお互いに気づいてないふりをしているんだろう。誰だって自分がなんて思いたくないから……。


 いつまでも黙っているわけにはいかない。ここはわたしが言ってあげないと。


「ではもう一つの可能性なんですけど……。単刀直入に言いますね」 そう前置きしてわたしは続けた。


「八神さんが結婚詐欺師である可能性です!」


 言ってしまった……。


 自分から最強の殺し屋説を否定してしまった。あんなに盛り上がっていたのに……。まぁわたしひとりでなんだけど。


 それにしても落差がひどい。まだ確定ってわけではないけど、殺し屋から結婚詐欺師だよ。だけど、結婚詐欺の方がはるかに可能性が高い。


 八神さんは、あんぐりと口を開けたままフリーズしてしまった。楠さんとエミリアさんは、驚きはしつつもどこかあきらめにも似た悲しい表情をしている。


 沈黙が続く、誰もなにも言わない。時間ばかりが過ぎた。といっても実際には十数秒かそこらだと思うけど。


 「俺が結婚詐欺師……」


 その沈黙を破ったのは八神さんだった。しかし、その声はかすれていて単なるひとりごとだった。

 表情は変わらない。焦点の定まらない目でどこか遠くを見ている。


「はい、あくまでも可能性ですけど……。お二人に婚約を約束していて、身内は誰もおらず孤児院育ち。仕事もフリーランス。どちらも身元を証明できる人が誰もいないんです。おそらく過去を追及されないように。そういう設定でお二人に近づいたのかも……」


 わたしはそこまで言うと言葉を切った。この仮説が一番この状況を説明できる。他に何かあるだろうか? 二人の女性がたまたま八神さんを見つけ、たまたま騙そうと思い、婚約者という設定までかぶるなんてことはありえないだろう。それとも共謀して八神さんを騙しているとか……。


 再び沈黙が続く——。


「いえ、そんなことはないわ!」

 二度目の沈黙を破ったのは楠さんだった。

「そうよ!大にかぎってそんなことするはずない」

 エミリアさんもそれに続く。


「あ、あの。あくまでも可能性のひとつですから……」

 ふたりの女性に思いっきり否定され、わたしはたじろぐしかない。

 楠さんだって初めは結婚詐欺を疑っていたはずだが、ライバルであるエミリアさんを目の当たりにして、負けたくないという思いが出てきてしまったもかもしれない。もちろんエミリアさんにも同じことがいえる。


 どうしよう。余計に収拾がつかなくなっちゃった……。


 お互いに「私が本物の婚約者だ!」「騙されてるのはそっちの方だ!」と言い争いに発展してしまった。もはや八神さんが結婚詐欺師であることが前提になっているんだけど……。


「大はどっちをとるの?」

 言い争いをしていたエミリアさんが不意に八神さんに向き直った。

「どっちをとるも何もあなたは最初から対象外よ!そうよね。大ちゃん」


 ふたりとも決着がつかないことを悟ったのか、今度は八神さんを味方につけるべく争奪戦が始まった。


「いや、その……」


 ふたりに詰め寄られ、八神さんの顔は完全にひきつっている。

 この状況でどちらかを選ぶなんて、記憶があっても無理だと思うけど。とりあえずなんとか八神さんを助けないと——。でもどうやって……。


 わたしがあれやこれやと打開策を考えてるうちに、ふたりはどんどん八神さんに詰め寄っていく。


 急げ急げ。なんでもいいから早く——。


「うっ!」


 その時だった。苦し気に顔をゆがめ、八神さんが頭を抑え込みそのまま机に突っ伏してしまった。


「大!?」

「大ちゃん!?」


 それまで言い争いをしていたふたりが八神さんの異変に気づいて我に返った。


「八神さん!」


 わたしは急ぎ八神さんの元へ駆け寄り、肩を揺さぶりながら名前を呼び掛けた。しかし八神さんは完全に気を失っているようで、いくら呼び掛けても反応がない。


「早く救急車!」


 エミリアさんがスマホをとり出した楠さんに向かって叫んだ。


「わかってるわよ」


 言われるまでもないというように、楠さんが救急車の手配を始める。


 もしかして記憶が戻ったか何かして意識を失った!? マンガとかではよくある話だけど……。とにかくこの状況が過度の負担になったのは間違いない。


 なんだか大変なことになってきちゃった……。



 ほどなく救急車が到着すると、八神さんは担架に乗せられ救急隊のひとたちに連れられていった。お店はしばし騒然としたものの、今はだいぶ落ち着きを取り戻していた。


 八神さんの記憶が戻ったにせよそうじゃないにせよ。意識が戻らない限り何も分からない。今は一刻も早く、八神さんの容体が回復するのを祈るばかりだ。

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