9話 7月25日 急展開 七瀬凛

 ファミレス強盗事件から3日が過ぎていた。バイト先のディスカウントショップ片平でも、これといった混乱もなく平穏な日が続いていた。

 SNSで拡散された情報をもとに、八神さんを一目見ようと人が殺到するのではと思っていたけど、八神さんが言う通り、そういった人たちは数人程度にとどまっていた。

 思ったほど拡散されていなかったのか、あまり興味がなかったのか……。でもこれじゃあ八神さんの情報も期待できないではないか。八神さんの正体……ではなく、身元解明の足掛かりになればって事だったけど……。どうやらそれも期待できそうにない。

 わたしは閑散とした店内を見回した。ちらほらと何人かのお客さんを見かける程度だ。野次馬以前の問題だよ。今日の売り上げも危ういか……。

 

 時刻は午後2時。いつもならもう少しお客さんの数は多いはずだ。しかしこの異常な暑さのためか、出歩く人がそもそも少ない。これも地球温暖化の影響なのかな?

 都市伝説や陰謀論界隈では、地球温暖化は嘘で、利権絡みの‟温暖化ビジネス”などとして取り上げられたりもしている。勿論わたしはこっち側の支持派だが、こうも毎日暑いと温暖化は本当なのかと思ってしまう。


 バイトが終わる5時までこの暑さに耐えなければならないのかぁ……。

 わたしは内心ぼやきながら、品出しのコンテナを乗せた台車を押して店内を歩いていった。目的の商品棚のところで台車を止め、棚に商品を陳列する。場所も大体覚えているので慣れたものだ。最初のころは場所が分らず、だいぶ時間がかかってたっけ。

 

 1時間ほどで品出しを終えると、コンテナをたたんでバックルームに片づける。台車も所定の位置に片づけ終えた。時刻は3時。ちょうど休憩の時間になった。

 わたしは少しでも涼しい事務室に退散しようと歩みを速めた——その時。

「すみません」

 後ろから声をかけられた。

 うっ、つかまってしまった……と思ったが、「はい」と笑顔でふりかえる。

 見るとそこには一人の女性が立っていた。

 うわ、きれいな人!

 思わず声が出るところだ。


 恐ろしいほどに整った顔がわたしを見ていた。艶のある黒髪はセミロング。少し切れ長の目に筋の通った鼻筋。艶のある唇がやさしく微笑んでいる。身長はわたしより少し高いだろうか、すらりと伸びた美しい脚がタイトスカートから覗いている。上は白シャツ姿で、ウエストは引き締まり胸には大きな隆起が二つ。開いた胸元からはくっきりと谷間が……

「あの……」

 やや困惑顔になった女性がわたしの顔を覗き込んでくる。

「あ、いや、す、すいません。何でしょうか?」

 やばいやばい、完全にエロおやじの目線になっていた。同じ女性のわたしでも思わず見とれてしまうプロポーション。どうやったらこんな身体からだになるんだか、うらやましい。

「あの、こちらに八神大智さんはいらっしゃいますでしょうか?」

「八神さん?」

 思わずわたしは聞き返した。

「はい」と、女性は真剣なまなざしをわたしに向けてくる。

 八神さんを訪ねてくるという事は、例の事件のことだよね。

 もう一度女性をよく見てみる。ほんときれいな人なんだけど……。どう見ても野次馬ではないなは確かだ。キャリアウーマンって感じだし、テレビ局の取材かな? とか考えながら「すいません。八神は今日はお休みなんですよ」と伝えた。

「そうなんですか……」

 女性は一瞬表情をくもらせたが、「明日はいらっしゃいますか?」と聞き返してきた。

「明日は出勤なのでいますけど、失礼ですがどなた様でしょうか? 八神本人にも伝えておきますので」

 テレビの取材を警戒して、わたしは探るように聞いてみた。

 すると女性は「失礼しました」と笑顔で謝り「私ったら自己紹介もせずに……」と、あらためて姿勢を正した。

「私は楠瑞穂くすのきみずほ。八神大智の婚約者なんです」

 楠瑞穂と名乗ったその女性はそういうと、にっこりと微笑んでみせた。

「そうだったんですね……って、えっ!?」

 今なんて言った。こ、婚約者って……。

「すいません。驚かせるつもりはなかったんですが、大ちゃん……彼が、こちらで働いているとお聞きしまして……」

 突然の事に言葉を失ったわたしに、彼女、楠さんが申し訳なさそうにそう言った。

 婚約者ってことは婚約者で……。八神さんの事を知ってるってことでもあるんだよね……。

 頭の整理が追いつかないわたしは、必死に冷静になろうと自分に言い聞かす。

そんなわたしをよそに楠さんは話を続ける。

「一か月ほど前でした。彼が突然いなくなり、行方不明になってしまったんです。初めは結婚詐欺を疑ったりしたんですが、別に何も取られていませんし、そもそも彼がそんなことするはずがないと……」

 楠さんはそこでいったん言葉を切ると、悲しそうな顔をした。

「少しでも彼を疑った自分に腹が立ちました。警察はあてになりませんでしたから、すぐに探偵を雇い彼の行方を調べてもらったんです。ですが手掛かりどころか何も分かりませんでした。途方に暮れていたそんな時です。SNSに彼の動画がアップされていると連絡があったのは」

 あの事件の動画だ。

「すぐに探偵の方に調べてもらって、いろいろ分かりました。発見された時の状況や記憶喪失の事も……」

 一気にそこまで話をした楠さんは、暗い顔でうつむいてしまったが「ごめんなさい、初対面の人にこんな話を……」と、恥ずかしそうにわたしに顔を向けた。

「いえ、そんなことありません。それより八神さんの事を知ってるんですよね? 八神さん、まだ何も思い出せていないみたいで……」

 まさか本当に八神さんの事を知っている人物が現れるとは——しかもこんなに早く!

「そうですか……やっぱり何も覚えていないんですね……」

 楠さんはさらに表情をくもらせると、再びうつむいてしまった。

 そりゃがっかりするよ。せっかく見つかったと思ったら記憶喪失なんだもん。しかも婚約者が自分の事を覚えていないなんて……悲しすぎる。

「今すぐ八神さんに来てもらいましょう! わたし連絡しますから! 楠さんに会えば何か思い出すかもしれませんし」

 そんな楠さんに、わたしはすぐにスマホをとり出すと、八神さんに連絡しようと提案してみたのだが……

「待ってください」

 と、楠さんに止められてしまった。

「すいません。まだ心の準備ができてなくて……。それに、彼も急に会うことになったら動揺すると思いますので、明日また出直します。彼にもこのことをお伝えください……えっと」

 楠さんは私の胸のあたりに視線を移して「七瀬さんとおっしゃるんですね」

 ネームプレートを確認していたみたいだ。そういえば自己紹介もしていなかったではないか。

「あ、七瀬凛って言います」

 わたしは慌てて頭を下げる。

「七瀬凛さんね。初対面でこんな頼みごとをしてしっまって申し訳ないけど、よろしくお願いします」

 そう言って楠さんは「失礼します」と深々と頭を下げ帰っていった。

 しばらく楠さんの後姿を眺めていた私だったが、ふと我に返る。

 こうしてはいられない。早くこのことを八神さんに知らせないと。八神さんを知る人物が現れないかと思ってはいたが、まさかこんなに早く、しかも現れたのが婚約者だとは夢にも思わないだろう。

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