10話 7月26日 婚約者の事 八神大智 

 今日は朝から落ち着かない。いや、正確には昨日からだ。


 仕事の日課になっている清掃作業を終わらせて、事務室で休憩をしていたところだ。手に持った缶コーヒーを一口すする。


「あれ?」


 もう空になっている。いつの間にか飲んでしまったらしい。俺は椅子から立ち上がると、空になった缶をごみ箱へと投げ捨てる。休憩しているより体を動かしていた方がいくぶん落ちつく。


 俺は早々に休憩を切り上げると、仕事を再開すべく事務室を後にした。


 店内にお客さんの姿はあまりない。連日の暑さで客足が遠のいているようだと店長が言っていた。確かにこの暑さでは出歩きたくなくなる。


 俺はガラガラの通路をバックルームへと向かう。朝のうちに確認していたが、今日の品出しのコンテナの数は少なかった。お客さんも少ないし、今日の品出しはすぐに終わりそうだ。


 バックルームに入ると4段積みのコンテナが2列並んでいる。そのうち片方の4段を引いて売り場へと向かった。


 黙々と商品を棚に陳列しているが、やはり七瀬さんからきた昨日の連絡が頭から離れない。


『八神さんの婚約者だと名乗る方が訪ねてきました!』


 しばらく固まったまま呆然としていたのを思い出す。意味を理解するのに時間がかかった。


 俺を知る人物が現れるどころか婚約者が現れるとは……。


 婚約していたことに驚きを隠せない。記憶がないのだから可能性としては考えたこともあったし、結婚している可能性も考えたことはあった。しかし、全国の行方不明者捜索依頼にも俺の情報らしきものは何もなかったことから、そもそも身内が誰もいないのではないかと考えていた。それが——


 今頃になって現れるとは……


 SNSの拡散力によるものだと言われればそれまでだが、じゃあなぜ捜索依頼が出されていない。いくら警察が信用できないからといって探偵にだけ捜索を依頼するだろうか、普通婚約者が行方不明になったら警察にも届け出ているはずだ……。


 初めは自分を知る人物が現れたことと、それが婚約者ということに嬉しさと驚きで頭がいっぱいになっていたが、冷静に考えてみれば怪しい面も見えてくる。


 SNSで俺を見かけた暇人ひまじんが、ただ俺をからかっているだけ。婚約者を名乗っていることから俺を騙す目的で近づいた。いや、俺が記憶喪失だってことも知っていたから、わざわざ支援団体に問い合わせしていることになる。騙すだけだったら普通に知り合いを名乗ればいい……


 なら本当に婚約者なのか……


 だめだ。考えれば考えるほどわからなくなってくる。素直に喜ぶ事ができればいいのだが、どうしても一つの懸念が頭をよぎる。


 俺はヤバいやつだったのではないか——


 ということだ。

 そもそも意識不明で海の上を漂っているところを助けられ、身分証もなにもない、持っていたのは写真と自分の名前だと思われるものが書かれたカード一枚。警察が捜査してもいまだに身元が不明のまま。銃を持った相手に冷静に対処している自分。その動画をSNSで拡散されたとたんに現れる婚約者。どう考えても俺は普通の人ではないと思うのだが……


 もし仮に俺がヤバいやつだったとして、こんなことを考えてしまう。


 1 殺されて海に捨てられたが実は生きていて偶然助けられた。   

 

 2 しかしその時の影響で記憶喪失になってしまった。

 

 3 記憶がないから平凡に暮らしていた。

 

 4 銃を持った男による強盗事件が起き、それに冷静に対処し男を取り押さえる。

 

 5 その時の動画がSNSで拡散され、俺を殺した相手の目にふれてしまう。

 

 6 殺したはずの相手が生きている。刺客を送り込んで確実に殺さねば……


 わかっている。こんなマンガみたいな映画みたいな話はあるはずがない!あるはずがないが……可能性はゼロではない。


 いやいや、どうしたんだ俺は。妄想がひどすぎるぞ。突然婚約者が現れて動揺しているだけだ。落ち着け……


 とりあえず婚約者に会うとしても警戒しておくことにこしたことはない。油断しないようにしておこう。


 そう自分に言い聞かせ気持ちを切り替える。ちょうどコンテナも空になったところだ。残りの品出しも終わらせてしまおうと、バックルームに向かう途中で店内放送の声が告げる。


『従業員のお呼び出しをいたします。八神さん。お客様がお呼びです。事務室までお越しください』


 ——来た!


 俺ははやる気持ちを抑えつつ、バックルームに空のコンテナをしまうと足早に事務室へと向かった。


 普通に考えれば婚約者に会えてハッピーエンド。しかし、俺自身が普通ではない。普通ではない者には普通ではないことが起こる。記憶はないが何となくそんなことを思ってしまう。いや、感覚がそうだと告げている。

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