第7話

 気がつくと物置のような部屋にいた。

「お前らぜんぜん帰ってこねえじゃねえか!!」

 ぬりかべに触手を生やした生物からブチギレられた。

 まったくもって真っ当な怒りであり、反論の余地が一切なかった。

 ただ言い訳はさせてほしかった。

「違うんすよ。べつに騙して脱出してやったぜうほほーいとか思ってたわけじゃなくて、本当にちゃんと破壊しに来たんすよ。で、爆弾使ったりハンマーつかったりしてなんとか破壊しようとしたんすけど、この館頑丈すぎてぜんぜんビクともしないんすよ」

 早口にまくしたてる。

 ジェーンはというと、目の前に立ちふさがる異形のバケモノに呆然と、しかし確実に恐怖の感情を瞳に浮かべていた。幼児退行こそ治っているが、未だ正常でないことは誰の目にも明らかだった。

「この星には建物を破壊する機械があるだろう。それを持って来ればよかっただろうに」

「無茶言わんでください。そんなツテも金もないし、なによりこんな山奥にあんな重機を持ってこれないっすよ」

「うむ。ジェーンくんならばなんとかできるかもしれなかったけれど、なかなかもとに戻れなくてね。もう少し彼女が落ち着くまで待っていようとなったんだよ」

「そいつはあのままだと半年は元に戻らなかったぞ。今は大丈夫そうだが」

「タイムリープには脳を洗浄する機能でもあるのかい?」

「そんなところだ。そうは言っても本能に刻み込まれたトラウマは消えないようだが、な」

 言い終える直前、ぬりかべが触手をジェーンの首筋に突きつけた。

「貴様らに選ばせてやる。こいつの命と引き換えに我を殺すか、こいつを救うために地下へ向かうか」

「……見た目によらずしたたかっすね」

「貴様らのおかげでな」

「……わかったっす。言うこと聞くんで、手出しは無用っすよ」

 両手を挙げて降参の意を示す。

「貴様だけではない。のこりふたりもだ」

「もちろんボクも行くよ。我がライバルがキズモノにされては困るしね。テイソくんはどうだい?」

「……どうと言われても、拒否権などないでしょう」

 イヤそうに顔をしかめて、彼女も手を挙げる。

「地下で俺らはどうしたらいいんすか?」

「知ってのとおりワインセラーがある。そのうちのひとつが餅川の依代だ。破壊しろ。殺せ」

「ああ、こないだ爆弾投げたら云々っつってたのそういうことっすか。最初からそう言ってくれれば良かったのに」

「言ったら協力してくれたか?」

「当たり前じゃないっすか~」

「……貴様の言葉は餅川より軽いな」

「餅川としゃべったことあるんすか?」

「いまここにいる」

「マジすか。へーい餅川くん見てる~?」

「餅川は貴様のことが大層お気に入りのようでな。今もニコニコ笑顔で貴様を眺めているぞ」

「おっ、これはイージーモードきたっすか?」

「ルナティックハードじゃないかな……」

 ツキギメがやんわりと突っこむ。

「ところで地下に降りるのはいいとして、こないだは俺たち瞬殺されたわけっすけど、今回もそうなったらどうするんすか」

「そのときは諦めてこの女も殺す。苗床は一体でも多くほしい」

「ならもっかい俺たち脱出させたほうがよくないっすか?」

「信用というのは一度失ったらもう二度と取り戻せないのだ」

「そのための人質なんじゃないんすか?」

「それはそうだが、貴様がいまこうして狙いを口にしてしまったせいで無に帰した。おそらく餅川はこのままでは脱出させないだろう」

「けど地下行ってもどうせ殺しに来るんでしょ?」

「そこは貴様の頭の使いどころだ」

「無茶言ってくれるっすね」

 あまりに無理筋な要求に、一周回って笑いがもれた。

 軽く笑って、それから深く息を吐く。

「……わかったっす。ただ、こっちからも一つ条件あるっすよ。地下行くのは俺だけっす」

「え、下僕くん、なにを急に言い出すんだい」

「俺に作戦があるんすけど、ツキギメさんたちがいるとやりにくいんすよ。あられもない姿を見せちゃうんで。テイソちゃんには刺激が強すぎるかなって」

「……下僕くん、なにを考えているんだい?」

 ドン引きされるべくおちゃらけてみせたが、ツキギメはより真面目な表情で真意を探るように尋ねてきた。

 困るね、と心の中で嘆息する。へんなところ察しが良いのは怪盗の本能なのだろうか。

 もちろん、できる限り自己犠牲を払う気はない。頭をひねって、五感をフル稼働させて、なにか抜け道を探す。ただ、どうしても絞首台までの一本道しかなかったとしたら。そのときは、自分もろとも爆破するしかない。そうしなければジェーンが死ぬのだから。

 だから、そのときにテイソもツキギメも巻きこみたくはない。

「こいつがジェーンさんに危害を加えないとも限らないんで、こっちで見張っててくださいよ」

 ぬりかべくんの集中が切れるタイミングはきっとある。その瞬間を狙ってジェーンを救ってくれ。

 口にするわけにはいかない以上、そのメッセージを目に込めてじぃっとツキギメに送る。

「いや、だが……」

「わかりましたわ。あなたのことを信じます」

 なおも口ごもるツキギメに変わって、くっきりとした輪郭の黒い瞳でテイソが応答した。

 彼女のまなざしには、たしかに光が宿っていた。きっと、彼女は彼女で己のなすべきことを理解してくれたのだろう。

「んじゃ、そういうことで行ってくるっす。ツキギメさん、ワインの好みとかあるっすか?」

「あ、ああ。ボクは甘口のほうが好みでね。ぜひ持ち帰ってきてくれたまえ」

「わかったっす」

 軽く言って、地下への扉を開けた。

 懐中電灯をポケットに入れて、梯子に足をかける。

「扉閉めといてもらっていっすか」

「わかった。なにかあったら呼んでくれたまえ」

「蓮」

 ツキギメのうしろから、ジェーンが首筋に触手をあてがわれたまま呼びかけてきた。

「あんたは、私が守るわ」

「……俺もジェーンさんのこと好きっすよ」

 言って、口端を上げてみせた。 

 ぱたん、と柔らかく蓋が閉じられる。

 さて…………?

 妙な違和感に囚われそうになった頭を振り、はしごの先に目を落とす。一度通った道だ。それほど難しくはない。一歩一歩降りる。

 さあどうするか。五周目と同様の流れで行くならば、この一本道の先の扉を開け、ワインセラーに爆弾を投げ入れるだけなのだが。

 まずは周囲に視線を巡らせる。

 地上部の廊下ほどではないが、そこそこの広さのある通路だ。

 コンクリート打ちっぱなしの空間だが、薄汚れた雰囲気はあまりなかった。むしろ、その無骨さがオシャレさを演出しているようにすら見える。改めて確認して、地上階の変な構造と比べると随分センスの良さを感じられた。

 さあどうするか。プロテインバーをポケットから取り出し、かじる。筋肉の喜ぶ声に耳を傾け、深呼吸。

 このまま一本道を進み扉を開けたら、まず間違いなく犬死にだろう。そうなればきっと今度はツキギメやテイソが送り込まれることになる。それではわざわざ分離してきた意味がない。

 考えろ。観察しろ。そう己に言い聞かせる。

 期限は示されなかった。つまりそれはぬりかべにとっても、ここで蓮がアッサリ死ぬよりは熟考の末にでも打開策を見つけてほしいということなのだろう。

 まずは思い出せ。これまでの流れを。

 一周目、出口を爆破してアッサリ脱出できた。

 二周目、姿を現さないぬりかべを爆破してタイムリープした。

 三周目、おそらく全滅の末タイムリープした。

 四周目、ジェーンを乗っ取ったぬりかべがトラップに引っ掛かりタイムリープした。

 五周目、この奥の扉を開けた瞬間、乗っ取られたジェーン以外全滅した。

 六週目、ぬりかべとの交渉の末、後々助けにくるという約束のもと脱出に成功した。

 そしてぬりかべは先ほど、餅川に知覚されたせいで六周目と同様の流れは取れないと言っていた。

 以上のことから察するに、おそらく餅川はルーニープレイは歓迎するものの、自身への危害は絶対に許さないというタチなのだろう。

 つまるところだ。蓮は考える。これから取るべき選択肢はおおきくみっつある。

 餅川を殺すか、ぬりかべを殺すか、もう一度脱出して今度こそ館を破壊するか。

 ぬりかべとのやりとりは、思考の中でのみ行われていた。六周目の流れが成立したということは、餅川には脳内でのやり取りは聞き取れないのだろう。

 上記三択の内だと、やはり基本的にぬりかべを殺す方針が最も簡単に思える。さきほども、ジェーンを人質にさえ取られなければ勝率はそこそこあっただろう。

 とはいえこうなってしまった以上引き返すわけにもいかない。

 扉を開けてからではなく、今ここで巨大な爆発を起こす。最終手段としてそれはあるものの、できれば行使したくはない。

 なにか抜け道はないだろうか。改めて周囲の壁に目をやる。これだけトラップまみれの館なのだ。なにか隠し通路や隠し扉があっても不思議ではない。あるいはさらに地下に潜る手段があるのかもしれない。

 それこそ館の外に出ることができれば、もう一度正規のルートから忍び込み、うしろから。なんて展開も作れなくはないだろう。

 目を皿のようにして、薄暗い空間に膝をおろして隅々まで情報を探す。

 風の通る様子は。

 虫の死骸が転がっていたりしないか。

 壁に亀裂が走っていないか。

 風化した箇所はないか。

 ひとつひとつ可能性を脳裏に描きながら目をこらす。

 どれほどそうしただろうか。こんな狭い空間では時間感覚も狂ってくるもので、一時間以上そうしていた気もするが、五分しか経っていないと言われれば納得してしまいそうな気もする。

「……いやあ、ないっすねえ」

 スマホを取り出して時間を確認するが、スタート地点がわからなければ意味がないことに気づいてため息をつく。

 写真フォルダに保存しておいたジェーンの下着画像を開いて心を落ち着かせる。むしろ動悸がしてきた。

 中身が触手ぬりかべとはいえ、外見はジェーンそのものだったのだ。なにも問題はない。

 興奮するぶんにはなにも問題ないが、やはり奴を外に出すわけにはいかないな、と改めて心に誓う。

 ジェーンのあの取り乱しようは異常だ。ほかの幼女にとりついたら被害者が増えてしまう。

 六周目のときは気の迷いでつい交渉に乗ってしまったが、やはり己の正義感と照らし合わせるならば奴を脱出させるのは許しがたい。

「うん、そうっすね。やっぱりぬりかべくんを殺すしかないっすわ。全世界の幼女のためにも、諦めるわけにはいかないっす」

 自分に言い聞かせるように呟き、拳を握る。

 と、そこでふと引っかかりを覚えた。

 なにに? と脳内をひっかきまわし、

「ああ、そうだ」

 見つけ出した瞬間、思わず声が出た。

 地下に下りる直前のジェーンの言葉。

 あんたは私が守る。

 このセリフへの違和感である。

 はしごを伝う間に消え去ってしまっていた。

 あのときはパッと出てこなかったが、今なら確信をもって言える。

 ジェーンがこんないじらしいことを言うはずがない。

 そしてもうひとつ。

 彼女があの場面で、情報量ゼロの話をするわけがない。

 緑のゴスロリ名探偵は、どんな場面でも頭が切れる。無駄なことはしない。必ずなにかの情報を伝えてくる。

 まだ短い付き合いだが、その程度のことは理解できていた。

 では、彼女はあの短い言葉でなにを伝えようとしたのか。

 記憶を探る。目を閉じ、過去に潜る。

 深く深く。六周目。五周目。四周目。三周目。二周目。一周目。――その前。

「……これか」

 目を開き、鞄につけっぱなしにしていた御守りに触れた。

 事務所で準備の際に持たされた、ジェーンの父親の手作りという御守り。

「つっても、まさかこれがトラップから防御してくれるってわけでもないすよねえ」

 どう活用したら、と手のひらに乗せて呟く。

 と、

「…………なんか、あったかあっづ!」

 じんわりと熱を持ち始めたその御守りはみるみる温度を上げ、数瞬の内に持っていられないほどの熱量を放つようになった。

 思わず落としてしまった御守りにおそるおそる指を近づけると、しかし触れる直前まではまったく温度を感じさせなかった。指先をぴとりとつけた瞬間に「ぅあっぢゃ!」思わず声を上げた。電子レンジで加熱しすぎた陶器の器を触ったときを彷彿とさせる、それほど害はないけれど素手で持つのは不可能な温度だった。

 とはいえ放置するのもどこか気が引けるところがある。一瞬悩んだ結果、蓮は電子レンジと同様、服の裾越しに掴んだ。

「あっづ! いやなんで!?」

 ひとりツッコミを入れながらあちゃあちゃとバウンドして持つ。

 持とうとした。

 とても耐えられる温度ではなかった。布越しにでも皮膚の感覚神経が拒絶した。

 結果、大きく跳ねた御守りは蓮の右側、壁に叩きつけられた。

 次の瞬間、

「なんだこれ」

 御守りのぶつかったあたり、不思議な模様が壁に浮かび上がっていた。

 七芒星のようだった。

 こんなのあっただろうか、と眉をひそめる。

 大きさは手のひらほどだろうか。今の今まで気づかなかったことに首をひねる程度には目立っている。というかなんならこの短い通路を考えると降りてきた瞬間にわかってもよさそうなものだ。

 七芒星から放たれる蠱惑的な青い光は、ただ光っているだけではなく、走っているようだった。頂点から頂点へ、光の強い部分が流れてゆく。

 ぞくりと、背筋が凍る感覚。

 本能がこれはだめだと叫んだ。

 この模様に触れるな。アレルギーのごとき拒絶反応。

 なのに。

 本能ではないどこかがふらふらと吸い寄せられるように腕を持ち上げた。蜜の匂いに誘われる蝶のように、ひらひらと指が伸びる。

 駄目だ、触るな。いや、触りたい。二分割された心が互いに殴り合う。

 指を伸ばして、ひっこめて、また伸ばす。

 数度の葛藤の末、蓮の人差し指がついにぴとりと触れた。

 じんわりと熱を持っていた。

 指先の動かし方が、なぜか直感的に分かった。

 七芒星の頂点から頂点へ、辺をなぞらず指先をすべらせる。コンクリートのぞりぞりとする感触。

 今すぐ指を離せ。けたたましく警鐘を鳴らす本能を押さえつけ、なにか身体の奥の強迫観念みたいなものが指先をすべらせる。

 みっつ、よっつと頂点を経由し、やがてもとの場所へ戻った。

「っだぁ!」

 なにか硬質なものが頭頂部に直撃する感覚。

 頭蓋骨をバウンドして地に伏したそれは、ハードカバーの分厚い本だった。

「広辞苑は武器になるんすよ……」

 頭を両手で押さえながらしゃがみ、その本へ目をやる。

 書庫で見た名簿と違い、きちんとタイトルが書かれていた。

「……まあ、読めないんすけど」

 まったく知らない言語だった。

 深緑の、ひと目でわかる高級な本だ。頭の良い金持ちが読むために買うか、頭の悪い金持ちがインテリアとして買うかのどちらかだろう。

 一応頭上に目をやるが、当然のごとく、なにかが落ちてくるような仕掛けは見当たらなかった。

 この館にそんなわかりやすさは期待していない。蓮は改めて目線を下に向ける。

 頭をバウンドして乱雑に落ちたはずのその分厚い本は、しかしページが開くようなこともなく、まるではじめからそこにいましたと言わんばかりにお行儀よく鎮座していた。

「……このままじゃどうせ死ぬだけっすからね」

 蓮は己に言い聞かせるようにして、本を手に取った。ひとつ深呼吸を挟んで表紙をめくる。

「うっ……」

 めまいがした。

 なんと書いてあるのかはわからない。読めない。

 なのに、なにが書いてあるのかがわかる。

 気がする。

 脳に直接叩きこまれるような、あるいは脳内を覗きこまれているような感覚。

 気持ち悪い。率直にそう思いつつ、手は本を閉じようとはしなかった。

 直感で理解できた。

 ぬりかべの使っていた力、そしてこの館のデスゲームを司る力。この分厚いハードカバーは魔術の本である。

 現代人にはまったく理解できない、まったく新しい概念。

 脳内に洪水のように流れ込んでくる情報に頭がパンクしそうになる。なのにページをめくる手が止まらない。

 いやだいやだいやだ。理性も本能も首を振り続けているのに、身体のどこかがもっとよこせと手を伸ばし続ける。

 いったいどれほどそうしていただろう。水たまりになるほどの汗をかき、涙と鼻水があごからしたるころには読み切っていた。ゆうに五百ページはあろうかというその本を、爆速で駆け抜けた。

 理解した。

 これは人間が読んで良い本ではない。

「…………」

 どうしたもんっすかね、と軽い調子で言おうとして、声が出てこなかった。

 天を仰ぐ。

 魔術の基礎について書かれた本だった。

 入門書と呼べるほど親切なものではなかったが、おそらくそれほど応用的な内容は盛り込まれていないだろうことくらいは察することができた。

 呪文や詠唱、魔術をつかさどる神の存在などについて網羅的に書かれており、知らない単語を知らない単語で説明されるといった有様だった。

 が、ひとつだけ察しのついたポイントがあった。

『ジェーンさん、聞こえるっすか』

 六周目でぬりかべからきた念話のやり方だった。

『れ、蓮!?』

 戸惑いの声が返ってくる。

『あんた無事なの!? 今どういう状況!? これ聞こえてる!?』

『落ち着いてください。聞こえてるっすよ。なんか魔術でこうやって心の中で会話できるようになったっぽいっす。ぬりかべくんに察されないようにしてください』

『え、ええ、わかったわ』

『そんで確認したいんすけど、そっちどういう状況っすか? まだ命握られてます?』

『そうね、まだ触手を突き付けられているわ』

『ツキギメさんたちは?』

『あいつは、本人は隠しているつもりなんでしょうけれど露骨にこっちを狙ってきているわね。テイソちゃんはそんなツキギメを呆れたように眺めているわ』

 やっぱりそうなるか、と、予想が当たって嬉しいような悲しいような感情になった。ツキギメが本心を隠すような器用なことをできるとはあまり期待していなかったが、もう少しうまくやってくれと言いたくなる。変装とかするときどうしているのだろうか。

『こっちは気にしなくていいから、あんたは生き残ることだけを考えなさい』

『そうっすねえ。けどせっかくの昇給も雇用主死んだら意味ないっすからねえ』

『バカ。そんなこと言っている場合?』

『どっちみち脱出しようと思ったらそっちに戻るしかないんすよ。ぬりかべくん、なんか弱点っぽいのわかりません?』

『ん、……』

 ジェーンの返事がそこで途切れ、しばらく無音が続いた。大丈夫だろうか。不安に駆られながら続きを待つ。

 一分ほど経っただろうか。

『悪い、わからなかったわ』

 わずかに意気消沈した答えが返ってきた。

『ジェーンさん、乗っ取られてたときの記憶はあります?』

『……………………おぼろげに、なら』

『あ、すんません思い出したくないっすよね』

『いや。いいわ。そこにヒントがあるかもしれないものね』

 慌ててキャンセルしたが、ジェーンは重たい声で蓮の意図をくみ取った。

 ふたたび沈黙が流れる。

 きっとジェーンは今、乗っ取られていたころの記憶に潜り込んでいるのだろう。発狂するほどの拒否感と恐怖に駆られた記憶を呼び戻し、今なお全快できていない頭に流す。

 こちらに届いてこない以上想像でしかないが、おそらくうめき声でも上げていることだろう。

 普段の飄々とした姿からは想像もつかなかったが、彼女の内面は案外柔らかく、繊細で、傷つきやすかった。六周目で脱出して以後、事務所に帰ってからもずっと彼女は蓮のそばを離れようとしなかった。トイレに行くにも風呂に入るにも蓮の手助けを借りようとしてきた。それらの美味しい役目はテイソによって代替されてしまっていたが。

 この館を破壊するためにもう一度来ようとした時も、腕に必死にしがみつき、涙目でぶんぶんと首を振ってきた。

 正気を失い、幼児退行していたとはいえ、尋常ではないおびえ方だった。

 だから、できれば彼女に無理をさせたくはなかった。せっかくタイムリープして正気を取り戻したというのに、また深淵を覗き込ませるような真似は避けたかった。

『……すこしだけ思い出したわ。弱点と呼べるほどのものではなさそうだけれど。ずっと、劣等感と嫉妬心にさいなまれ続けていたわ』

『劣等感と嫉妬……えらい人間くさいっすね。ああ、でもなんとなく腑に落ちたっす。こないだやけに上から目線で交渉してくるなーって思ったんすよ』

『交渉? あんたあいつと話したの?』

『今みたいに脳内でっすけどね。六周目はそれで脱出させてもらったんすけど、まあ今はそれはいいっす。劣等感や嫉妬心が原動力なら、そこをつついてやれば隙が生まれやすいかもしんないっすね』

 うっかり交渉の話をしてしまった。口が滑って交渉の内容をあらわにしてしまったら大変なので、あわてて話を本筋に戻す。

『下手に激昂させるとかえって危ない気もするわね。むしろおだてていい気にさせたほうが良いかもしれないわ。下等生物と見下している相手に褒められて嬉しいのかはわからないけれど。あんたなにかほかに魔術使えないの?』

『無理言わんでください。ジェーンさんこそどうなんすか。なにか魔力の残り香みたいなのないんすか』

『…………わからないわ。なにかモヤモヤした領域が私の中に存在している気はするのだけれど、それが魔力によるものなのかまで読み取れないわ。私の一部であることはわかるけれど私の意思では動いてくれない、まるで麻痺してしまったみたいな感覚ね』

『どうするっすかねえ』

『蓮、その本、私にも読ませなさい』

『なに言ってんすかだめっすよこんな危ないの。ジェーンさんこないだまでメンタルゴリゴリにやられてたし、今だってまだ回復できてないでしょ?』

『背に腹は代えられないわ。アンタが無理そうなら、誰かが魔術を覚えなければ、現状は打開できないわ』

『ならせめてツキギメさんにお願いしましょうよ。あの人なら了承してくれると思うっすよ』

『アイツでは無理だわ。……私は、心当たりがないでもないのよ』

『心当たり?』

『一度だけ経験があるの。魔法を受けたことが。幼いころにもう助からないかもしれないというくらいの大怪我をして、そのときに父がね。感覚は今でも、時々夢に見るほどに印象的だったわ。だから、私なら可能性がある』

『……いや、やっぱだめっす。こんな得体のしれない本をジェーンさんに読ませるくらいなら俺がなんとかするっす』

『なんとかって、どうするのよ』

『まあ見ててくださいよ。考えがないわけじゃないんで』

『……あんた、私を舐め腐るのも大概にしなさいよ』

 明らかに怒気の含まれた声だった。

『あんたがなにを考えているのかなんてだいたいお見通しなのよ。私を守るためなんでしょうけれど、かえって腹が立つわね。私はお姫様ではないのよ』

『ジェーンさんを軽んじてるつもりはないっすよ。これは俺の問題っす。ジェーンさんもテイソちゃんも、この世のあらゆる幼女を危険から守る。それが俺に課せられた使命なんす』

『あんたのそのクソみたいな人生観が私のプライドをズタズタにしているのよ。いい? 私とあんたは上司と部下。雇用主と被雇用者。あんたが私の手足となって働くかわりに、私はリスクを取るのよ』

『けど』

『けどもへちまもないわ。あんたさっきから自分のやりたいことばかり言っているけれど、幼女舐めるんじゃないわよ。ワガママはこっちの専売特許よ。ロリコンならワガママ言わせたまま守ってみせなさいよ』

 がつんと殴られたような、そんな衝撃が脳を揺らした。

 そうだ。そのとおりだ。幼女はワガママ。ジェーンは幼女よりさらにワガママ。そんな当たり前のことをすっかり忘れてしまっていた。

『……ジェーンさん、わかりました。信じますよ』

『ええ。どうせ私はここから動けないし、読み聞かせてちょうだい』

 どこを読んだらよいだろうか。パラパラとめくりながら考える。まるで読みこんだ受験参考書のように、どこにどんな記述があるのかだいたいあたりがついていた。

 それからはあっという間だった。

 なんと読むのかわからない言語を自然と口にし、ジェーンはそれを静かに聞いた。意味はまったく理解できなかったが、その呪文のような文字列が魔術習得のための鍵であることだけは理解できた。

『…………わかったわ』

『大丈夫っすか。だいぶ声がやばいっすよ』

 しわがれた、明らかに疲労困憊な声。

『心配無用よ。だいたい理解できたわ』

『マジすか。ジェーンさん正気は保ってます?』

『ええ。気持ちは悪いけれど、まだ生きているわ。それより力を貸してちょうだい』

『なにしたらいいっすか』

『ぬりかべの気をそらしたいの。私の合図に合わせて轟音を出してちょうだい』

『わかったっす』

 一分ほどだろうか。しん、と静かになった空間で合図を待った。力を溜めているのか、落ち着くのを待っているのか。

『待たせたわね。五秒後に鳴らして。ご、よん、さん、に、いち』

 蓮は躊躇なく頭上、自身の入ってきた入口へ向けて爆弾を放り投げ、両耳を力いっぱいふさいだ。

 どごおおおおおおおおん!!! と、狭いコンクリート空間に轟音が爆ぜた。

「だ大丈夫かい!?」

 瞬間、上部の蓋が開いたのか、ツキギメの慌てた声が降ってきた。

「あー、なんとかっす」

 耳が馬鹿になっているせいで正確には聞き取れないが、心配してくれているのだろうということだけはわかった。

 安心させるようにいつもの調子で言って、はしごに手をかけた。

 爆発の影響で火傷しそうなほど熱いが、この程度ならば我慢できる。迷わず握りしめ、身体を持ち上げた。地上階がどうなっているかわからない以上、一刻も早く戻る必要がある。

 下手に呼吸をすると低酸素で意識を失う可能性もある。蓮は呼吸を止めて一気に登った。

 ものの数秒で駆けあがり、地上へ着地。

「蓮! 今よ!」

 ジェーンの鋭い声が響いた。

「おっす!」

 瞬時にぬりかべを視認。ジェーンが逃れていることを把握し、蓮は爆弾を投げつけた。

 激しい爆発音とともに、ぬりかべの地響きのような叫び声が反響する。

「まだまだっすよ!」

 残弾はもう尽きた。だが被害も甚大であろう。ならばあとは、幼女を守るべく鍛えに鍛え抜いたこの肉体から火をふかすのみ。

「守りは任せたっすよ!」

「う、うむ!」

 万が一再び人質を取られてはかなわない。そう思ってツキギメへ視線と共に伝えると、戸惑いつつもうなずいた。

「舐めるなあああああああああああ!!」

 ぬりかべの咆哮。館を震わせるほどの圧力に、しかし蓮はひるまない。守るべき者のため恐怖心は投げ捨てた。高速で振り回される触手をかいくぐり、拳をぬりかべにめり込ませる。爆弾によってただれた箇所を殴打し、蹴り、打ち付ける。一撃ごとにぐじゃと嫌な音が耳朶を撃ち、悲鳴とも叫喚ともつかない声がこだまする。

 びゅんびゅんと鞭のようにしなる触手。

 気づくことができなかった。

 足下から、硬化した触手が串刺しにすべくまっすぐとテイソの喉元へ走った。

 剣道の突きを思わせる、目にもとまらぬ速度の一本槍。

 それは一瞬のうちにテイソを貫き――貫けなかった。

「テイソくんを狙うとは、お目が高いね」

 ツキギメが誇らしげな表情で、その触手を掴んでいた。

「君のことは許さないけどね」

 美しい笑顔のまま、その触手を握りつぶす。

「              !!!」

 悲鳴の入り混じる絶叫。

 無数の触手で支える身体がぐらりと揺れる。

「とどめっす!」

 倒れてくるその勢いを跳ね返すように、蓮は全身のバネを解放して渾身の蹴りを放った。

 アッパー攻撃のように突き刺さる。くの字に折れることのない身体は跳ね上がり、コンマ数秒の空中遊泳を経て壁に叩きつけられた。

「悪いっすね。俺らはデスゲームのギミックらしいんで。文句は餅川に言ってください」

 完全にダウンしているぬりかべを見下ろし、ひとつ小さな息を吐く。

「蓮、よくやったわ」

「ありがたきお言葉っす。ジェーンさんは大丈夫っすか?」

「ええ。まだすこしくらくらするけれど、頭の奥のほうはむしろ冴え切っているような感覚ね」

「ヤバいクスリでもキメたみたいなセリフっすね」

「案外的を外していないたとえな気がするわ。それより、」

 ジェーンは蓮から視線を外し、ぬりかべの隣のあたりを見やって言った。

「あんたが餅川ね」

「えっ」

 目を丸くしてジェーンの視線のほうを向く。が、そこには虚空があるだけで、誰かが存在しているようには見えなかった。

「まったく、手厚い歓迎だったわね」

「待って待ってジェーンさん。見えるんすか?」

「魔術を習得したせいかしらね。あんたは見えないの?」

 言われて、改めてじぃ~~~~~~っと目を皿のようにして虚空を見つめる。

「……………………なんか、なんすかね。ギリギリ、ぼやーっとしたのがいる……ような?」

「ふうん。見えかたが違うのね。あんた魔術習得できなかったし、その差かしら」

「いうて念話できるようになったっすよ」

「ま、それはいいわ。餅川、あんたはこれからどうするのかしら」

 ジェーンはそう問いかけると、じっと視線を動かさずモヤを見つめたまま押し黙った。おそらく返答を聞いているのだろうが、耳をそばだてても蓮には物音ひとつ聞き取ることができなかった。

 一応ツキギメとテイソのほうを向くと、案の定ふたりとも首を捻ったり眉をひそめたりと、まったくピンと来ていない様子だった。

「ええ、そうよ。安心なさい。……なら、私たちはお暇させてもらうわね」

 うすぼんやりとしたなにかとの会話を打ち切り、ジェーンが振り向く。

「帰りましょう」

「帰れるんすか?」

「ええ。だいたい事前に聞いていたとおりの人間だったわ。こちらから危害を加えないならあちらもデスゲームのトラップ以上の仕掛けはしないみたい。一周目みたいに爆破してちょうだい」

「トラップ自体は解除してくんないんすね」

「餅川にとって私たちを殺さないようにする道理がないもの」

「それはそうっすけど。しばらくは気を付けないとっすね。一周目は出口周辺にはトラップなかったっすけど、今もそうとは限らないっすから」

「そうね、半分クリアしたような状況こそ一番――しゃがみなさい!」

 鋭い声。

 反射的に膝を折る。

 ひゅんっ! と、慣性に従って宙に残っていた髪の毛を数本巻き込んで、なにかが空を切った。

「……鉄板っすか。また殺意高いもの飛ばしてくるっすね」

 壁に突き刺さり制止した金属板を見やって冷や汗を垂らしながら言う。

 ぬりかべを倒してしまった以上、死んだらやり直しがきかない。

 その事実を改めて認識し、蓮は小さく息を吐いた。

「大丈夫よ。死ぬことはないわ」

 対照的に、ジェーンは珍しく楽観的だった。

「この館の底は見切ったもの」

「えっ」

 あまりに傲岸不遜な言い回しに目を丸くする。

「どういうことっすか」

「そのままの意味よ。餅川は幽霊になってまでこんな館を運営しているけれど、なんでもできるわけではないわ」

 ジェーンが指を二本立てて話す。

「あいつの持っている優位性はふたつあるの。トラップを魔力で生成しているせいでどこから飛んでくるのか予測がしにくいこと。トラップの存在を魔力で隠しているから見つけにくいこと。逆説的に、そこさえ克服すれば怖いとこはないわ。地雷の埋まっている場所が見えているならスキップしながらだって走り抜けられるでしょう?」

「けど、ぬりかべも結局そこを見切れなかったんでしょ? 魔術覚えたばっかのジェーンさんがなんでトラップの場所見つけられるんすか」

「私の目は特別性よ。才能には勝てないわ」

 灰色の瞳を不敵に輝かせて言う。

 そんな無法がまかりとおるのかと、ぬりかべに同情する気持ちがわいてきた。

「まあ、なんにしてもジェーンさんが見切れるなら安心っす」

「この部屋にはもうトラップはないわ。はやく行きましょう」

「ジェーンくん、その灰色の瞳があるならばワインセラーへ行くこともできるんじゃないかい?」

 ツキギメがワクワクと目を輝かせて割って入ってきた。

 しぶしぶ地下の方を見下ろしたジェーンが、じぃっと数秒間見つめる。

「不可能ではないわね」

 一瞬ぱあぁっと明るくなったツキギメの顔に、ジェーンが冷静に続けた。

「けれどやめておきましょう。罠の密度が濃いわ。私ひとりならともかく、あんたたちまで守り切れる自信はないもの」

「そっかぁ……」

「さあ、帰るわよ」

 我先にと歩き出すジェーン。罠を見破れるのが彼女しかいない以上、先導するのは当然と言えた。

 が、今回ばかりはそれが裏目に出た。

「んぐっ……!」

 歩き出そうとした蓮の背中から腹部にかけて衝撃が走った。

 鋭利な鈍痛。

 たらりと粘性の高い液体が皮膚を垂れる。

「下僕くん!?」「お腹!」

 ツキギメとテイソの声が響く。

 そこに至ってようやく視界が下を向き、服が赤くにじんでいることに気がついた。

 なんとかうしろを振り向くと、

「………………ロリだったらまだ許せたんすけどね」

 いつのまに存在したのか。一周目から三周目にかけて、エントランスでルール説明をしていたショタっ子が、血にまみれた包丁を握りしめていた。

 軽口を叩いて強がってはみたが、膝に力が入らず折れた。

 全身に向けてじわじわと痛みが広がってゆく。血と脂汗とともに体温が抜けてゆくような感覚。

「蓮! あんた大丈夫!?」

 先に部屋を出ていたジェーンが異常事態に気づいて駆け寄ってきた。

「ま、まあなんとかっす」

「少年、急にどうしたんだい?」

 ツキギメが尋ねる。

「なにかルール違反をしたかな?」

「いえ、そのようなことはありません」

 いつぞやとまったく同じトーンで否定してくる。

「ならどうして蓮を刺したのよ」

 テイソの応急手当を受ける蓮から視線を外して、ジェーンが怒りの形相で尋ねる。

 どうせお答えできませんと言われるのだろう。そんな諦めの中耳を傾けていると、

「餅川様の指示でございます」

 思いのほか明快な答えが返ってきた。

「……どういうことよ」

「そのままの意味でございます」

「言葉の意味が理解できないって話ではないのよ。どうして餅川はそんなバカげた指示をしたの」

「それは、餅川様に直接聞かれたほうがよろしいのでは?」

「……そうね。あんたの言うとおりだわ」

 ジェーンはしぶしぶといった様子で少年から視線をそらし、虚空に浮かぶモヤを睨みつけた。おそらく念話で問うているのだろう。

 どんな話をしているのか聞き取れないか。そう考えて心の内に神経を集中させていると、

『小鱗蓮様』

『うわびっくりした』

 少年のささやくような声が脳に直接響いた。

『どうしたんすか急に』

『餅川様から言付けがございます』

『ははーん、命乞いなら聞かないっすよ』

『君はお気に入りだから、特別に選ばせてやろう、とのことです』

『……寛大な方っすね。それで選択肢は?』

『ひとつは、ツキギメ様、テイソ様を犠牲に餅川様を討つ。もうひとつは、ジェーン様を差し出す』

『……ジェーンさんが目的ってことっすか』

『ご想像にお任せいたします』

『これ、決定権は俺にあるんすか? ツキギメさんやテイソちゃんがどう動くかなんて俺にもわからんっすけど』

『どう動こうと制圧する。それが私です』

『……少年も苦労が多そうっすねえ』

『制限時間は、ジェーン様と餅川様のお話が終わるまでとなっております。それまでにご決断を』

『いや今どの程度の会話してんのかわかんないんすけど』

 冷静に突っこみを入れつつ、蓮は提示された二択を比較した。

 回答は、迷うまでもなかった。

『おふたり、いいっすか』

 ツキギメとテイソへ念話を飛ばす。

 だが、

『……』

『……』

 どちらからも返答がない。ちらりと視線を向けるが、特別変化がない。おそらく聞き取れていないのだろう。

 何故。焦っていると、

『念話は、魔術の素養のある方にしか通じません』

 心を見透かしたかのように、少年が言った。

 嫌な汗が血とともに流れる。

「これで、最低限の止血は済みましたわ。くれぐれも安静になさってください」

「ありがとう」

 応急処置を終えたテイソへ礼を述べ、それから声を潜めて続けた。

「テイソちゃん。…………死なないでね」

「……………………」

 ほんの一瞬目を丸くしたテイソは、考えこむように視線を落とし、やがて神妙な面持ちで答えた。

「ええ。あなたも」

 止血こそ済んだものの、激痛のやまない腹部。

 それでもと顔を上げて、ジェーンへ視線を向ける。

 凛々しい顔つきで虚空を睨みつける幼女は、腰のあたりで拳を握りしめていた。

 念話で様子をうかがうか。一瞬浮かんだ思考を振り払う。ジェーンは今、見えない敵と対峙しているのだ。邪魔をするべきではない。それに、悠長に物事を進めていては餅川の虚を突くことなどできない。

 こちらが取るべき手段はひとつ。

「ジェーンさん!」

 彼女すら予期していない超急戦だ。

 数歩の距離を刹那のうちに駆け、ジェーンの手を取る。強引に引っ張って地下空間の入口へ。

「行けるっすか」

「……行けるわ」

 切り替えの早さはさすがと言わざるを得ないだろう。ジェーンは困惑の表情を一瞬のうちに消し去り、魔力探索を済ませたらしい。

 はしごに足をかけるジェーンを抱き寄せ、蓮はおんぶの格好で抱きかかえた。

「降りるっす!」

「待て待て待ああああああ!」

 制止に構わず蓮ははしごを蹴り、重力に従った。一周目でふたりを抱えて二階から飛び降りた時よりもわずかに長い時間をかけて落下する。

 ずん、と重たい音を立てて着地。

「……あんた、こんな視界の悪いところでも飛び降りるのね」

「時間ないんで」

 ちらりと上を見やる。

 ガギィン! と金属のぶつかる音とともに、「ここは通さないよ!」ツキギメの声が聞こえてくる。

「一分ですわ!」

 テイソの声。なにがとは言わない。そこまでの余裕はないのだろう。じゅうぶんだ。それだけ時間稼ぎしてもらえるなら、その間になんとか結果を出すだけだ。

「あの……おろしてもらえる?」

「だめっす」

 歩き始めながら否定する。

「的は小さい方がいいんで。おそれにこうしてくっついてたほうが意思疎通早いでしょ?」

「それはそうだけれど……これじゃまるで子ども扱いじゃない」

「俺はジェーンさんを幼女じゃないと思ったことはないっすよ」

「いいから。もっと大人の女にふさわしい抱っこの仕方があるでしょう」

 なんの話だ、と思ったが、言い争いをしている時間はない。上では命がけでツキギメたちがこの入口を死守してくれているのだ。こちらも確実に仕事をこなさなければ。

 ジェーンを一旦おろし、お姫様抱っこに持ちかえる。多分これで良いのだろう。

 血の抜け過ぎでくらくらする頭に活を入れ、蓮は一歩一歩と進んだ。

『そこ十センチ右』

 ジェーンの意思が伝わり、同時に身体がほぼ反射的に動いた。

 念話のような、脳内に響く感覚ですらない。彼女の意思がもともとの蓮の心中にあったかのような錯覚を覚える。

「この通路にはもうないわ。その扉を開けた瞬間からが本番よ」

 蓮の首に両手を回したジェーンが、視線鋭く見回して言う。

「扉を開けたらすぐにジャンプして、ひとつ避けたらすぐに右の壁に張り付きなさい。半分くらいはいけるわ」

 汗のにじむ手でドアノブを握る。滑りそうになりながらなんとか握りしめ、ひねる。押して、

『今!』

 ジェーンの声。

 反射的にジャンプ。ひゅんっ、と空を切る音に冷や汗が跳ぶ。

 が、恐怖に身を縮こまらせている場合ではない。着地と同時に地面を蹴り、右の壁へ。

 次の瞬間、先までたっていた場所をレーザーが一刀両断した。あのままいたら左右真っ二つになっていただろう。

 怖気づいている暇はない。どの程度時間が経ったかなどわからないが、一分など刹那と等しい時間的猶予だ。

 万が一にも罠にかすったりしないよう、できる限りジェーンを抱き寄せ、壁際を慎重かつ大胆に這い歩む。

 ドクンドクンと激しい鼓動が伝わってくるのは、身体が繋がっているからか、魔術的なものなのか。彼女はおびえた様子を決して見せようとはしないが、恐怖の感情がないわけではない。俺が守らねばと、その心臓の音に改めて誓う。

 かに歩きで壁際を進んでいると、

『ストップ。三歩前』

 ワインたちから離れる。それから右、うしろ、前とジェーンの指示に従って迷路のように進んだ。

『ストップ。ここが最奥よ』

「え、まだだいぶあるっすけど」

「ここから先はどう動いても死ぬわ」

「バカの小学生が考えたすごろくみたいっすね……」

「もう下ろしてもらって大丈夫よ。爆弾投げなさい」

「うす。で、どれが餅川っすか」

 たくさん並ぶワインたちを前に首をかしげる。

「あれよ」

 そう言って指差した先には、ワインに疎い蓮でもわかるほど、明らかに古めかしい高級そうな瓶があった。

「なるほど。じゃ、やってやりますか」

 爆弾を手に振りかぶり、

「!?」

 手首を掴まれた。

 誰だ。血の気の引く感覚とともに振り向くと、

「……探してたんすよ」

 依頼されていたヤクザの、最後のひとりが蓮の手首を掴んでいた。

 だが様子がおかしい。目が虚ろで、蓮の声に反応する様子もない。ただ掴む力は強く、まるで万力で締められているようなにじり寄る痛みだけが現実感とつなげていた。

「蓮! 放しなさい!」

 ジェーンの珍しく焦ったような声。

 蓮としても大人しく掴まれているわけではない。言われるまでもなく振りほどこうとしているのだが、どんなに力を入れてもびくともしないのだ。初めてジムに行ったとき、重たすぎるバーベルを持ち上げようとした記憶が脳裏をよぎる。

「ぐああああああああああ!」

 痛い。折れる。潰れる。手首に密集する神経たちが悲鳴を上げる。

 なんとか抵抗しようと左手でヤクザの腕を掴むが、やはりまったく動かない。まるであの少年にタックルしたときのツキギメのように「っだああああああああああああ!!」

 ぼぎ、と、文字に起こすならそんな音だった。

 埒外な握力から繰り出された純粋な暴力が、骨を折り砕いた。

 少年に刺されたときと同じか、なんならそれ以上の激痛が走る。

 そうして痛みに気を取られたのが決定的だった。

「あっ」

 ジェーンの声が妙に透きとおって聞こえた。

 爆弾が、蓮の手からこぼれ落ちていた。

 終わった。

 数か月ぶり二度目の走馬灯。せめてジェーンを守らねばとその身を盾にする。

 反射的にぎゅっと目をつむる。

 ぼん! という音。

「……?」

 想定していた衝撃は来なかった。

 そろりと目を開ける。

 爆弾は間違いなく着地していた。

 ただ、地面ではなかった。なぜかクッションが敷かれており、その上に無事な姿で落ちていた。

 いつぞや見せてもらった、怪盗の七つ道具のひとつだった。

「探偵!」

 呆ける蓮の耳に一喝。テイソの声が反響した。

「分かっているわ!」

 顔を上げて入口付近のテイソの姿を確認するころには、ジェーンは既に動いていた。

 が、爆弾を手にしようとするのはジェーンだけではなかった。ヤクザが開いた右手を爆弾に向けて伸ばす。

 ほとんど本能だった。

 蓮のあいた左手が、ヤクザの右手に伸びる。

 こんなことをしてもびくともしないだろう。そうと分かっても、伸ばさずにはいられなかった。

 コンマ一秒でも遅らせられれば良い。そういう思考すら削ぎ落とし、尖らせに尖らせた神経を駆使してヤクザの手首へ伸ばす。

 掴むか。一瞬迷って、殴った。

 その判断が功を奏した。

 一瞬。ほんの数ミリ。ヤクザの手が照準とズレた。

 ジェーンの小さな右手が、爆弾を掴んだ。

 大きく振りかぶり、投げる。

「へったく「うっさいわ!」

 思わず入れてしまったツッコミを遮ってジェーンがキレた。

 ふぅわりと緩やかな放物線を描く爆弾は明らかに違う方向に飛んでいき、

 パァン!

 破裂音によって軌道修正された。

 コンマ数秒。閃光とともに、地響きのような爆発音、ガラスの割れる甲高い音が鳴り響く。思わず左手で顔を隠しそうになり、違うとジェーンの顔の前に手のひらを広げる。

 同世代に比べると大きな手のひらだが、防御力はたかが知れている。おそらくほとんど意味はない。それでも、彼女の身体に傷つく可能性を一ミリでも減らせるならばするべきだと思った。

 目を閉じ、爆風のおさまるのを待つ。

 ほんの数秒、衝撃の終わるころには折れた右手首を締め付ける力は消えていた。

 蓮の手首を破壊したヤクザは、身体を支える力を失ったのか倒れ伏していた。

「終わった…………っすか?」

 蓮の問いかけに、ジェーンは神妙な面持ちで目をつむった。おそらくはトラップの存在を探知しているのだろう。

 やがて深く、深く息を吐いて答えた。

「私たちの勝ちよ。よくやったわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る