第3話:キュウショクチュウ_3
――そして、今に至る。
夜中に雨が降ると言っていた天気予報は外れて、今大粒の雨を迎えている。自宅の最寄り駅に着いたころにはもうだいぶ降っており、傘を持たずに家を出た改は『もったいないから』とコンビニで傘は買わずに、無料の求人誌と廃棄前で安くなっていた鮭おにぎりを購入して帰路に着いた。背負ったリュックにしまったとはいえ、これだけ大雨の中傘もささずに歩いていては、中身はグチョグチョになっているだろう。と、改は虚ろな目で考えた。とっくに靴は酷く濡れていて、歩みを進める度にギュツギュッと嫌な音をさせながら独特の気持ち悪さを与えている。
「なんで、俺ばっかり」
今の改の気持ちを表すかのように、降り続ける大雨。ようやく家に辿り着いたときには、ずぶ濡れを通り越して服を着たまま泳いだかのようになっており、辛うじてリュックを背負っていた背中の、ごく中心部分のみ濡れていない程度だった。玄関前で『どうやって家に入ろうか』と途方に暮れたが、いつまでもここに突っ立っていては風邪を引いてしまうし、なにも解決にはならない。改は意を決して玄関の鍵を開け、散らばっていた靴を下駄箱にしまうと、服をすべて脱ぎ去って靴が置いてあった場所にまとめた。廊下が濡れる覚悟で洗面所へと向かい、タオルで身体をおおかた拭ってから部屋着に着替え、脱ぎ捨てた服を回収するとお風呂場で絞り始めた。乾く見込みはないが洗濯機に濡れた服とタオルを取り敢えず入れて、リュックもその辺へ放置したままベッドへと倒れ込んだ。今日は酷く疲れたと感じていた改は、今すぐにでも眠ってしまうそうだった。
「……つか、れた」
今日は、不測の出来事しかなかった。……もう、なにもしたくはない。と、ゆっくりとその目を瞑る。グチャグチャの頭の中で暴言を吐き続ける上司を呪いながら、そのまま改は深い眠りへとついた。
そして、次の日の朝。
――カァ、カァ――カァ、カァ――カァ、カァ――カァ、カァ。
――カァ、カァ――カァ、カァ――カァ、カァ――カァ、カァ。
「……う」
外ではゴミを漁りに来た烏が泣いている。あんなにお腹が空いていたのになにも食べずに眠ってしまった改は、胃の痛みを感じながらゆっくりと目を覚ました。
「……最悪」
枯れた声で放つ寝起き第一声の言葉。なにも良いことはない。嫌なことしかない。それでも、まだ、改のいる世界は回っている。
すっかり忘れていたおにぎりを食べるために、のそのそとベッドから起き上がると、改はまだ乾ききっていないリュックへと手をかけた。湿ったリュックの気持ち悪さにしかめっ面をして、中身だけ出すとリュックをベランダへと干した。昨日の豪雨が嘘のような晴天。換気のために網戸側の窓を開けっぱなしにしてカーテンを引くと、改は空を見上げた。本当に、雲ひとつない晴天。恐ろしいくらいに真っ青な空に目を細めると、ボサボサの頭を掻いて冷蔵庫にしまい忘れたおにぎりを食べ始めた。
「仕事……変えよう……」
もう、あの会社には戻れない。そう思っていた。昨日、あんなことがあったのだ。被害届を出すかどうか聞かれたが、保留にして帰ってきた。自分ではよくわからなかったが、よっぽどの力で掴まれていたらしい。腕には青黒いのか赤黒いのかよくわからない色の痣ができており、警察署の中だというのに興奮してお構いなしだった上司は、髪の毛も引っ張ってきた。心なしか、まだ痛む気がしている。警察の前でもそんなことをした上司は現行犯かもしれないが、改は怖くて逃げだすように帰宅している。とにかく、怖くてたまらなかった。念のためと写真に残し、雨が染みてページの引っ付いた求人誌をめくる。辛うじて無事な部分にだけ目を通すと、隅のほうにひっそりと載っている広告のような見出しに目がいった。
『月給百万以上! 昇給賞与あり! 福利厚生好待遇! やる気があれば、初心者年齢男女問わず誰でも大歓迎! ゲームに関する、簡単なお仕事です! 寮あり家具家電完備! 自社ビル内に社員食堂、コンビニ、カフェ、ファストフード、なんでもあります!』
「……いや、明らかにおかしいだろ……?」
そう思った改だったが、自分の今の状態は『一寸先は闇』状態であることを考え、騙されたつもりで面接の申し込みをした。普段なら、正常な精神状態なら、鼻で笑って一蹴しただろう。メールを送る手は震えたが、それだけ待遇が良ければ少々上司がクソでも耐えられるかもしれない。寮に入れるなら、家賃の心配も今ほど心配しなくても済む。なにより、月給も高い。今の会社に比べたら、色々な面で恐らくマシだろう。もし怪しい仕事だったら、辞退すればいいのだ。
「履歴書、もう一回書くことになるなんてな……」
乾いた笑を浮かべながら、片付けもされていないちゃぶ台の上で改はペンを走らせた。今休業中であることは、転職には響くかもしれない。だが、今のこの現状を妥協したい。その気持ちが伝われば、チャンスもあるかもしれない。……ダメだったら、諦めてもう少しこの生活を続けよう。お金はないから、それの尽きたときが最期だ。そう思いながら。
「……できた」
書き終わるまでにさほど時間はかからなかった。相変わらずまぁ読めるかな程度の汚い文字。改自身、自分で見ていて笑えてくるくらいの文字だったが、これでも一生懸命丁寧に書いたつもりだった。
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