第2話:キュウショクチュウ_2


 「……頭、痛い」

 スマホを触らなければ良かった。この頭痛は、上司から電話がかかってきたからに違いない。そう思った改は、予約の日を飛ばして受診することにした。病院に行って話を聞いてもらい、一緒に少しだけ強い薬と頭痛のために鎮痛剤を貰って、帰りに大好きなコンビニのカフェラテでも買っていこう。そうしてゆっくりとした時間を過ごしたら、雨が降る前に散歩でもして、グチャグチャになった気持ちを整えよう。そう思っていた。


 ――なのに。


「――おい!」

「……っひっ…!」


 思わず声が裏返る。ダラダラと冷や汗が流れ、目も泳いでいた。


「ど、うして……」


 ハァハァと呼吸が荒くなる。いるはずのない人間。――なぜ、件の上司が今目の前にいるのだろうか。今は仕事中のはず。なぜ、会社にいないのか。なぜ、自分の通う病院がある駅にいるのだろうか。ここは会社の最寄り駅でもなんでもないのに。


「ほら見ろ! お前仕事サボって遊んでんだろ!? 俺の顔に泥塗りやがって! ふざけんじゃねぇ!」

「いっ、やっ、あ、あの……」


 上手く声が出ない。反対にこれでもかと大きな声で怒鳴りつけてくる上司の声に、周りの人が集まってきた。――辛い。怖い。改は耳に響く自分の心臓の音に恐怖していた。


「今すぐ出社しろよ! こんなところで油売ってんならできるだろ? 散々迷惑かけたくせに、楽に仕事できるなんて思うなよ? このクズが!」

「ひっ」


 強い力で腕を掴まれる。わざと爪を食い込ませるかのような、いやらしい掴みかたで。


「……ねぇ、あれヤバいんじゃない?」

「え、ただの喧嘩……?」

「仕事が云々言ってるけど……」

「知り合い同士じゃないの? 違う?」

「ちょ、動画い撮っとたほうが良いんじゃない?」

「うわ、なんかやばそ」


 改には、周囲のヒソヒソ話が聞こえていた。聞きたくもない言葉たち。上司には聞こえていないようで、まだなにやらブツブツと言っている。

 病院のある駅に着き、改札を出たところ。そこで上司に掴まってしまった。場所が悪かったのかもしれない。なんせ、この駅は大きな駅で、繁華街のすぐ近くのビルに、改の通っている病院はあった。上司はそこで改を見た結果、遊んでいると判断したのかもしれない。


「ぼっ、僕……」

「はぁ? なんだよ?」

「びっ、びょう、い、いんに……」

「あぁ!? こんなところに病院なんかあるわけねぇだろ!? 嘘吐くな! 遊び目的でこんなところまで来たんだろ?」

「ちっ、違います……!」


 怖くて目を見ることができない。話そうとするだけで胸が苦しくなり、とてもじゃないが対等な会話はできそうになかった。


「会社に報告するからな! 嘘吐いて休んで、遊び回ってるって!」

「うぅぅぅー……」


 上手く出ない言葉の代わりに、嗚咽が漏れて勝手に涙がボロボロと溢れ出す。もう、無理だ。逃げ出したい。改がそう思ったとき――。


「あの、病院ならそこのビルに入っていますよ?」

「……は?」

「だから、そこのビルに。彼、泣いていますし、警察呼びますね?」

「はぁ? 俺はコイツの上司なの! 関係ないヤツは出しゃばってくんなよ」

「上司とか関係ないですよ。周りの人にも迷惑なんです。大きな声で恫喝して」

「……お前なぁ。ガキが入ってくんじゃないよ。わかる? 今、大事な話してんの」

「怒鳴らないとできないような大事な話って、碌な話じゃなさそうですね?」

「あ? 口の利きかたには気をつけろよ? お前みたいなクソアマが、ずっと年上の男に向かってそんなこと言って良いのかね?」

「……腕、痛そうですよ? 彼の」

「だからうるせぇの。お前、なに? コイツの彼女? はぁーセンスねぇな」


 呆れたように笑う上司がいる。間に入ってきたのは若い女性だった。


「年上の男、ねぇ。やっていることは、世間知らずのガキ大将、みたいですけど? ……っていうか、パワハラじゃないんですか? 本当に上司なら」

「あぁ!? ふざけたこと言ってんじゃねぇよ! このクソアマ!!」


 それでも凛とした態度を崩さず、自分よりも圧倒的に年上であろう上司に、対等に渡り合っている。――いや、煽っていると言うほうが正しいのだろうか。改は自分と正反対の女性を見て、グッと息を呑んだ。


「――ミチ! 駅員さん呼んできた――!」

「どうかしましたか?」


 そんな声とともに現れたのは、これまた若い女性、そして、駅員の制服を着た男性。女性は息を切らしていて、急いでここまでやってきたということが伝わってくる。


「あぁぁぁぁもう! 俺は忙しいんだよ! とにかく! 会社には報告するからな!」

「アナタ、まずその手を離したらどうですか? 暴行ですよね? 駅長室までお越しください」

「……ちっ」

「っ、ふー……ふー……」


 ようやく上司の手から解放され、改は大きく深呼吸をした。生きた心地がしないと思いながら。手にかいた汗をズボンで拭い、一緒にギュッと生地を握って心を落ち着かせている。


「アナタも、来ていただけますか?」


 ――申し訳なさそうな駅員に頼まれ、通された駅長室での時間は、一言で言えば改にとって【最悪】だった。怒鳴り散らす上司に、それを止める駅員。散々改を罵り、馬鹿にして笑い、最終的に埒が明かないと警察に連れていかれた。そんな中でも、ひとつだけ良い話があったとしたら、『病気は詐称だ』『病院に行くなんて嘘だ』と吠える上司の目の前で持っていた診察券から電話番号を拾い、病院に受診キャンセルの電話をかけたことだろうか。恐らく改は、病院へ繋がりスピーカーにして話したときの上司の顔を一生忘れないだろう。

 なんとか警察から解放されたときにはもう、改のお腹の虫が頻繁に鳴ってしまうくらいに時間が経っていた。駅員を呼んでくれた女性にお礼を言おうと思ったが、彼女は既に帰ってしまったようで、声をかけられないまま終わった。病院には行けずまさかの警察に行き、会うはずのない上司に出会い、こんなに怖くて悲しくて鬱々とした時間を過ごすことになるなんて、誰が予想しただろうか。

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