モヴェ・パルファン

 部活の後輩が痴話喧嘩の所為で、片方が負傷、片方が結局退部してしまった。

 部長として仲裁に入らなければと、深く関わっていく中で、僕の負傷している吉岡さんへの憐憫は、いつの間にか慕情に変わっていた。


 小林君が退部し、半ば強引に吉岡さんとの交際を辞めさせた日、泣いている彼女を見て、気持ちを抑えられなくなってしまった。


「ごめん、寂しそうな目してるから、ごめん」


なんて、最低な言葉を吐きながら、彼女を押し倒してしまった。

 

 そんな間違った始まりの関係は、間違っているに決まっている。

 吉岡さんへの庇護欲と独占欲で、関係の歪さがどんどんエスカレートしていって、彼女が嬉しそうに他の男の話をした時、僕はかっとなって彼女の首を絞めてしまった。

 途中で我に返って、最悪の結末には至らなかったが、謝る自分に彼女は

 

「いいですよ、気にしないで下さい」


と微笑んだのだ。

 その瞬間、初恋の女の子のことが脳裏に浮かんだのだ。

 男を駄目にする、花火のことが。

 

***


 僕の友達に花火という女の子がいた。正しくいうと、友達ではなく親戚で、家が近い同い年の親戚だったので親同士が仲良くさせたのである。


 そんな花火が高校の時、突然、香水を変えたことがあった。

 新しいのは爽やかな柑橘系で、それまで使っていたムスクとかいうやつみたいに、噎せ返るような甘ったるさはなく、まったく別の香りになった。幾分か、年相応な香りになったのではないだろうか。高校生に相応しい香りがどんなのかは知らないけど。

 いや、そもそも高校生の癖に香水なんてませたもの、つけるべきではないと、お子様な僕は思っていたのだが。校則でも禁止されてたし。

 

「くっさ、花火っち香水くさいよぉ? つけてくんのやめなよ」


なんて、クラスの女子から咎められてもどこ吹く風だった彼女は、大半のクラスの女子から嫌われていた。

 花火っち、なんて親しげな呼び方をしているが、本当の意味を僕は知っていた。彼女らは「びっち」の部分をあからさまに強調して呼び掛けるから。

 

 事実、花火はビッチと呼ばれて差し支えない程、男癖が悪かった。しかも、完全に開き直っているものだから、たちが悪い。

 

「この泥棒猫!」

 

と、言われた時には

 

「猫に侵入された上、泥棒されるなんて、あんたのセキュリティ、あたしの股よりガバガバなんじゃない?」

 

なんて返したし、


「くたばれ、このアバズレ!」

 

と、言われた時には

 

「あんたこそくたばれ、顔面土砂崩れ」

 

なんて返した。性格も悪いクソビッチだ。

 

 そんな花火と親戚かつ友達の僕は、花火がクソビッチな癖に実は処女だということを知っているくらいには深い関係だった。なにがガバガバか、鉄壁の癖にと、花火が先の暴言を吐いた時、隣にいた僕はこっそりと笑った。

 

「香水の趣味、変わったの? それとも新しく付き合った男の好み?」

「これ? 貰いもの。良い匂いするから欲しいって言ったら使いかけくれたの、彼が」

 

 どうして香水を変えたのか、花火の部屋のベッドの上でゴロゴロしながら問い掛けたら、貰いものだということが判明した。しかも彼の使いかけということは、この香水は男物らしい。

 

「でも男物の香水と女物の香水は、やっぱりちょっと違う気がする。自分の香水も持っているなら人のものなんかいらなくない?」 

「あたしは貰えるもんは何でも貰う。だからってあたしのもんは簡単にあげないけど」

「ジャイアニズムに通ずるものがあるね」

「そんなあたしが、無償であたしのベッドに上がらせてあげてるんだから、駿ちゃんはもっとあたしに感謝すべき」

 

 いい年の男女が一つ屋根の下、しかも狭めの部屋で同じベッドで寝転んでいるのに、一度も間違いが起きないなんて、僕と花火くらいのものではなかろうか。いや、いとこだから間違いは起きないか。

 そう花火に言ったら、

 

「三等親以内じゃなかったら、親戚でも結婚できるよ」

 

と、返された。なんだかばつが悪くなって


「ていうかさ、花火は人のもの、すぐ欲しがるよね」

 

なんて無理矢理な話題転換を行った。

 花火は少し不服げに、

 

「そうかな」

 

と答えた。 

 僕は思い出した。幼い頃、僕も花火もちっちゃかった頃、二人で遊んでいたら悉く花火は僕の玩具を欲しがった。しかも、無理矢理僕から力づくで奪うのではなく、

 

「いいな、欲しいな、貸してほしいな」

 

と、僕に譲るよう仕向けて手に入れるスタイルだった。

 

 そして僕から奪った玩具も、違う玩具で遊び始めた僕を見つけたら放り出して、新たに僕の玩具を取り上げる。まさにジャイアニズム。

 

「今は何人の彼氏がいるの?」

「なに、四番目の彼氏に立候補する?」

「しない」

 

 この、いいな、欲しいな攻撃は、現在は僕以外にも使われており、その餌食になったカップルたちは数知れない。

 

「一番目の彼氏は、もう少しで相思相愛になる女の子を差し置いて付き合ったじゃん。二番目は確か、花火と彼氏が浮気したのに彼女が気付いたから向こうのカップルが途中で別れたじゃん。三番目は?」

「まだ付き合ってる。ばれてないと思うけど」

「どの子の彼氏なの?」

「あたしに香水くさいって言ってきた女の彼氏。彼氏がつけてた香水なら臭くないでしょ」

 

 これはいつも思うのだが、花火は誰彼構わず好きになって付き合うというより、何か別の目的があって付き合っている感じだった。

 

「どうして人のが良く見えるんだろうね。僕は他人の手垢が付いているものは気持ち悪くて欲しくならないけど」

「別に良く見えるから欲しいんじゃないの」

 

 静かな声で反論されて、背中を向けていた花火の方へ向き直った。花火はずっと、僕の背中を見詰めていたらしく、寝返りを打ったら鼻先が掠る距離に花火の顔があった。

 

「幸せそうにしている人を見ると、その幸せが欲しくなるの。だから、それを分けてもらおうと思って。でもいざ分けてもらっても、全然幸せに感じない、どうしてあの人たちはあんなに幸せそうだったのかしらって不思議に思うの、いつも」

「まさしく悪女だね、自分の幸せのために他人の幸せをぶち壊すなんて」

 

 パチパチと人工的な睫毛が上下する。ツケマツゲなんて、近くで見たらすぐに偽物だってわかるもんだなあ。そんな風に女性に疎い自分は、女性の努力の結晶を笑ってしまう。だからモテないんだろうな。

 

「じゃあ花火はどうしたら幸せになれるんだろうね?」

「本当に欲しいものが、手に入らないから、いつまでも不幸せなの」

 

 ぎしりとベッドが軋んで、花火が覆い被さってきた。鼻腔を擽るのは、男物の柑橘系。他所の男の手垢がついた匂い。

 

「本当に欲しいものって?」

「わかるでしょ、駿ちゃん」

「わからないよ」

 

 そっと花火を剥がしてベッドから降りる。僕にはわからなかった。それが常套手段なのか、花火の本心なのか。だからいつも怖くなって、わかろうとしなかった。

 

「……僕は、その香水、嫌いだよ」

「なら捨てる」

 

 即答してゴミ箱に投げ込まれた香水の瓶を、僕は緩慢な動作で拾い上げた。蓋が開いてしまって、中身がゴミ箱の中に溢れた所為で、部屋の中に爽やかで甘い、香水の匂いが満ちた。中身は辛うじて少し瓶に残っていた。

 

「駄目じゃない、これは花火への好意で与えられたものなんだから。簡単に捨ててしまうなんて失礼だよ。貰ったものは大切に、本当は欲しくなかったなら、ちゃんと断らなきゃ」

「あたしは、あたしにくれるものは何だってもらうだけ。いらなかったら捨てて何が悪いの? どうして、あげると言われたものを拒否しないといけないの?」

 

 子どもの癇癪のように花火は顰めっ面で捲し立てた。僕は香水を机に置いて、諭すように花火に言った。


「でもこれは向こうがすすんでくれたんじゃないでしょ? 花火が欲しがったからくれたんでしょう。それなら普通に貰ったものより大切にしないと」 

「そんなの知らない。貰ったものに上も下もない。貰った時点であたしのもの、あたしの好きにして良いものなの」

 

 僕は花火の気持ちがわからなかったし、花火も僕の言い分に納得がいかなかった。男と女だからだろうか。善悪の価値観に大きな隔たりがあるからだろうか。僅かに同じ血は流れている僕たちでもわかりあえないのに、他人がわかりあえる筈ない。

 だから、花火はクラスの女子に嫌われる。けれど、花火はクラスの女子の恋人に愛される。

 

「花火を好きだと言って、それをくれた人に悪いと思わないの」

「思わない、何か渡したから、必ず返ってくるなんて考え、傲慢よ」

「そっか」

 

 確かにそうだな、何か渡して必ず返ってくる世界なら、花火は僕にたくさんのものを返さないといけなくなるもんね。

 

 そんな風に言うと、とうとう花火は泣き出してしまった。困った僕は

 

「何か甘いもの、買ってきてあげる」

 

と、立ち上がった。花火は泣きながら、恨めしそうに僕を睨んで、

 

「返してくれないのは駿ちゃんの方よ。花火がたくさんあげても返してくれない、返して、返してよ!」

 

なんて、激昂した。ますます弱ってしまった僕は、花火に言った。

 

「わかった、返すよ。でも、何を返せばいいの?」

「……もういい」

 

 花火は不貞腐れたように言って、

 

「ミカンゼリーが良い」

 

と、甘いものをリクエストしてきた。僕は、わかった、と言ってそのまま花火の部屋を出た。

 そしてそのまま、自分の家に帰った。もう、あんな部屋に戻るのはごめんだった。

 

 僕たちの善悪の価値観に、大きな隔たりができたのは、幼い頃からの積み重ねだった。

 僕は花火が好きだった。だから、僕のものを取り上げる花火を許してあげた。けれど、人にものを取られる敗北感を覚えてしまって、人のものを取ることは悪いことだと思うようになった。

 花火も僕が好きだったんだと思う。だから、僕のものを欲しがった。そして、その時に人のものを手に入れる優越感を覚えてしまって、段々と、僕よりも、人のものを奪うことを好きになってしまった。それを悪いことだなんて、一切思わずに。

 だから、僕は花火を好きじゃなくなろうとした。花火が人のものを奪うのと同時に、人のものになったからだ。人にものを取られるのが、どれだけ辛いことか、よく知っている。

 花火は間接的に僕を好きだと、たびたび言い寄ったけど、僕はわからないふりを通した。好きじゃないとは、どうしても言えなかった。

 

 あの香水は、花火が奪った人の男から、花火が奪ったものだ。そんな匂いに満ちた部屋なんて、反吐が出る程気分が悪くなる。だから逃げ出した。

 花火は、悪の匂いが満ちた部屋で、僕の帰りを待っていた。花火を他の男から奪おうとしない、僕を悪だと恨めしく思いながら。



***


 僕が花火とは付き合わなかったのは、彼女が悪いことをしているのが許せなかったからだ。なのに、今の自分はどうだ?


 花火よりも相当悪いことをしていて、そんな僕を彼女は微笑みながら許すと言う。それを、とても嬉しく思っている自分に気が付いて、恐怖した。


 これ以上は駄目だ。

 そう、残っていた理性が、欲望をねじ伏せるように


「君といたら僕は駄目になってしまう!」


と、叫ばせたのだった。

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