ティエド・ウルー


 ぬるま湯に浸ったような幸福感は、人を駄目にする。

 最近の小林を見ていると、ついそんなことばかり考えてしまう。

 

 元々、小林と私はランドセルを背負ってる頃からの知り合いだから「昔と違う」と、余計にそう感じるのかもしれない。だがしかし確実に、小林は、同じ部活の吉岡先輩とお付き合いをして、そして別れてしまってから、腑抜けて生気を感じさせない面になった。

 しかも眼だけは殺気立っているようにギラついているのだから、質が悪い。




 小林は昔からお節介というか、世話好きな奴で、誰でも分け隔てなく接していた。件の吉岡先輩と付き合ったきっかけも、別れてすぐで弱ってるのを見過ごせなかったと言っていたっけ。

 

 良い奴だとは思うが、ただ、少々思い込みが激しいところもあって、喧嘩が起きている場面に遭遇した時に、先に手を出した方が悪いと理由も聞かずに断罪したり、ちょっとしたじゃれあいを見ていじめだと騒いだり。

 全て正義感からくるものだったのだろうが、とにかく人との衝突が絶えない男でもあった。

 

「血気盛んで熱過ぎる小林と、冷めてる井上でちょうどバランスがとれるな」

 

なんて、学校の先生にもよく言われたものだ。熱くなって暴走する小林に、冷や水をかけて止めるのが私の役目だった。

 吉岡先輩が現れるまでは。

 

「あの人といると心が穏やかになるんだ」


 吉岡先輩と付き合い始めた頃の小林は、今までの血の気の多さが嘘のように落ち着いていた。彼女が小林の庇護欲をそそれば、それに応えるように穏やかに彼女を甘やかそうとする。

 悔しいけれど、彼女は小林を大人の男に成長させていっているようだった。

 

 長年私にはできなかったことをいとも簡単に。

 

 小林の煮えたぎった正義感を、ゆっくりと薄めて心地よいぬるま湯に変えてしまったのだ。


 


 ぬるま湯の幸福はなかなかに厄介だ。一度知ってしまった心地よさを手放したくないともがいて、気がついた時には、のぼせ上がってしまっている。

 のぼせたとも気がつかずに固執して、益々正常な判断ができなくなって、結局そこから抜け出せなくなるという悪循環を繰り返してしまうのだ。


 例えば、性格の悪い美女と冴えない男のカップルがいるとする。女は男にとって高嶺の花で、男は女にとってただの金蔓だ。けれど男は女を心の底から愛していて、金蔓だと思われても、付き合っていられるならと、貢ぎ続ける。

 金をもって愛とする、そんな男を金蔓以外の存在として見ろというのも、ある種難しい話だ。女は益々男に対して愛する気持ちなんて芽生えなくなるだろう。


 端から見れば、本当に理解し難い話で、どうしてそれを幸せなんだと思い込めるのかわからない。けれど、男にとってそれ以上の幸せはなくて、無様な姿を晒しても、その幸せに縋りつきたくなるのだろう。


 知らない人間が駄目になっていったって、無様に縋りつく様を見たって、

 

「馬鹿じゃないの」

 

と、鼻で笑っておしまいだけど、のぼせ上がっているのが幼なじみの、しかも長年の思い人だったら話は別だ。

 

 今まで通り、どうにか自分が頭を冷やしてやらなくてはという使命感に駆られ、何度も説得したのに、小林ときたら聞く耳すら持ってくれない。持ち前の思い込みの激しさで、彼女と自分は愛し合っているのに無理矢理引き離されたのだと。

 

 そして、今も彼女は自分を必要としているというのだ。あの人が、小林と別れてからすぐ、違う男と付き合っていたと知っているくせに。


 


「吉岡先輩」


 講義終わりを待ち伏せして、呼び掛けた声にゆっくりと振り向いて応えたこの女こそ、憎き恋敵だ。

 

「ええと、あなたは小林くんのお友達の、確か」

「井上です」

「ごめんなさい、井上さんね。私に何かご用かしら」


 微笑みながらそう問い掛けてくる姿は、小林の言葉を借りるなら貞淑そのものだ。確かに見た目や仕草、話し方は控えめかつ淑やかで、自分とは正反対の育ち方をしたのは明らかだけれど。

 

 元々、吉岡先輩は学内ではちょっとした有名人だった。残念ながら悪い噂の方で。特別美人というわけでも、派手な部類の人間でもないのに、男をとっかえひっかえしているらしい。付き合った男は、抜け殻みたいになったり、凶暴化したり、いずれにしても駄目になってしまって、そしてすぐに別れてしまう。

 しかも、最近は恋人がいる男ばかりと付き合っていると。

 

 まったく、反吐がでる。何が貞淑か、淑女が等しく男を駄目にしたり、人のものにばかり手を出したりする生き物だというのか。噂話というのは嫉妬や羨望の尾ひれ背びれとついて、下世話な歪曲がなされているかもしれない。

 だとしても、火のないところに煙は立たないというのが私の見解だ。


 誰がなんと言おうと吉岡先輩は危険人物なのだ。小林がおかしくなったのは、この人の所為なんだから。

 

「お時間取るのも申し訳ないので、単刀直入に言いますね。失礼ですけど、もう小林に良い顔するの、止めて下さい」


 他に男がいる癖に、という台詞はさすがに喉元でギリギリ飲み込んだ。そんな私の言葉に彼女は驚くでも、傷つくでもなく、頼りなさげに眉を下げた笑顔を浮かべて、

 

「井上さんは、小林くんが好きなのね」

 

と宣った。酷いと泣き崩れたり、そんなことしてないと怒ったり、というのを想像していたので、なんだか少し拍子抜けしてしまった。それよりも、覇気のない笑みになぜかこちらが気圧されてしまう。

 

「ごめんなさい、私本当に駄目な人間なの。小林くんとはもう付き合えないって何度も言ったんだけれど、はっきり拒絶することもできなくて。好きだと言ってくれる彼に甘えているのね。そんな態度がもっと小林くんを傷つけてるってわかってるんだけど。

 

 でも、貴女みたいに小林くんのことを真摯に思ってくれる人がいるなら、きっと大丈夫ね」

 

と、心底嬉しそうに言うものだから、捲くしたてられているわけでもないのに、口も挟めず、何も言い返せない。

 いや、そもそも言い返すことなんてないのだ。全部その通りだと思っていることなんだから。

 

「ねえ、井上さん。貴女からも小林くんに言ってくれませんか。私なんか、小林くんに相応しい女じゃないって」


 彼女は私が思い描いていることを透視しているのではないかと思うほど、私が脳内で彼女に浴びせていた言葉を紡ぐ。

 願ったり叶ったりの展開の筈なのに、気分が晴れないのは、どうしてだろう。

 

「あなたに言われなくても、もう言ってます」


 込み上げてくる悔しさの正体は見ないようにして、彼女を睨みつける。それなのに、頼りなく儚げな佇まいで、男に依存するしかない、か弱い筈の眼前の女は、少しも怯まない。

 

「それでもあいつ、聞かないから。はっきり拒絶してやって欲しいんです。もう小林のことは好きになれないって」


 頭を下げてそうお願いし、再び彼女と顔を合わせた時、漸く吉岡先輩から笑みが消えていた。そしてひどく真面目な顔で

 

「井上さんの、言ってることは当然だと思うし、私も本当はそうした方が良いんだってわかってるわ。でも、それは無理なの、できないのよ」

 

と言った。一瞬、何を言われたのか本当に理解ができなかった。そこからワンテンポ遅れてやってきた怒りにカッとなって

 

「できない? どうして? 他に男がいる癖に!」


 先ほどは飲み込んだ言葉をぶつければ、

 

「だって、私、小林くんのこと、好きなんだもの」

 

と、至極当然というように彼女は言った。

 

「本当に嫌な女なの、私。誰かに一番に思ってもらえるような人間じゃないの。小林くんは本当に好きよ。でも、私を一番に思ってくれる彼とは付き合えない。小林くんを好きになることはないって嘘を吐いたところで、彼、私の眼を見たら嘘だってわかってしまうわ」


 だから、それはできないの。

 噛んで含めるように説明する彼女は、宇宙人か何かで、私には理解できない言語を話しているみたいだった。

 

 それが本当に恐ろしくて、

 

「もういいです」

 

と早口で呟いて、その場を急いで離れた。得体の知れないものと一秒でも早く別れたかったのだ。


 あの人はおかしい。常識とか、価値観とか、倫理観とか。私が正しいと思っていることすべてを、わかり合えない。

 

 小林以外にも好きな男はたくさんいて、小林が自分のことを好きなのを知っていて、それを利用している。そんな滅茶苦茶な女なのに。


 彼女の言った通り、小林が一番愛しているのは、小林を一番に愛している私じゃなくて、あの女なのだ。


 悔しい。悔しくて、悲しい。

 それでも、私はどうしても小林が好きなのだ。好きでいることをやめられない。だからこそ、私が小林をぬるま湯から引きずり出してやらなくては。




 大学を出て、まっすぐ小林の家に向かった。呼び鈴を押せば、おばさんが出てきて、上がってやってと、疲れた笑顔で家に迎えてくれた。

 

 小林があの女と付き合っておかしくなってから、おばさんも随分やつれてしまった気がする。それがいたたまれなくて、挨拶もそこそこに


「部屋上がるね」

 

と足早に立ち去り、小林の部屋の扉をノックした。けれど返事はなくて、躊躇いがちに扉を開ければ、小林はベッドに腰掛けてぼんやりと空を見つめていた。

 

 その姿を見た瞬間、色々と冷静にさっきのことを説明しようと整理していた筈の言葉は弾け飛んでしまった。私の知っている小林は、ずっと好きだった男は、こんなのじゃない。

 

「お願い、小林。もう吉岡先輩に関わらないでよ。あの人、おかしいよ」


 縋りついて訴えても、聞いているのかどうかもわからず、こちらを見向きもしない小林に涙が溢れてきた。

 

「小林、あの人に関わってからおかしいよ、こんなの小林じゃない。私の好きだった、ずっと、吉岡先輩よりも前から好きだった本当の小林じゃないよ!」


 滲む視界の小林は、声どころか私のことなんて見えてすらいないみたいだった。あの女のこと以外見えないみたいに。

 

「ねえ、今日吉岡先輩に会ってきたの。あの人、小林のこと好きだけど、小林が一番にあの人のこと好きだから付き合えないんだって!」


 泣き叫ぶように、先ほど吉岡先輩が言った言葉を伝えれば、初めて小林が私を視界に捉えたように見つめてきた。

 

「お願い、小林、私小林が好き。ずっと好き。吉岡先輩よりも小林のこと、一番に考えてる。だから、お願い」


 あの人よりも、私を好きになって。

 嗚咽混じりの十年越しの告白は、懇願するような声だった。自分が発した声の筈なのに、なんだか知らない女の声みたいだ。


 訪れた沈黙に怯えて、震えた肩に、そっと小林の手が回って

 

「井上、ありがとう、わかった。俺、お前のこと、好きになるよ」


 その手に、言葉に、小林の嵌まって抜けられないぬるま湯の中に、一緒引きずり込まれてしまった気がした。

 ミイラ取りがミイラになるとはこのことだ。

 それでも、もう遅い。

 

「嬉しい、小林、私がなのね」


 のぼせ上がって、私もきっと駄目になってしまう。

 私は、小林にとって一番の女になれたのだ。そしてそれは同時に、小林にを与えてしまった。

 

 それでも、ぬるま湯の幸せを覚えてしまった私はきっと、ここから逃げ出すことはできないだろう。



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