レ・キャロットゥ・ソン・キュイットゥ

石衣くもん

コンポート・グローブオキュレール

「水底に沈んだビー玉みたいだ」


 今まで異性から言われた言葉の中で、一番印象に残っているのはこれだった。言ってきた相手のことは、もう殆ど覚えていないけれど。

 確かその時、私はラムネの瓶の中のビー玉を思い出した。あの甘ったるい炭酸に浸った、無色透明なガラス玉は底に沈むことを阻まれ、瓶の途中で水没している。そんなことをぼんやり思い浮かべ、それから、何のことと尋ねた。


「何って、眼だよ、君の眼」


 そこで漸く、その形容が私の眼球を指しているのだと知ったのだ。しかもそれが、綺麗だよと続いたことから、賛辞だったということも。


 目は口ほどに物を言う、なんて慣用表現があるけれど、私はそれを体現化しているらしい。目を見ただけで機嫌や感情が手に取るようにわかるよ、とも言われた。これは何度も何人にも良い意味でも悪い意味でも。


 とにかく私の眼球はお喋りだそうで、持ち主が何か言う前に、何でもぺらぺらと伝えてしまうようだ。ようだ、なんて推定表現なのは、あくまで無自覚な性質のためである。

 特にその力を遺憾なく発揮するのが、恋愛面においてだった。


 私はよく、単なる知り合いからは、彼氏なんていたことないよね、という扱いを受けるのだが、実際もう何人もの人と付き合い、そして別れてきた。確かに見た目は派手ではないし、特別美人なわけでもない。どちらかというと地味で目立った特徴もなく、高校までは一人で教室の片隅で本を読んでいるような子だった。しかし、その間、別れた直後以外に付き合っている人がいない時期はなかった。


 この話を深く関わっていない人にすれば、ほぼ百パーセントの確率で驚かれるのだ。ファーストキスも中学一年生の時だった。ただ、ファーストキスといっても、こちらの意見も聞かずに突然奪われた事故みたいなものだったのだが。そう言えばその時にも言われたっけ。


「だってキスして欲しそうな目、してたから」


って。

 キスして欲しそうな目って、どんな目かしらと不思議に思ったが、自分では意図してないのでどんな目なのかはわからず仕舞いだった。


 ただ、好きな人を見ると自然に目が潤んでくる体質ではある。もしかしたら、その人が潤んだ目を見てそう感じたのかもしれない。別に涙腺が弱い為に、いつでも泣いているわけではなくて、辛い時とか悲しい時とは違う、別の種類の涙が生まれてくるのだ。好きな人を見詰める時に浮かぶ涙は飴を煮つめたような甘さを含んでいる。


 だから、あながちラムネの中のビー玉と似ているというのは間違っていない感覚なのかもしれない。恋をする私の眼球は、シロップのように甘い涙に包まれる。

 ちょうど、岡崎さんと対峙している、今みたいに。




 岡崎さんと知り合ったのは大学生になってからだった。大学に隣接する潰れそうな喫茶店の店長さんで、狭い店内にはお昼時だけ、肩身の狭い喫煙者がひしめき合っていて、彼はその煙の中でいつもぼんやりと本を読んでいた。

 その頃の私は煙草を毛嫌いしていて、あんな店、絶対に行くものかと思っていたのだが、当時付き合っていた二つ年上の加治さんがヘビースモーカーで、その店を好んでいたのだ。


 何度目かのデートの待ち合わせ場所に指定され、初めて足を踏み入れた時、正直者の私の瞳は迷うことなく涙を澪した。加治さんから「少し遅れる」という連絡を見た瞬間、更に眼球を包む水量が増したように覚えている。 

 とりあえず珈琲を頼んで、ずっと俯いていたら、珈琲を運んできた彼が、


「こちらへどうぞ」


と、店の一番奥のカウンター席を指した。へ、と間抜けな声を上げた私に、もう一度、どうぞと告げ、彼は運んできた珈琲を指示した席へと置いた。不審に思いながらも指定された席に移動すると、彼は再び定位置であるカウンターの向こう側に座り、何かのスイッチを入れてから読書を再開させた。途端に鈍い音がして、そんな所にあったのか、と思わせる換気扇が回り始めた。

 依然、店内は煙たい状態だったが、私の座っている席だけ古びた換気扇が僅かながら煙を取り除いてくれる。


「音がね、嫌いなんですよ」


 読んでいた本を閉じ、彼が話しかけてきた。


「換気扇の、ですか」

「この音の割に仕事をしないでしょう。だからあまり回したくないんです」


 その言い分があまりにも理不尽で、思わず吹き出すと、彼も少し微笑んで、


「煙草駄目なのに、なんでこんな所に入ったの」


と尋ねられた。どうやら私が入ってきた瞬間から、煙草が駄目だとわかっていたらしく、すぐに出て行くものだと思ったら、案外長居するもので場所を移させたらしい。

 私は此処に来た経緯と長居する理由を話し、少し恋人の不満を漏らした。思えば、この瞬間から既に瞳の水分の糖分は形成されていたのかもしれない。

 彼は優しく相槌を打ち、私が話し終えるとにっこり笑って


「そんな屑野郎、別れておしまいなさい」


と言った。

 あまりの衝撃に絶句していると、彼は淡々と、


「それなりに付き合って時間が経ったなら、貴女が煙草駄目なの、わかってるはずでしょう。それなのに待ち合わせ場所をこんな所にして、あまつさえ遅刻するなんて」


と続けた。

 初対面なのに、とか、彼は此処の常連なんじゃないの、とか思うことはたくさんあったけど、一番驚いたのは自分が喜んでいることだった。

 持て余した喜びに戸惑う私の元に、漸く恋人がやってきた。あの人は何も言わないで再び読書へと戻っていった。




 私はそこの常連となった。加治さんとの待ち合わせはいつも岡崎さんの喫茶店にして、講義の空き時間も足繁く通った。岡崎さんと話すのは楽しくて、煙草で滲む生理的な涙は充分に甘くなっていたことだろう。

 それに反して恋人の加治さんを映しても、私の眼球が潤むことはなくなっていった。彼はそれに気付いてか、私に対して今まで以上に甘やかすような態度をとってくれたけど、私の瞳は乾くばかりだったのだ。


 そんなある日、岡崎さんが妻帯者であることを知った。ショックで本人を前にして泣きそうになったが、ぐっと堪えた。彼は嬉々として奥様の魅力を話すから、余程奥さんが好きなのだと。鼻の奥がつんと、痛くなって、上手く笑えていたかわからない。

 けれど、何も言われなかったから、多分大丈夫だったのだろう。私の目に比べて、私自身は正直者ではないのだから。




 結局、加治さんとは別れた。最後に彼は私に、死ねブス、と吐き捨てた。少し悲しくはなったけれど、なんの未練もなかったのだろう、涙は一滴すら流れることはなかった。


 彼のことは好きじゃなくなったが、私にとって彼と別れるのは困ったことだったのだ。新しく自分の目を甘く潤ませてくれるあの人には、奥さんがいる。流石に略奪する勇気も元気も、あと自信もなかった。


 けれど、好きなのにかわりはなかったから、喫茶店には訪れ、ついでに別れたのだということも報告しておいた。彼は私の頭をぽんぽんと撫でて、


「次はもっといいのを捕まえなさい」


と言った。

 私は、貴方が良いです、と心中で呟いて、別れたのが辛く泣いている女を装った。澪れる涙の甘さには気付かないふりをして。




 あの人を想う気持ちはあっても、やはり人の物を奪うのには抵抗があったし、何よりあんなに奥様のことが好きな人を振り向かせられるとは思えなかった。だけど、誰か傍にいてくれないと寂しさで息が詰まってしまう。その結果、私の眼球はいつも僅かな甘さを持って異性を見詰めるようになっていた。


 その視線に気付いてくれたのが小林君だった。

 小林君は部活の後輩で、気さくだけど何にでもよく気がつく子だったから、私の異変を感じ取ってくれたらしい。


「どうかしましたか」

「別れて辛いんですか」

「酷いこと言う人だったんですね」

「僕なら先輩を泣かせません」

「先輩、僕と付き合ってくれませんか」


 最後の台詞を言ってくれたのは、加治さんと別れてから一週間後のことだった。一週間という短い時間の中で、小林君を映す眼球は、見事に甘美な糖度を含んだ涙を形成するまでに至ったのだ。


 私はすぐに岡崎さんに報告しに行って、彼は祝福してくれた。しかし、私は複雑な気分だった。何故なら、小林君を見詰める時以上に、やっぱり岡崎さんを見詰める眼差しが甘く湿るのを自覚してしまったからだ。




 小林君は優しかった。付き合う前から優しかったけれど、その優しさの種類が変わったのだと思う。年下だった彼は背伸びをするように、私を支えようとしてくれた。それは純粋に嬉しかったし、何より愛おしいと思ったけれど、喫茶店に通うことは辞められなかった。


 そんな私の行動に、聡明な彼が気付かない筈もなく、あの喫茶店にはもう行かないで下さいと頼まれた。理由はとってつけたように、煙草の副流煙は身体に悪いから、と付け加えて。小林君のことは本当に好きだった。彼を不安にさせるようなことはしたくなかったのも本当だ。


 だけど、私の脚は自然と岡崎さんに向かい、まるで中毒者のように彼を見詰めなければならなかった。

 小林君が、泣きながら私の頬を張って、行くなと懇願した日だって、結局私はカウンターの一番奥の席に座って、幾分か嫌いじゃなくなった煙草の匂いを身に纏ってしまっていた。




 結局、小林君とも二ヶ月保たないうちに別れてしまった。そして、彼は部活も辞めた。

 別れる、というより別れさせられた、といった方がいいかもしれない。


 小林君の私への暴力は日に日に酷くなっていて、部活内でも心配されていた。特に部長が心配してくれていて、何度も小林君に話をつけようかと言ってくれていた。その度に大丈夫だと笑って誤魔化していたのだが、流石に


「その目が男を誘惑してるって言ってるだろ!」


と右目を殴られて、私が眼帯をしていったことから、部長が仲裁に入って話し合いをし、小林君とはお別れをすることになったのだ。

 加治さんの時とは違って小林君と別れるのは悲しかった。だから、話し合いが終わって彼が出て行き、部長と二人きりになった時、涙が止まらなくなってしまった。


 初めはどうにか宥めようしてくれていた部長だったが、突然その場で押し倒されて、


「ごめん、寂しそうな目してるから、ごめん」


と言われた。止めどない涙に甘味が混ざるのに気が付いて、ああ、今度はこの人か、と目を閉じた。




 部長と付き合い始めても、岡崎さんへの想いがなくなることはなかった。部長は喫茶店に行くことについては何も言わなかったけれど、その代わり私の授業の取り方やアルバイトのシフトまで、スケジュールを把握し管理していた。別に窮屈だとは思わないけれど、喫茶店に行ける日が極端に制限されるのは辛い。

 そのことを岡崎さんに言ったら、いつになく真剣な顔で


「君は一体何回ハズレを引いたら気が済むの」


と叱られた。

 叱られて、悲しい筈なのに、私はにやけてしまいそうになるのを必死で堪えていて。嬉しい、岡崎さんが私のことを考えて叱ってくれてる、なんて。

 その日はそれで目に見えてご機嫌だった私に、部長も嬉しそうで、


「なんか良いことあった?」


と優しく聞いてくれたから、つい、岡崎さんの話をしてしまった。その途端、部長は豹変したように激昂し、私の首を絞めた。咄嗟の抵抗もできず、私は強かに床に身体を打ちつけ、ぼんやりとしてくる酸欠の脳で考える。どうして部長が泣いているのかなあ、って。


 もらい泣きなのか唯単に苦しいからか、私の目からも涙が溢れ、頬に伝って、そこで漸く彼は正気に戻って私から飛び退いた。

 咳き込む私を震えながら見詰め、何度もごめん、ごめん、と繰り返す彼に、この人は謝ってばかりだと可笑しくなった。

 あまりにも謝るから、可哀想になってきて、


「いいですよ、気にしないで下さい」


と微笑んだら、彼は目を見開いたまま一瞬固まって、発狂したように叫んだ。


「君といたら僕は駄目になってしまう!」


と。




 勿論、部長とも別れた。いつも通り、変わりはすぐにできた、アルバイト先の店長さんだった。彼も優しかった、付き合った当初は。

 私は岡崎さんに部長が言ったことを話した。駄目な男と付き合っているのではなく、自分と付き合ってから駄目な男にしてしまっているのではないかと。

 岡崎さんはいつものように淡々と、


「確かにそうなのかもしれないね」


と言った。その後、


「その店長さんにも気をつけなさい」


と言われた。私が「はい」と返事をすると、


「もし隙を見せてヘマをしたら縁を切りますよ」


と、以前加治さんと別れろと言った時と同じ顔で言われた。

 この頃にはすっかり煙草の匂いも煙も嫌悪することを忘れてしまっていた。




 店長は、三十代前半で割と強引な人だと段々わかってきた。アルバイト先でもところ構わず私の身体に触ってくるような人で、別に何とも思わなかったが、岡崎さんとの約束があったからちょっと嫌な振りをした。

 けれど、その度に、


「嘘吐くな、物欲しそうな目をしてるくせに」


と詰られた。確かに、そこまで嫌ではなかったから、正直な私の目を見れば嘘だとすぐにわかってしまったのかもしれない。

 店長は身体を繋げる時も勝手で、避妊なんて考えもしない人だった。これには流石に私も嫌がったが、お構いなしだ。


 あともう一つ嫌だったのが、店長が喫煙者だったことだ。今まで付き合った人の中にも加治さんみたいなヘビースモーカーや、喫煙者はいたはずなのに、何故か今は嫌だと感じた。もはや煙草にも慣れ切っていたにも関わらず、キスする度に伝わる煙草の味が嫌で嫌で仕方がなかったのだ。

 私は岡崎さんに相談した。勿論、私は嫌がっているから、隙を見せているわけではないと弁解して。

 岡崎さんは、いつもの如く


「別れておしまいなさい」


とだけ言った。

 私は何だかそれが無性に悲しくて、逃げるように喫茶店を後にした。




 その日の晩、私は今までのことをぼんやりと考えていた。

 ファーストキスを奪ったあの人は、その後私をパシリのように扱うようになったから別れた。

 次に付き合ったご近所で幼なじみの高校生は私にお金を無心するようになったから別れた。

 その次は、友達だと思っていた女の子の好きな人だった。割と上手くいっていると思っていたが、友達がクラスの女子全員を巻き込んで私に嫌がらせをするようになってから、疎遠になって別れた。

 その次は、その次は、その次も。


 皆別れたし、皆別れた後、縁が切れて二度とこの目に映ることがなくなった。

 ビー玉だと言った人はなんで別れたっけ? そもそもどうして付き合った人だったっけ?


 でも結局は別れてしまった。その結果になったのは、部長が言うように、私が皆を駄目にしてしまったからなのか。もしそうなら、岡崎さんだって。

 皆、最初は優しかった。加治さんだって、小林君だって、部長だって。友達だと思っていたあの子だって、凄く優しかったのだ。でも、その優しさを、私は踏みにじってしまう。

 この目で見詰めた人を、不幸にする。あんなに優しかった人達にあんなことを言わせてしまったのも、あんなことをさせてしまったのも、全部私の所為だ、きっとそうだ。


 私は岡崎さんに、優しい岡崎さんのままでいて欲しいと思った。だからこそ、私は岡崎さんの傍にいてはいけないし、彼を見詰めてはいけない。

 だから、私は岡崎さんに別れを告げるべく、今、彼と対峙しているのだ。




「それで?」


 わざわざ人気のない開店直後に訪れ、私なりに赤裸々に要点を纏めて話したつもりだったが、岡崎さんは不思議そうな顔でそう尋ねてきた。


 自分が人を駄目にすること、岡崎さんもきっと駄目にすること、だからもう喫茶店には来ないこと。


 それをもう一度告げると、今度は少し顎に手を置いて考える所作をとった。そして、


「どうして来なくなるんですか」


と、甚だ疑問だと言わんばかりに首を傾げた。


「だって、このままじゃ、岡崎さんだって」

「僕は、貴女ごときでおかしくなったりしません、見縊らないように。後、貴女はいい加減、自分が男を見る目がないのに気付きなさい。どうせ今の糞野郎と別れてもすぐに寂しくなって新しい屑野郎を捕まえるでしょう。そうなるくらいなら、此処に来て寂しさを紛らわしなさい、いくらでも相手をしてあげます」


 これは自分の作り出した都合のいい妄想か、夢を見ているのではないかと。そう思うくらいに、彼の言葉は私を舞い上がらせる。しかし、これは紛れもない現実なのだと、伸びてきた彼の掌が髪を撫ぜる感覚に認識させられた。


 これ以上、勘違いをさせるようなことはしないで欲しいのに。優しくしないで欲しいのに。


「それは、どういう意味ですか」

「そのままの意味です。僕は妻を愛しています、それは変わりません。でもね」


 この時、煙草の匂いが染み着いた店内で、初めて、岡崎さんが煙草を吸わない人なのだと知った。


 優しい人だと知っていた。狡い人だともわかっていた。そして、この人もきっと、元々駄目な人なのだということも。

 けれど、いや、だからこそ。この眼球は甘ったるいシロップに浸ったのだろう。


「客の中では貴女が一番、愛おしい」


 恋は盲目だというけど、確かに私は今、何も見えない。何故なら、眼球が完全にシロップ漬けにされてしまって、使い物にならないから。

 岡崎さんと、結ばれる日が来ないことは私も、岡崎さんもわかっていた。それをわかった上で、こんなことをしたって誰も幸せになれないことだって。

 けれど、私は今この一瞬にこの上ない幸せを感じて、泣いた。


 今、流れている涙は、未だ嘗てないくらいに甘い筈だ。

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