ポーヴル・ファム


 私は可愛そうな女です。


 通常、かわいそうとは「可哀相」もしくは「可哀想」と書くのではないかと問うた私に、旦那は「可哀相」ではなく、「可愛そう」なのだと言いました。哀れで矮小なところが愛しい私を表現すれば「可愛そう」な女なのだと。

 

「それに、『可哀相』も『可哀想』も当て字でしかないから正しくともなんともないよ」

 

 その時も優しい声色で、私が正しいと思っていたことを否定されました。旦那はいつもそうなのです。優しく慈しむ眼差しで、私の信じているものを奪っていくのです。


 勿論、旦那は私のことを愛してくれています。真綿のように柔らかで、真っ白な優しさで、私をくるんでくれるのです。けれどもその真綿は、じわじわと私の首に巻きついて息苦しさも与えてきます。

 そしてその苦しみは、私以外に理解することはできないのです。


 


「佐藤徹子です、小説は書くよりも読む方が好きです。よろしくお願いします」


 大学の時、所属していた文芸サークルで、旦那である岡崎武とは出会いました。人前で話すのが苦手な私が、緊張しながら自己紹介を終えた時に、とても優しく笑って拍手をしてくれたのが彼でした。とても良い先輩がいるサークルなのだと、嬉しく思ったのを覚えています。

 

「佐藤さんは、どんな小説が好きなの?」


 サークルに入ってすぐの時、旦那はコミュニケーションの取り方が下手くそな私にも、何かにつけて話しかけてくれました。何故だかわかりませんが、何の取り得もない私を、彼が気に入ってくれているのは明らかでした。

 周りも私たちが付き合うのは秒読みだと囃し立て、中には私たちがすでに付き合っているものだと勘違いをしている人もいたくらいです。


 私は、私なんかと付き合っていると勘違いされたら旦那に悪いという思いと、他人から見てわかるほど誰かに好意を持たれるという優越感を感じていました。

 

「佐藤さんは、好きな人はいるの?」


 つかず離れずの距離を保っていた私と彼の関係を壊したのは、小説の好みを聞く時と同じトーンで投げかけられた質問でした。

 

「岡崎先輩が、好きです」


 消え入りそうな声で、そう答えた私に、旦那は

 

「知ってたよ」

 

と笑いました。

 出会ってから一年後、漸く付き合い始めた私たちに、周りは


「やっとくっついたか」


とか、


「本当に今までは付き合ってなかったのか」


と、誰一人として私と旦那の関係の変化に意外性も疑問も抱きませんでした。




 付き合い始めてからも、彼はとても優しく、本当に私を愛してくれているのだといつも感じていました。けれど、段々と私はそれが恐ろしくなったのです。


 私は本当に、彼のことが好きなのだろうか。彼のあからさまな好意にいい気になって、周りからの声にその気になっただけなのではないか。そう考え出すと、もう不安が止まらなくなりました。


 なんだか彼が、私の意思を無視して、周りの目すら操作して作り上げた交際に思えてならなかったのです。好きになったというより、好きにさせられたというのでしょうか。


 その不安の所為か、私は段々と心身共にバランスを崩すようになりました。突然、泣き出したり、過呼吸になったりして、友人やサークル内でも遠巻きに見られ、腫れ物扱いになっていったのです。


 そうすると益々、私には旦那しかいなくなりました。旦那は泣き叫ぶ私を優しく宥め、倒れる私を支え、周りから聖人君子のように思われているようでした。

 

「お願いです、もう別れて下さい」


 私は何度も彼にそう切り出しましたが、その度に言いくるめられて別れることはできませんでした。

 

「徹子は、僕がいないと駄目になってしまうよ」

 

と。




 結局、大学を卒業してからも、私は彼と別れることができませんでした。ただ、お互いに仕事もありますし、大学の時よりは一緒にいる時間も減ってきて、私は少しずつですが心が安定し始めていました。

 彼は、それが少し面白くなさそうでした。


 私はしがない不動産屋の営業事務をしていました。わからないことも多かったですが、営業マンにも可愛がって頂いて、この頃は毎日が充実していたと思います。


 しかし、運命の悪戯か、彼の方が神様に愛されていたのか、一年後状況は急転してしまったのです。店舗拡大の為、一支店に事務員が一人になり、私はそれまで働いていた場所から、一つ先の駅の支店に異動となりました。その異動先にはベテランの女性の営業マンがおり、彼女にこっぴどく嫌われてしまったのです。


 最初は声が小さいとか、挨拶がなってないとか、まだ直す余地のあることでした。それが段々と声がむかつくとか、顔が嫌いだとか、私自身を否定する言葉に変わっていったのです。


 日に日に昔の弱い自分に戻っていくようでした。彼はそんな私を心配してくれていましたが、やはりどこか嬉しそうな感じがしました。私はとうとう、いじめに耐えきれなくなり、仕事を辞めたいと思うようになりました。そして、そのことを彼に相談したのです。

 すると彼は少し考えてから

 

「それなら、僕のところに永久就職する?」

 

と、私の薬指にぴったりのシルバーリングを渡してくれました。


 私は嬉しい反面、恐怖を感じていました。付き合い始めた時と同じように、すべて彼に仕組まれているような気がしてならなかったのです。現実問題として、そんなことは勿論できないということはわかっていました。けれど、心のどこかで納得がいかないのです。


 私はそのことを母親に相談しました。当然、母親は

 

「何を馬鹿なことを言ってるの。岡崎くんみたいな良い子、あんたには勿体ないくらいなのに」

 

と呆れかえり、マリッジブルーってやつじゃないの、なんて呑気に言い放ったのです。


 彼はお祖父さんの喫茶店を手伝いながら、フリーライターとして収入を得ていました。まあまあ売れっ子のライターだったようで、

 

「君ひとり養うくらい、祖父さんの喫茶店手伝ってたら充分だよ」

 

と言っていました。実際は喫茶店を手伝わなくても、充分やっていけたのですが、長年お祖父さんが守ってきた店を、彼も守りたいと思っていたのでしょう。


 私はどうにも立ち行かない自分の身を考え、彼を愛していることに違いはなかったので、不安を心の奥底に隠して、彼のプロポーズを受け入れました。




 結婚が決まると仕事を辞め、私は専業主婦として家事に専念することになりました。家事は元々得意でしたし、主人は多めに生活費を渡してくれるので何も困ることはありません。それだけでなく、できることは手伝ってくれて

 

「君のやり方もあるだろうし、何か不満があればちゃんと言葉にしてね」

 

と、言ってくれていました。

 

「本当によくできた旦那さんねぇ」

 

なんて、ご近所の奥様方にも評判が良く、大層羨ましがられました。


 そんな風に旦那を褒められても、私は曖昧に微笑むだけで、何も言えません。褒められて必要以上に謙遜するといやらしいし、かといってどうしても旦那の行いを肯定することができないのです。

 

 だから、初めて旦那の悪い噂を聞いた時、ある種の高揚感を覚えました。

 

「お宅のご主人、この間若い女と歩いてたわよ。なんだかワケアリな感じだったわ」

 

 あんなに旦那を褒めちぎってくれていた奥様方は、すっかり旦那を浮気夫として認定しているようで、口々に私を心配してくれたり、旦那を貶めたりしました。


 私は旦那が浮気するはずなんてないので、ただただ新鮮な気持ちで彼への悪口を聞いていました。だって、旦那は、岡崎先輩は、私のことを一心に愛してくれているのですから。それは驕りでも自意識過剰でもありません。

 

「徹子は、僕がいないと駄目になってしまうよ」

 

という彼は、私がいないと駄目なのです。

 私以外の女に、靡くはずなどありません。そう、高を括っていたのです。




 その日、私は主人のいつも使っている手帳が机に置きっぱなしなのを見つけて、買い物ついでにお店に届けてあげることにしました。喫茶店の入口から入ろうとして、中を覗くと、若い女の人が一人カウンターに座っていました。


 お客さん一人だし、わざわざ勝手口から入らなくてもいいかしら、とも思ったのですが、その時ふと、


「お宅のご主人、この間若い女と歩いてたわよ。なんだかワケアリな感じだったわ」

 

という言葉が、頭を過ったのです。


 私はそっと、中の二人に気付かれないよう、その場を離れ、喫茶店の勝手口の方から音を立てないように中に入りました。

 そして、店内に繋がる扉を開かずに、二人が何を話しているか、耳を澄ませて聞いたのです。

 聞こえてきたのは、

 

「いつも言っているでしょう。貴方のことは妻の次に愛していると」


という言葉で、その声は紛れもない主人のものでした。


 その言葉の次に、彼らがどういった行動をとったのかは、わかりません。でも、その言葉だけで充分でした。彼が私を裏切っていると、確信するには。


 私はその場から逃げるように去りました。頭の中では、何度も何度も主人の言った言葉が巡り、おかしくなりそうでした。

 いや、もうすでに、この時に私の心は壊れてしまったに違いありません。


 可哀想な私。裏切られた私。辛い、苦しい、涙が止まらない私。彼を許せない私。


 辛すぎて、家に帰ってすぐ、死んでしまおうと思いました。靴を脱ぎ捨てて、台所に一直線に向かい、包丁を握り締めました。

 けれど、臆病者の私は握り締めただけで、次の行動にはいつまで経っても移れなかったのです。

 

 そのまま、日が暮れて部屋が真っ暗になっても、包丁を握ったまま動けませんでした。すると、玄関の戸が開く音が耳に入りました。


 ああ、あの人が帰ってきたんだわ。

 不幸で、可哀想、否、可愛そうな私を愛している、あの人が。


「どうしたの電気もつけないで」


 それが、彼の残した最期の言葉でした。


 あんなに動かなかった身体は、彼の心臓をひと突きにしたのです。


 暗闇の中、ぼんやりと滲む視界に捉えた彼は、何故だか嬉しそうに笑っている気がしました。

 きっと、私がますます「可愛そう」な女になったからなのでしょう。

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